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 満ちる。満ちていく。
 注がれていくこの想いは、この器を満たしていく。
 けれど、器が、耐えられなくて。
 強すぎるその想い。壊れてしまいそうだった。
 見えなくなってしまいそうだった。
 
―――アクエリアス―――
 
 胸が痛い。
 心が重い。
 制服に腕を通すたび、この頃そう思うようになった。
 原因ははっきりしていない。ただ、そう思うだけ。
 何が原因なのか。それさえ判れば、何とかなると。
 そう言い聞かせてここしばらくの期間を過ごしてきた。
 判らない。見当もつかない。
 見えなくなってしまっているのだろうか。見落としてしまっているのだろうか。
 時計に目をやれば、既に出発する時間になっていた。
 
 ふう、と密やかについたと思ったはずのため息は、鋭い友人に指摘された。
「志摩子さんはね、いつものんびりした空気を纏っているのよね。だから、落ち込むと判りやすい。空気が変わるから。そこら辺の判りやすさレベルでは祐巳さんクラスね」
「うわ、由乃さん何気にヒドイこと言ってない?」
 いつもと同じ、薔薇の館の昼休み。上級生も下級生も何かしらの用事があるらしく、今は志摩子たち二年生だけがここで昼食をとっていた。
「判りやすい、のかしら」
「判りやすいわね。少なくとも、祐巳さんに看破されている時点でそれは確定だと思うわ」
「むー。由乃さん、ちょっとー」
 でも、と思う。それは、彼女たちだから、ではないだろうか。志摩子にとって大事な友人であるこの二人以外には、まだそのことは気付かれていない、と思う。必死になって、隠し通そうとしたのだ。
「祐巳さんも、そう思う? 私が、落ち込んでいる、って」
「え? ……うん、そうだね。志摩子さん、何かに悩んでいるように見える。それが何なのか良くわかんないけど」
「そりゃそうよ、私たちエスパーじゃないし。でも、志摩子さん。何かあったら、相談してちょうだいね」
 心遣いは嬉しかった。本当に、今にも泣いてしまいそうなほど。
 けれど、これは話したところでどうなるものでもない。
 なにせ、志摩子自身ですら、原因を特定できないのだから。そして、原因が判っても、話せないようなことだって、おぼろげに判っていたから。
 
「志摩子さん? どうしたの」
 立ち止まっていた志摩子を、乃梨子は不思議そうな顔で振り返った。
「ああ、乃梨子。コレよ」
 落ちていたソレを拾って、歩いていく。
 放課後。仕事もそう溜まっていなくて、久しぶりに早く帰れる日だった。日が高いうちに、乃梨子と並んで歩くのも、久しぶりだった。
 銀杏並木の中。乃梨子の顔が、何故か真っ直ぐ見れない。
「落としていたわよ」
 拾ったハンカチを乃梨子に渡す。いつか見たような柄のハンカチだと思って拾ったら、正真正銘本人のものだったから。
 乃梨子は、たまにそういうことがある。
 基本的にちゃんとしていてしっかり者なのだけれど、どこかうっかりしているところがあるのだ。
 そんなことを考えていると、胸が、きゅ、と締め付けられるような感覚。
 乃梨子が受け取ったハンカチを持って、笑った。
 その笑顔が、とても、綺麗で。
「ありがと、志摩子さん」
 
 ずきん、と。心の中がひび割れたような、痛みが走る。
 
「ん、志摩子さん?」
 返事を返さない志摩子を不思議に思ったのだろうか。乃梨子が、顔を覗き込んできた。
 やめて、という気持ちと。嬉しい、という気持ちが。
 ごちゃ混ぜになって、心の中で螺旋を描く。
 知らず、志摩子の足は後ろに下がっていた。
 落ちていた葉を踏みしめる音。その音が、空虚な心に木霊する。
「……乃梨子」
「……志摩子さん? どうしたの、具合、悪い?」
 見れなかった。乃梨子の目を、顔を。
 どうして、どうしてそう思うのか、志摩子にはわからなかった。
 大切なのに。無くてはならないものなのに。
 どうして?
「――ぅっ」
 志摩子は後ろを向いて、走り出した。乃梨子の声が聞こえたけれど、聞こえなかった振りをした。
 悲しそうな声だった。
 そんな声を出させてしまう、自分をどうにかしたいと、志摩子は思った。
 
 落ち込んだり、不安定になったとき。
 この桜のもとへ来る。
 癒されたくて。励まされたくて。
 きっとそれは、乃梨子だって同じだから。そして志摩子のことを、よく判ってくれているから。
「やっぱり、ここにいた」
 すぐに追いつかれてしまうだろうな、って判っていた。
 それでも、逃げなければいけないと、あの時の志摩子はそう思ったのだ。
 そう思わなければ、懺悔も出来ない。
 きっと、言葉を忘れてしまう。それほど、あのときの志摩子は動揺していた。
「どうしたの。私、何か悪いことしたかな。私、たまにあらゆることに関して無頓着になっちゃうから志摩子さんの機嫌を損ねちゃったのかな」
 一歩、一歩。
 乃梨子が、こちらに歩いてくる。
「ねえ志摩子さん。悪いことをしたなら謝るよ。だから、答えてほしいの。こっちを向いて、名前を呼んで、 …急に走った理由を教えて?」
 歩みが止まる。手を伸ばせば触れられそうな位置で、乃梨子は立ち止まった。
 俯いていた顔を上げる。乃梨子の顔が、そこにあった。
 その顔を見て、泣きそうになる。そして、あの、胸の痛みが。
「それとも、志摩子さんは私のこといらなくなった? 私のこと、嫌いになった?」
「違うわ!」
 胸の痛みがあっても。例えどんな責め苦に遭おうとも。
 それだけは違うと断言できる。
 嫌いになんてならない。これより先の人生においてそれは絶対といえる真実だ。
「…違う。違うのよ乃梨子」
「じゃあ、どうしたの。志摩子さん、最近変だった。それと、関係あるの?」
 ばれていた。祐巳さんや由乃さんの言うとおり、きっと志摩子が悩むのは判りやすいのだろう。この分では、ほとんどの人に見抜かれているのではあるまいか。
「…痛いのよ。胸が、痛いの」
「身体が悪いの?」
「違う。 …どうしていいかわからないの。大切なものなのに。失いたくないものなのに。それのことを想うと、胸が痛むのよ。 …わからないの。どうすればいいか、わからない」
 そう、わからない。
 大事なものを想って胸が痛むのも。
 それに向けている感情が、どう言われるものなのかも。
「…志摩子さん。私、志摩子さんのこと好きだよ」
「え、 …の、乃梨子?」
 突然、乃梨子が言った。
「うん。志摩子さんのこと、私は大好き。 …ね、志摩子さん。志摩子さんは、私のことどう思う?」
 さっきまでの悲しそうな顔ではなく、何故だか笑顔になって、そう言った。
「どう、って。わ、わた、私、私は……」
「好き? 嫌い?」
「……………………す、好きよ」
 顔から、火が出そうだ。
 真っ赤になっているというのが、自分でもわかる。
 ああ、祐巳さんが祥子さまといるときはこんな気持ちだったのね、なんて逃避してしまうくらい恥ずかしかった。
 でも、煩わしいことを全部排除して考えれば。その言葉が出るのは必然だったのだ。
 
「私は、乃梨子が、好きよ」
 
 そう、好き。
 乃梨子のことが、好きだ。
 藤堂志摩子は、二条乃梨子のことが、好きです。
 
「…うん、ありがと、志摩子さん」
「ええ、ど、どういたしまして」
 変なやりとりをしている、と思う。
 でも、なんだろう、苦しさが消えて、何か爽やかな風が心を吹き抜けていく感覚。
 重さが、消えて。痛みが、安らぎに。
「志摩子さん、いい顔になった。いつもどおりの綺麗な顔に」
「え、やだ、乃梨子、何を言っているの」
「それにね志摩子さん、私嬉しい。初めて志摩子さんが私のこと『好き』って言ってくれたから」
「あ――」
 そういえば。
 乃梨子に、面と向かって自分の気持ちを伝えるのは、随分と久しぶりな気がした。
 乃梨子は、開けっぴろげなほどに伝えてくれるのに。
 反面志摩子は、直接的な言葉を避けていたかのように、その言葉を口にしていなかった。
「きっと志摩子さんは、自分の気持ちを溜めすぎていたんだよ。好き、っていう水を身体、っていう水瓶に注ぎすぎたんだね。だから、もう入らないよ、って器が悲鳴をあげていたんだと思う。 …その、まあ私の思い上がりじゃなかったら、だけど」
 それは、きっと正しいと思った。
 言わなくても、満たされていて。
 言わなくても、それを汲んでいってくれる。
 そんな関係に慣れすぎていた。乃梨子が悪いのではなくて、その気持ちを外に汲み出す術を用いてこなかった、志摩子が全ての原因だったのだ。
「私はね、志摩子さん。よく口に出しているんだ。志摩子さんが好きって。そうしないとすぐに一杯になっちゃうから。二条乃梨子、っていう水瓶には、志摩子さんが好き、っていう水は入りきらないの。きっと、私があと十人は必要なんじゃないかな」
 そっと。乃梨子が手を差し出してくる。
 握り返して。今まで気付かなかったけれど、乃梨子の顔は真っ赤だった。
 それでも、笑っていた。
 素敵な笑顔だと、思った。
「そうね。 …ええ。私も、よ。藤堂志摩子、っていう水瓶には二条乃梨子が好き、っていう水は入りきらない。だから、ヒビが入ってしまったんだわ」
「あ、そ、そう? う、嬉しい。そこまで言ってくれるとは思わなかったよ」
 一緒に歩き出した。
 軽くなった心。まるで風船みたいに、どこまでも行けそうな気がした。
「ねえ乃梨子」
「何? 志摩子さん」
「好きよ」
「うんっ。私も好きだよ」
 今まで注ぎ込まれたこの想いを。
 ずっと。貴女に伝え続けよう。
 きっとそれは、私が生まれた理由だから。
 だから。
 
 ずっと、そばにいてね、乃梨子。
 
 
あとがき
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