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手を合わせ、何も祈らない
 
 
 もう、何も残っていないと思った。
 何もかも、自分が切り離してしまった。自らの手で捨ててしまった。
 そう、思っていた。だから、もう何も残っていない。
 手のひらを広げても、そこには何もない。
 両手を掲げても、そこには何もない。
 空っぽ。
 手のひらも――
 両手の間も――
 心の中も――
 大切な思い出すら、自分の足で踏みにじっている。それを良しとしてきたのは他ならぬ自分。
 だから、自業自得というのだ。これは、誰のせいでもない自分自身の愚かさが招いたことなのだから。
 そう思えば、いつか気は晴れるのだろう。奈落の底に安住する日があるのだろう。
 深い淵にも、何かが棲んでいる。自分がそこの住人になればいいのだろう。深い重力の底で、ポツリと座っていればいい。自らの膝を抱えていればいい。過去の選択の思い出に苦渋しながら、低く呻いていればいい。知恵の足りない獣の様に、自業自得のメビウスの輪でグルグルと回っていればいい。封じ込められてしまえばいい、虚空の中に。
 こんな自分は、消えてしまえばいい。
 消えられなければ、いっそ誰の目も届かないところに行ってしまえばいい。
 それが出来ないのなら、自ら去ればいい。
 去ることが出来ないのなら、心だけでも隠れてしまえばいい。
 心だけを、淵に沈めてしまえばいい。
 堆積の中に埋もれて、いつか化石になる日まで。埋もれてしまえばいい。
 埋もれることも出来ないのなら、自ら沈めばいい。下へと進めばいい。
 淵を下り、底を貫き、泥濘の中を潜ればいい。そしてずっと下へ。
 どこまでも、下へ。
 叶うなら、永久に。 
 下へ。
 下へ。
 暗黒の深淵へ。
 不朽の暗闇へ。
 それはひどく温かい、何故か甘美にも思える誘惑。
 例えそれが錯覚だとしても、甘美な誘いは魅力だった。
 それが死神の鎌ならば、身を任せても悔いはない。それだけの魂痛。肉体を持たない中心部の疼き。
 疼く。ただ、疼く。
 心が疼く。後悔に苛まれ、悲鳴をあげながら、心は疼く。魂は沈んでいく。
 魂に絡みつく姿には見覚えがある。
 縦ロールの少女。
 ――私が私を招いている
 自らを絡め取る少女の姿は、どこか淫靡に映えている。
 奇妙な快楽は精神の被虐か。自虐を心が許したか。
 ――堕ちていきたい
 痛切にそう、思った。
 可能な限り、どこまでも。
 ――共に、堕ちてくださいまし
 芝居の幕が上がった。
 魂を絡め取る少女の姿が、暗転した舞台の様に早変わりを演じている。
 くるりと回った縦ロールの少女。反転した姿は、黒髪おかっぱの少女に変わっている。
「瞳子」
 優しげな微笑みに、瞳子は手を伸ばす。
 この人なら、救ってくれる。きっと、救ってくれる。
 この人なら。 
 この人なら。
 救ってくれる。必ず、救ってくれる。
 もう、放してはいけない。
 この人しか、いないのだから。
「乃梨子……乃梨子、乃梨子ッ!」
 囁きは熱を帯び、狂的なまでの熱さが言葉を彩る。その熱さは言葉に導かれたものではなく、もっと確実なところからその熱を与えられているのだ。
 言葉を発する肉体が、熱を帯びていた。
 与えられた刺激に反応する熱が。柔らかい二つの身体が互いを溶かすように絡みつく熱が。
 心地よい熱が。
 熱が言葉を彩っていた。
 最初はただ、手を握っているだけだった。
 立ち上がったとき、抱きしめた。
 抱きしめて欲しかった。どうすれば抱きしめてもらえるのか。ただ、瞳子は媚びた。
 それがどんな結果を生もうとも、抱きしめられたかった。必要とされたかった。例え一瞬でも、誰かに必要とされたかった。どんな形でも、どんな理由でも、どんな行為でも。
 自暴自棄にはなっていなかった、と頭のどこかで冷静な自分が反芻している。
 相手が乃梨子であることを確認している自分がいる。そしてそれはとりもなおさず、乃梨子であれば構わない、という意味合いとなる。
 自分の心に瞳子は驚き、そして納得した。
 甘えたい。甘えさせて欲しい。
 祥子の拒絶は、それほど瞳子を飢えさせてしまったのだ。
 瞳子の甘える相手など、他に誰がいるというのか。
 祥子に見捨てられたのなら、後には誰が居るというのか。
 ――優お兄さま
 その連想は、まさに噴飯ものだろう。
 血が繋がっていようがいまいが、それは兄なのだ。そして異性であるがゆえ、身を投げ出すことなど夢のまた夢。仮に夢見たとしても、絶対に封じ込められなければならない夢。
 だから、そう。皆無。
 瞳子にとって、甘える相手などいない。
 否、いなかった。
 その時、乃梨子の手が肩に置かれるまでは。
 
 
 
 関係を受け入れてしまった。
 後悔ではなく、ただの述懐。後悔という言葉で語れば、自分を殴り飛ばしても追いつかない。
 手を握り、名前を呼ばれ、抱きしめた。
 驚くほど温かく、小さな、そして甘い身体。
 欲望ではなかった。欲望に身を任せたわけではなかった。
 ――少なくとも、一度目は
 少し自嘲めいた笑みが漏れて、乃梨子は肩をすくめる。
 慰めたい。守りたい。甘えさせたい。
 心から、そう思った。自分は、それほど瞳子のことを想っていた。
 他に行くべき所はなかった。教室は論外。薔薇の館に至っては何をかいわんやだろう。
 幸い、大叔母は留守にしている。と発想したのが事の始まりだったのかも知れない。
 同姓の友達を連れ込むのに、保護者の不在が都合良いなどと。
 ――言い訳はやめましょうよ
 瞳子を抱きしめたとき、心のどこかにその想いはあったのか。いや、それとももっと前から。
 今となってはどうでもいいのかも知れない。少なくとも、瞳子は乃梨子を受け入れた。そしてそれは、今の瞳子にとって必要なことだったと思えるのだから。
 もしかすると、そう思えること自体がさらなる言い訳なのかも知れない。けれど、それでも構わない。乃梨子はそう考えていた。
 家に入って人目が無くなると、一旦落ち着いたかに見えた瞳子は再び泣きじゃくり始めた。乃梨子はそれを予想していたから、何も言わずただ抱きしめた。
 瞳子はその抱擁を受け入れ、仰け反るように首を傾ける。
 乃梨子の視界の真ん中には、瞳子の赤い唇が映っていた。
 濡れている、熱く湿った赤い唇。紅を塗っているわけでもないそれは奇妙になまめかしく、乃梨子の視線を捉えて放さない。
 赤という色は、熱を連想させる。
 連想なのか、それとも本当に熱を感じているのか。瞳子の唇を見つめる乃梨子は、自分の体温が確実に上がっている、と感じていた。
 顔の表面、瞳子の唇に近いところ。そして自分の唇。
 熱を帯びたそれを、二つ合わせなければ焼けつく。
 焼けついた唇はひりひりと痛い。それが唇の痛みなのか心の痛みなのか。それとも、痛みとは違う種類の何かなのか。
 二つを合わせる。それは強迫観念の様に乃梨子に囁きかけていた。
 合わせなければならない。合わせるべきなのだ。
 ――馬鹿じゃないの
 乃梨子は小さく吐き捨てる。瞳子には聞こえない様に。
 義務なんていらない。義務で抱きしめたりなんてしない。
 欲望を認めればいい。言葉が気になるのなら、友情と言い換えてもいい。いや、言葉なんてどうでもいい。
 抱きしめたい。唇を合わせたい。それは、嘘じゃない。義務じゃない。思いやりでもない。ましてや同情なんかじゃない。
 欲情と呼びたいのなら、呼べばいい。
 できることなら、もっとシンプルに。
 乃梨子は、瞳子と唇を合わせたい。
 それでいい。それだけでいい。
 シンプルだから強烈に。
 合わせた唇はより以上に熱を持って。けれどそれは心地よい熱で。溶かされても構わない、いや、むしろ溶かしたい。溶かされたい。そんな熱。
 熱くて、甘くて、小さくて、抱きとめていないと離れていってしまう様な。しっかりと抱きしめていないと初雪の様に消えてしまいそうな。
 頼りないほどに柔らかい唇は、舌触りとは真逆の存在感で乃梨子の口腔神経を圧迫する。たどたどしく、しかしハッキリした意志を持った舌が歯並びを確かめるかめる様に差し出されたときに乃梨子が感じたのは、驚きよりも心地よさだった。
 収まるべき所に全てが収まった、予定調和の様な感覚。そうするべきだからそうしたということ。
 瞳子の舌はそこにあるべきだった。そしてそれを乃梨子と瞳子が同時に望んだ。
 だから、二つの舌は自然に絡み合う。人の身体の一部とはとうてい信じられない熱さと甘さ。そして陶酔。相反する様でどこか似ている感覚が三つ巴に口の中で絡まり合っている。
 だったら、そこからの展開はごく自然なものだろう。
 唇を合わせることを自然と感じたのなら、身体を重ねることを何故異端と感じることが出来るのか。
 舌先と胸元に、いかほどの違いがあるというのか。
 唇を合わせることと腰を絡めることに、どんな相違があるというのか。
 予定調和というのなら、唇を合わせた瞬間に全ては決まってしまったのだ。だから当たり前の様に、乃梨子の唇は瞳子の唇を離れ、首筋へ、胸元へと動いた。
 疑問もなく停滞もなく、言葉もなく。
 ときおりの瞳子の呻きが漏れる以外は、ただ衣ずれの音だけが響いていた。
 快楽を引き出す術など知らぬまま、乃梨子はただ瞳子を愛していた。それを稚拙と呼びたい者は呼べばいい。
 ぞれでもただ一つの点において、乃梨子は罪悪感を感じていた。
 それは、乃梨子の空想。
 いつかあの人にそうされることを夢想する。あの人にされたいこと、それをそのまま瞳子の身体の上に投影している。
 無意識とはいえ、気付いた乃梨子にとってそれは罪悪感だった。
 だから、二度目は懺悔。そして確認。
 流されたわけではないこと。二人の意志で、二人で行ったこと。
「乃梨子」
「瞳子」
 そうやって名前を呼ぶことで互いを確認できる。続けることが出来る。互いがそこに確実にいることを確認できればそれで良かった。行為の是非を確認する必要など無かった。
 互いがそこにいる。互いの意志で愛し合っている。
 それだけわかれば満足でいられる。
 
 
 
 朝日がさしていた。
 瞳子は、頬のくすぐったさに目を開ける。
 乃梨子がベランダから聞こえる雀の声に合わせて瞳子の頬を突いていた。
「チュンチュン」
 クスクスと笑う顔を見ていると、瞳子は始めて恥ずかしさに襲われた。
 あわてて毛布をかぶろうとすると、乃梨子の手が瞳子の手首を掴む。
「今さら恥ずかしがっても遅いんだから、今はこのままでいようよ」
「いいの? 乃梨子」
「大丈夫だよ。大叔母は、夜まで帰ってこないから」
 え、と言いかけて、瞳子は乃梨子の悪戯な表情に気付く。わかっていて、はぐらかしているのだ。
「乃梨子の意地悪」
「だって、本当のことだもの。だから夜までは安心できるんだよ」
「安心って……なにを」
「どうせなら、ゆっくりとやってみたいの」
「乃梨子」
「勿論、瞳子が嫌なら無理強いはしない」
 瞳子の視線に何を感じたのか、今度は乃梨子が恥ずかしそうに笑った。
「自分でも意外だけどね。この私が、こんな風になるなんて」
「そういう乃梨子のことも嫌いじゃないわ」
「そんなの、夜の間にわかってたな。だって瞳子、抵抗しないんだもの」
 今度こそ、瞳子は毛布をひっかぶってしまった。
「乃梨子の馬鹿ッ!」
 
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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