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 祐麒は祐巳の姿を思い出しながら、ズボンを下ろした。
 思い浮かんだのは、さっき見た風呂上がりの無防備な姿だった。 
 実は祐麒は、着替えを覗いたこともあった。
 激しい自己嫌悪と、それを上回る、抑えきれない衝動があった。
 今日も祐麒はそれを摩擦する。
 誰だって、ある意味ではそうなんだ。
 
 
ある愛の詩
 
 
 福沢祐麒は男子校に通っている。
 女の子は周りにいない。
 それが悪いのかもしれない。
 そういう環境だからこそ、上手くいかない衝動に振り回されるのだ。
 仕方ないんだ、こんな環境では。
 男子高に通ってて、一つ屋根の下に若い娘がいたら、淫らな思いにとらわれてもしょうがないんだ。
 しかし、と同時に祐麒は思う。
 一つ屋根の下にいる若い娘は、姉なんだぞ、と。
 しかししかし、と更に祐麒は思う。
 それは手の届く所にただの若い娘がいるだけだ、と。
 抑えきれない衝動を、この年代の若い男はみんな持っている。
 それなのに、不思議なくらい、自分だけが醜いように思えるのだ。
 放課後の教室でアリスがしていること。
 女装したアリスはそうやって自分の衝動を消化し、また、アリスを抱く側も…
 祐麒もアリスに誘われたことがあった。
「私、祐麒なら、いいよ」
 そう言って頬を赤らめるアリスは理想の美少女だった。
 アリスの誘いを断われなかった奴が多いのも頷ける。
 でもそれは、男だからこそ出来る演技なのだ。
 祐麒は固くたぎっている自分を意識した。
 それでもアリスの誘いを断わるときに考えたのは、祐巳のことだった。
 俺は祐巳に操をたてなければ。
 全く、愚かな考えだった。
 前門の狼、後門の虎。
 姉と、男。
 どっちにしたって最悪で、姉にいたっては片思いだ。
 ここから逃げださなければ。
 ここではないどこかに。
 ここではないどこかに。
 そうして時々は、アリスのことを考えて摩擦する。
 
・・・
 
 志摩子さんから絵の話を聞かれたのは、学園祭の手伝いをしている時だった。
「祐麒さん、絵を描かれるんですってね」
 そう言った彼女の笑顔は花のようだった。夏が来れば消える鮮やかな花。
「僕は建築事務所を継ぐかも知れないから、少しかじってるだけですよ」
 それはある意味では真実で、ある意味では嘘だった。
俺は俺の周囲で、俺ほど真剣に絵に取り組んでいる人間を他に知らない。
「アリスさんから聞きました。祐麒さんが一番綺麗な絵を描くって」
「買いかぶりです。僕の絵は…」
 俺の絵は、たぶん、彼女たちのような人間には無価値なものなんだ。
 暗い狂気をごまかして描く、美しいもの。
「風呂屋のぺんき絵です」
 志摩子さんは微笑んだ。
「それは、とても素敵な絵ですわ」
 祥子さまの練習開始の声が聞こえて、とうとう俺は、その意味を聞けなかった。
 
・・・
 
「つまりね、ルネッサンス期の絵に戻るべきだと僕は思うんだよね」
「そうそう、最近の海光賞とか、全然プロの絵じゃない。芸術ってものを心底から信じてない絵だよ」
「その辺、ゴーギャンやピカソも評価していいと思うんだ。最近の『アート』とか名乗る連中には虫唾が走るよ、ぜんぜん、芸術ってものを分かってない」
 俺は唾棄すべきゴミみたいな先輩のありがたいお話には一切近づかずに、自分の絵を描いている。
 もしも彼らが本当にルネッサンス期の絵を復元し、なおかつ現代的なセンスを、いや、そこまで言うのは酷だ。
 せめて彼らがルネサンスっ『ぽい』絵だけでも描けたら、俺は彼らを認めてもいい。それくらいには俺は譲歩している。
 でも、猫が鍵盤の上を歩いても曲が出来ないように、彼らにそれを望むことはできない。
 はっきり言おう。
 彼らの絵は端的に言ってゴミだ。
 ルネサンスとかモダンアートとかシュールレアリズムとか一切関係ない。
 本当に心の底からゴミなのだ。
 まず商品としての価値は一切ない。
 次に、芸術的価値(せめて商品としての価値がなくても、これがあれば彼らの主張は一貫する)だけでもあれば救いはあるが、
 彼らの絵は、ただの心底つまらない落書きだった。
 彼らの大言壮語を、いったい何が支えているのか理解に苦しむ。
 そうして後輩たちは彼らに感化されて彼らの絵を褒める。
 まるで砂漠の蟻地獄のような内輪褒めの嵐なんだ。
 だから俺は彼らと決別して、芸術論なんか一切せずに、俺の絵を描いている。
 彼らは美術大学のことしか頭にないが、俺は世界の絵画市場のことをできるかぎり頭にいれ、商品として価値のある絵、新しいムーブメントを模索する。
 たとえそれが大衆への迎合と言われても、大衆に迎合さえ出来ないゴミにはなりたくない。
 大体、俺がそれほど必死になっても、正直に言って絵で食えると思えないんだ。どうしようもなく、絵で食えることが世界にあるのが信じられない。
 だから俺は建築デザインも独学で学んでいる。建築事務所を継ぐために。
 それなのに、どうしてあの下手糞達は、本当に絵で飯を食っている人たちを批判できるんだろう。
 理解に苦しむ。
 俺がこういう風に思っていることを理解していたのは、卒業してしまった柏木だけだった。 
 なんだかんだ言っても、柏木はやっぱりレベルの高い男だったんだ、と今なら思う。
 俺は腐りきった先輩たちに心底腹がたって、ルネサンス期の絵に、現代的な野心(実に今は恥ずかしく思う)を加えて描いたことがある。
 完全なあてつけだった。
 お前らよりは、遥かに上手く描ける、と。
 彼らは言った。
「祐麒、お前、上手いなあ」
 そう言っただけだった。
 愕然とした。
 彼らは、あてつけに気付く感受性さえなかった。
 あるいは気付こうとさえしないくらい、自負心がなかった。
 俺の絵は完全に無意味だった。
 柏木は言う。
「祐麒、お前がこういう絵を描く気持ちは分かる。でもな、こんなことは無意味だ。上手いし、よく出来た絵だ。しかしこういう目的で描いた絵は、お前の本当に描きたい絵じゃないだろう。腕を鈍らすことになるだけだ」
「僕は自分の幅を広げようと思って描いただけです。他意はない」
「ならいいさ、だが、忠告はしたからな」
 結局、俺は二度とそのような絵を描かなかった。柏木の忠告通りなのは気に食わない。
 でも俺は、彼らを変えようとは、もう、思わない。
 
・・・
 
 祐巳を思いながら自慰する習慣はやめられなかった。
 俺は祐巳の下着を盗みさえしたのだ。
 ただの変質者。
 最低の男。
 そのようにして、俺はアリスにしゃぶらせるようにもなった。
 どこまでも堕ちていた。
 どうにでもなればよかった。
 何一つ、我慢できはしないんだ。
 アリスは言う。
「私、こうしてるの好きよ」
 こいつは、こいつは、理不尽な怒りが胸にたまった。
「私で、興奮してるのを見ると、興奮する」
 そして僕は。
 僕は。
 
・・・
 
 志摩子さんに、絵の指導を頼まれたのは、そんなときだった。
「海光賞の絵、みましたよ」
 絵を描く人間にとって、こうして見てもらえたと言われることが、どれだけ嬉しいことか。
 本当に、心の底から、嬉しいんだ。
「たいした絵じゃないよ、海光賞は、芸術的ではないらしいし、先輩たちによると」
「海光賞のことは少ししか知らないけれど、祐麒さんの絵は、素敵でした」
 本当にこんな箱入りのお嬢様に俺の絵が分かるのか、表面的な綺麗さだけじゃないのか、と思っても、嬉しいものjは嬉しい。
「あれはね、遠くの風景を描いたものなんだ」
「遠くの風景?」
「僕たちは遠くから来て、遠くまで行く。そんな気がしない?」
「します」
 彼女がそう頷くのはとても早かった。
 前からずっとそのことを考えていたみたいに。
 彼女は本当に、遠くまで行きたいのだ。
 とてもたどり着けないくらい、遠くまで。
「祐麒さんの言う遠くの場所、見せてくれませんか?」
「どうやって?僕はそこへ行ったことがない」
 そうして志摩子さんは言った。
「私に、絵を教えてください」
 
・・・
 
 だから僕たちは放課後の教室で絵を書きはじめた。
 彼女を花寺に呼ぶ訳にはいかなかった。あんな危ない巣窟に呼ぶなんて不可能だ。
 でも、リリアンにだって無理な筈だ。
 だって、あそこは乙女の園なんだろう?
「大丈夫ですよ」
 と言って彼女は微笑んだ。
 僕の二華展の成績と海光賞。
 彼女は白薔薇さまであり、僕の姉はここの生徒で紅薔薇の蕾だった。
「一週間に一度ってことですけど、こっそり入っても分からないかも知れませんね」
 ふふふ、と笑う彼女の言葉を冗談と取ることもできたのに、結局僕は、毎日放課後彼女に絵を教える。
 本当は、冗談なんかに取りたくなかったんだ。
 だから俺は。
 俺は。
 
・・・
 
 志摩子さんはもっぱら油絵を描いた。
「私は、今の絵とか、アートとか分からないの。古い女なのよ」
 彼女は黙々と絵筆をキャンバスに置く。
「昔の宗教画が好きなの。あの頃の人々は、本当に真剣に神様に絵を捧げたわ。
 誰も神様を信じない世の中になっても、神様を信じない人にも絵の美しさが届くのって、敬虔な想いがあるからだって、信じたい」
 感情的、宗教的、写実的、正確な色彩。躍動感。
「あの頃の絵は千年残った。現代の絵は千年残るのか、私には分からないけど…千年残るから素晴らしい訳じゃないけれど、私の信じる絵は、芸術は…」
 俺は彼女の絵に対する想いを陳腐だと思った。
 先輩たちと同じ『ゲージツ』家なんだろうと思った。
 古臭い、もうとっくに廃れた頭の悪い芸術論の焼き直しだと思った。
 そう。
 彼女の絵を見るまでは。
 彼女の絵は、完全に正確な、作品に宿る精神までもが酷似した、かつて存在し失われた、神に捧げる芸術そのものだった。
 そのようにして、俺は本物に出会った。
 本物の、古臭い芸術に。
 
・・・
 
 彼女は熱心な生徒だった。
 三週間も教えれば分かった。
 そして僕たちは同じ趣味を持つ者として打ち解けて、親しい雰囲気になってきてはいた。
 彼女は言う。
「祐麒さん、祐麒さんは、どうして絵を描きはじめたんですか?」
 と彼女は無邪気な風に俺に言う。
「そうですね、たぶん、親父が製図していたのをずっと見ていたからじゃないかな」
 親父は家で、よく建築物の製図をしていた。
「親父の製図は、とても正確で綺麗でしたからね。実際、現場でもよくそう言われるらしいんです」
「製図を見て、絵を描こうと?」
「変な話ですよね」
「いいえ、なんだか素敵です」
「どこがですか?」
「凄く、仲の良い親子のように思えるところです」
「実際はそうでもないですけどね。紅茶を淹れますよ」
 彼女のウェーブかかった髪に、カーテン越しの光があたっている。
 彼女はまるで陶磁器のように白い肌をしていて、彼女自体が飾られた彫刻みたいに見えた。
 そしてその美術品は、息をして、頬を上気させていた。
「製図の線は誰にでも分かる、シンプルなものですよね。僕は、幾何学的な美が好きなのかもしれない」
 僕は志摩子さんに紅茶を渡す、彼女は両手でカップを支えて、猫が皿をなめる時みたいに、すこしづつ飲んだ。
「でも、祐麒さんの絵は、そういう雰囲気じゃないですね」
「僕も、古臭いのかも知れない。結局は、どんなに先端ぶっても、人間の温かみは捨てれない。親父の製図だって、どんなに幾何学的で無機的に見えても、
 住む人間の温かみを常に考えていた」
「それって、素敵なことですね」
 俺は、ハッとした。    
 今まで、誰にもこんな話をしたことはなかった。
 誰も、俺の絵について話す価値をもたなかった。
 彼女には、その価値がある。
 俺は、なんだか胸が熱くなって、足元がおぼつかないような、不思議な気分になった。
「祐麒さん、ほら、紅茶が冷めてしまいます」
「まだまだ全然熱いですよ、飲めやしない。猫舌なんです」
 そういうと志摩子さんは照れたように笑って
「じゃあ、ふーふーですね」
 と言って俺の紅茶をふーふーしてくれた。
 ふー、ふー。
 吹き終わっても彼女は照れている。
「えへへ」
 唇を突き出して、紅茶に息をかけながら、伺うように僕を見ていた彼女の姿。
 あるいは、僕は彼女にも恋していたのかも知れない。
 16や17の男が、ちょっと綺麗で優しくしてくれる女の子には片っ端から惚れるみたいに?
「祐麒さんの絵は、優しいですし、本人も、こんなに優しいなんて思いませんでしたよ。なんだか嬉しいです」
「嬉しい?」
「優しさを喜ばない人がいますか?」
 いない。
 あなたの優しさを、喜ばない人なんて、いない。
 僕はどうしても、あなたは特別だと思ってしまう
 僕の唯一の理解者みたいに、思えて。
 僕はあなたでは自慰をしない。
 僕はあなたを穢せない。
 絵のことを素直に話せるのも、僕がまるで高尚な人間でいられるのも、全て、あなたの前でだけだから。
 僕が優しいとしたら、それはあなたが僕を優しくさせるからだ。
 それはきっと、子供みたいにまっすぐに、あなたを愛しているから。
 16や、17の男がちょっと綺麗で優しくしてくれる女の子には片っ端から惚れるのとは、違って!
 僕には、志摩子さんが特別になった。
 
・・・
 
 ずっと彼女の絵を指導していて、分かったことがある。 
 彼女の絵では、たぶん、食べてはいけない。
 かつて存在していた、神に捧げる芸術。
 時代がそのような芸術を殺してしまった。
 もしも作品展にあれをだしたら、やれミケランジェロやボッティチェリはもっと上手く書いただの模倣だの云々……
 というような文句をつけられるのは目に見えていた。
 不思議なくらい、人々は新しいものしか評価しない。
 いま、美しいクラシック音楽を作っても、バッハやモーツァルトやベートーベンと比べられ続ける苦しい道しかないのだ。
 そしてそこでは、まさに先輩達のような『ゲージツ』家達が知ったかぶったクラシック論を持って待ち構えている。
 だから、彼女の絵では、たとえそれがどんなに素晴らしいものでも、食べていけない。
 食べていけるとしても、苦しすぎる。
 僕が思ったことを言うと彼女は、初めてここが月面だと教えられたみたいに驚いた。
「絵で食べようなんて、思いもつかなかった!」
 だったら
 僕に出来ることは、彼女が神に供物を捧げることの手伝いだけだ。
 その供物に、僕の知る全ての技術が使われることになればいい。
 そこにもしも見たこともない絵がうまれたら、彼女はそれで食べていくことが出来るだろう。
 
・・・
 
「祐麒の絵、変わったね」
 とアリスが言った。
「そうかな?」
「うん…なんだろう、わかんないけど、変わったよ」
「まだ高校生なんだから、上達だってするさ」
「そういうんじゃ、なくてさ…」
 アリスはそう言って黙った。
 僕も黙った。
 気詰まりな沈黙だった。
 僕達二人の間には何か語ってはいけない物事があって、それに触れないようにすればするほど、二人の口は重くなり、鉛のように唇は固くなってしまうのだ。
 アリスはあるいはこう言いたいのかも知れない。
『さいきん、私を抱かなくなったね』と。
 でもアリス、お前は間違っているんだ。
 今お前を抱いている奴らは、三年後には誰もお前を抱かなくなるんだ。
 お前だって、本当はそれが分かっている筈なんだ。
 でもアリスは何も言わない。
 だから俺達の沈黙はいつまでも破られることがなく、そこにある溝は埋まらない。
 
・・・
 
 アリスを抱かなくなって、俺は鬱屈していて、志摩子さんとは美術室で二人きりだった。
 恐ろしいほど、誰も来なかった。
 でもそこで絵を描いている志摩子さんは天使みたいで、俺は見ていることしか出来なかった。
 向上した彼女の絵の技術は、新しい絵を生み出す方向には向かわなかった。
 より遠い場所へ、より遠い過去へ。
 彼女はかつて存在していた宗教的世界への憧憬を地上に再現しようとしている。
 彼女の絵は相変わらずどこまでも古くて。
 どこまでも強く、美しかった。
 それで、俺はいったい、何を描いているのだろう?
 俺は殆どはじめて、自分の絵に疑問を持った。
 なんなんだ、この絵は。
 筆が滑って描いたみたいだ。
 筆しかない、人間なんか、どこにもいないじゃないか。
 そうだ、たぶんもう、人間なんか、どこにもいないんだ。
 
・・・
 
 その日は、祐巳は祥子さんの家から帰ってきていた。
 泊まっていたんだ。
 祐巳は嬉しそうに色んなことを話して、とても可愛かった。
 俺は泊まっている間に使っていた二日分ほどの下着のことを連想した。
 最低で、惨めなくずだった。
 そしてどんなに自分を卑下しても、結局はそれをやめれない以上、ただの戯言だった。
 反省なんか、していない。
 胸の苦しささえ、裏切る。
 俺は祐巳の下着を一枚盗んだ。
 それは湿っていて、不思議な湿り方をしていた。
 ある種の推理と確信をえれるくらいに。
 祥子さまの家に泊まって、そして、祐巳は、きっと。
 お前はいったい、どんな顔をして祥子さんに抱かれたというのか。
 俺は。
 俺は。
 結局、俺はその下着を使って、祥子さんに抱かれる祐巳を想像して自慰した。
 
・・・
 
 自己嫌悪は無限にループする。
 なぜなら、自己嫌悪の元を断つことは簡単ではないからだ。
 断つ気がないと思われても、仕方がない。
 全ての自己嫌悪は、言い訳なんだ。きっと。
 通学路で、アリスが揉めていた。
 数名の生徒が、何か言っていた。
 簡単な内容だった。
 アリスがセックスさせないようになったから、欲求不満が溜まってしょうがない連中だ。
 たいした連中ではない。
 社交的でスポーツも出来るような奴らは、アリスではなく、学校外で彼女を作るからだ。
 アリスの相手をする連中は限られている。
 生徒会長は、伊達ではできない。
 アリスだって生徒会役員だ。
「それ以上もめるなら、生徒会を動かす」
 と俺は恫喝した。自分の中の抑えられない獣性が、こいつらを殴ってしまえと囁いた気がした。
 どうせ、殴り返してこない相手なら、殴り得じゃないか。
 人間として、何かを失うような、そんな考えだった。
 だから振り払って、スマートにアリスを助けた。
「アリス、いったい、どういうことなんだ」
「分かってるでしょ」
「なにがだよ」
「もう、あいつらとは寝ないの」
「なんで?」
「気分じゃないのよ」
 アリスも、変わろうとしているのだろうか。
 何だかおいていかれたような気がした。
 俺はこいつを間違ってる間違ってると思いながら、見下していたのだろうか。
 俺が俺のどうしようもないモヤモヤ抽象的に話した時、アリスは「私はそういうのないのよ」と素っ気無く言っていた。
 でもそれは、お前が只で体を売っているからに過ぎないと俺は思った。
 お前は、俺よりもずっとずっと困難なモヤモヤしたものを抱えていた筈だ。自分では気付かないだけで。
 そして、お前はそのもやもやを、他人に自分を抱かせることで、自分にはなかったことにしている。
 それが何よりも間違っているのは、結局それは、周囲のムラムラした男達を使って自慰しているに過ぎないというところだ。
 他人を使って自慰するような関係に、先がある訳がない。
 それはいつか間違ったものとしてお前を苦しめるだろう、とずっと思っていた。
 お前はでも、もう、その間違ったものを正すんだな。
 俺は全然、正せないのに。
 笑ってあげなきゃな。
 祝福してやらなきゃな。
 だって、それくらいしか出来ないじゃないか。
「良かった」
 と俺が言うと、アリスは真剣な眼で俺を見た。
「何が?」
「お前がああいうことを続けていたら、いつかきっと、間違った結果を生むと、俺は思ってたから」
「何で?」
「難しい質問だけど、俺には、どうしても正しいようには見えなかったから、としかいえない」
「ねえ、祐麒、どうして私がそれをやめたか、本当に分からないの?」
 アリスの質問は唐突だった。
「分からない」
 アリスは言った。
「祐麒が、私を抱かなくなったからよ」
 
・・・
 
 ………
 疲れた。
 人生でも、一、二を争う疲れた日だった。
 僕達は傷つけることや、傷つけられることに、もっと慣れていくべきなんだ。
 これから、もっと多くの人を傷つけ、そして傷つけられるのだろうから。
 僕はこの上なくアリスを傷つけただろう。
 抱いて、用が終わったら捨てて、残された思いだけが空中を漂っていて、手で掴めそうに思えた。
 アリスはいくつかとても酷いことを言った。
 僕はそれにさらに酷い言葉で答えた。
『結局、男だからなんじゃない』
 でもどうすればよかったって言うんだ。
 僕だってアリスに傷つけられていた。
 こうするしかなかった。
 そしてもう、僕は二度とアリスを使って自慰することはない。
 
・・・
 
 僕は重苦しい気分で学校を出て、リリアンに向かい、こっそりと志摩子さんが手引きしてくれて中に入れてもらった。
 志摩子さんには元気がなかった。
 美術室に入っても、彼女はなかなか筆をとらなかった。
「どうしたの?」
 そう聞いても、彼女は寂しげな笑みを浮かべただけだ。
「嫌なことでもあった?」
 彼女は首を振る。
「私ったら、駄目ね」
 僕は首をかしげる。
「感傷的で」
「何かあったの?」
「ねえ、祐麒さん、絶対に秘密にしてくださる?」
「するよ」
「絶対に絶対よ」
「絶対に絶対で」
「実はね…」
 そのようにして藤堂志摩子は、福沢祐巳にふられたことを語った。
 彼女は祐巳が前から好きだったが、学園祭くらいからどんどんその気持ちに気付いて、苦しかった。
 そしてとうとう耐え切れず告白するも、振られたのだった。
「なんだかもう、とても、絵が描ける気がしないの」
 僕は黙って、あることを検討していた。
「今日で、ほんと身勝手で申し訳ないんだけど、終りにしたいの」
 そうすれば、全て辻褄があう。
 いま、完全に辻褄があったくらいだ。
「志摩子さん」
「何かしら?」
「騙したな」
「え?」
「あんたが言ってるのはこういうことだ。学園祭でたまたま祐巳への思いにきづいて、たまたま学園祭後にその弟に近づいて、
 たまたま祐巳への望みがなくなったら、弟とも縁を切ろうって訳だ。あんたは本当は、俺に何を望んでいたんだ?
 絵なんか、最初からどうだって良かったんだ。あんたは、ただ祐巳に近づくために俺を利用した、違うか」
 頭にきていた。
 俺はあなたを、天使だとまで。
 自分に腹がたった。
 絵の才能を心底認めた。
 自分の絵を疑った。
 天才だと、本当は思っていた。
「どうなんだ!」
 思ったより遥かに大きな声が出た。
 彼女はびくりと震えて涙を流した。
 余計に頭にきた。
 天使は、そこで泣いたりなんかしない。
 こいつは天使なんかじゃない。
 教室には二人きりだった。
 テレピン油の匂い。
 レースのカーテンが揺れている。
「こういう風にも考えられる。祐巳に似た俺を代用品にして、誘っていたんだ。二人っきりで美術室だ。俺が我慢していたほうが不自然じゃないか。
 最初から、絵なんてどうだってよかったんだ。楽しんだらいいだけなんだ」
 そうだ。
 大体、こいつだって、俺が嫌いな訳じゃない。
 俺の絵を褒めたじゃないか。
 俺が抱いたって、いいじゃないか。
 俺は、祐巳に似ている。
 俺は。
 カーテンから差し込む淡い光が、イーゼルにたてかけられたキャンバスをうっすら光らせる。
 いくつかのイーゼルが倒れ、衣擦れの音がする。
 木で出来た床の軋む音。立ち並ぶ机の足の縦横無尽な線。
 描き掛けの彼女の絵。
 俺は彼女を逃がさなかった
 最後の最後まで、逃がさなかった。
 
・・・
 
 全てが間違っていた。
 なにもかも。
 何もかもが、間違っていた。
 彼女は海光賞の絵で俺を見つけた。海光賞の発表時期は学園祭後だった。
 彼女は卒業までに絵を、納得の出きる絵を描きたいと前々から言っていた。いいか、前々からだ。
 リリアンの美術教師は、彼女を理解してあげることが出来なかった。
 そして彼女は。
 俺のことは。
 でも、そんなことは言うまでもないんだ。
 全てが終わったあとの、絶望そのものの表情。
 恐怖の表情。
 俺はただの犯罪者だった。
 ただの獣だった。
 ただの…
 ただの…
 ただの、福沢祐麒というゴミだった。
 
・・・
 
 目の前が真っ暗になって、真っ暗になったまま学校に通った。
 もう絵は描かなかった。
 俺は祐巳で自慰することもいつの間にかやめていた。
 そこら中で打っている裸の女の写真。
 雑誌。
 ビデオ。
 ありきたりな一人前の人間みたいに、それを使った。
 何もかもが色あせて、汚く汚れた。
 俺は心底無価値な人間になっていた。
 時間だけが過ぎていった。
 祐巳は心配して言う。
「どうしたの祐麒?」
「なんでもない、なんでもないんだ」
 俺は絶対に誰にも話せない穢れを抱えて。
 時間をやりすごしている。
 
・・・
 
 一年経った。
 親展で俺宛に手紙が届いた。
 志摩子さんからだった。
 突然のお手紙、すいません、と彼女は信じがたい忍耐と優しさで書き出している。
 読み終わった俺は、急いで祐巳の部屋のドアを力一杯叩いた。
「祐巳!祐巳!」
「なによ、うるさいわねえ」
「志摩子さんは、志摩子さんは、どうしたんだ!転校でもしたのか!」
 祐巳の顔が強張った。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「いいから教えろ!!!!」
 怒鳴りつけるように俺は叫んでいた。祐巳は俺の余りの剣幕に押されて言った。
「…志摩子さん、退学になったの」
「なんでだ!!?」
「いい?祐麒、誰にも言っちゃ…」
「そんなことどうでもいい!!!なんで退学になったんだ!!!!」
「祐麒?」
「早く言え!!」
 胸倉を掴みそうになった手が震える、さっきから、ずっと体中が震えている。
「志摩子さん、誰が相手かもわからない子供を…妊娠してたの」
 馬鹿な!!
「誰があいてかも分からないって、そう言ったのか」
「うん、分からないって、ずっと、そう言って…」
 分からない訳あるか!!!!!!
 なんで!!!
 なんでなんだ!!!
「それで、風紀的にも問題がっていうか、その、結局、退学になってしまったの…」
「なんで妊娠したら退学なんだ?妊娠したら犯罪なのか?なんでだよ、なんでなんだよ!!」
「だって、それって、誰か相手かわからないくらい、そういうことしてたってことだし、私達、志摩子さんに騙されてたのかなって。あんまり、心を見せてくれない人だったし…」
「馬鹿か!!!」
 目の前が見えなくなるくらい俺は激昂した。
「志摩子さんは、志摩子さんは!!!」
 俺を、こんなゴミみたいな俺を庇うために!!!!
「志摩子さんを何で信じてやらない!!何で志摩子さんを信じないんだお前達は!!! なんで、なんで友達を守ってやらないんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!」
 絶叫していた。
 号泣していた。
 どうしようもなく惨めで愚かで、汚かった。
「お前達は、お前達は妊娠して生まれてきたんじゃないのか、お前だって祥子さんに股間をこすられてビショビショにぬれるんだろうが、俺だって、○○○をこすったら精液が飛び出すんだよ、なんで、なんでお前達はそれを認めてやれない。
 なんで、なんで志摩子さんを見捨てたんだあああああああああああっっ!!!」
「祐麒、あんた、まさか」
 そうだ、祐巳。
 もしも志摩子さんが全てを明かしたら、今度はお前が白い眼で見られていたんだ。
 穢れた弟を持つ紅薔薇として、始終噂の的になったんだ。
 志摩子さんは、お前を守ったんだぞ。
 志摩子さんは。
 志摩子さんは。
『男の人と二人きりなのに、私も不注意でした』
『どうか、気に病まないで下さい。それを言いたくて、この手紙を書きました』
『それと、もうひとつ、どうしても言いたいこと』
 俺はどうしようもなく、立ち尽くして泣いていた。
 泣き続けていた。
『私は、あなたの絵が、大好きでした』
 
 
・・・・・
 
 
 あれから何年も過ぎた。
 記憶は風化して、思い出は色あせて、何もかもが変わってしまっても。
 僕は、再びリリアンに来た、美術教師として。
「先生、先生、リリアンには、卒業生が描いた凄い絵があるんですよ」
 とあの頃の彼女と同じ歳の子達が言う。
 僕はゆっくりと、あの美術室に向かう。
 あのときのままだ。
 何も変わっていない。
 扉が開く。
 テレピン油の匂い。
 レースのカーテンが揺れている。
 イーゼルにたてかけられた白いキャンバス。
 そして、飾られた卒業生の絵。
 
        それは、彼女が描いた僕の絵だった。
 
 僕は今でも、彼女のことを想うと、泣きそうになるのだ。
 
 
 
 
 
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