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カゲシロメ
 
 
 体育祭に修学旅行、そして学園祭。
 息つく暇も無い程に目白押しだった行事も粗方消化し尽くされて。
 最後に誰もが予想外だった茶話会という皮を被ったオーディションも大事なく終えて。
 
 そろそろ吹き付ける風の冷たさが身体に堪えるようになってくる秋。
 既に紅葉と云うには寂しすぎる佇まいを見せる木々。
 
 取りも零さず慌しかった催しの余韻は未だ身体に記憶に燻っているものの、そのどれもが徐々に風化を始め思い出と云う存在へと変貌を遂げ始める十一月。
 
 藤堂志摩子ら薔薇の館の面々は、深まった秋の日々、束の間の平穏を享受していた。
 
 あと二週間もすれば師走と称される季節に突入する。
 言葉に違わずまるで追い立てられるような忙しさに埋没していくであろう十二月を間近に控えたリリアン女学園では、薔薇の館はもとより学園全体が、まるでひと時の平穏に身を委ねているかの如く、あたかも凪のように静まり返っていた。
 
 冬期間にはグラウンドが実質使用不可能になる運動系部活動は、今年最後の掻き入れ時と言わんばかりの勢いで部活動に精を出している。
 ひっきりなしに響いてくるグラウンドからの掛け声は、まるで過ぎ行く季節を惜しむかのようにも聞こえる。
 方や委員会活動や肝心の山百合会は、それらの部活動とは対極を成すかのように活動が控えられていた。
 伴って学園校舎内は、それこそ田舎のうらぶれた無人駅にも近い佇まいを醸し出しており、人の密度の希薄さを実感させる。
 
 誰もがひと時の憩いを意識しているのかもしれない。
 寄せては返す行事は箱庭に住まう天使たちから限りある熱量を粗方奪い取り、つまり今は皆、熱量の補給に勤しんでいるのではないだろうか。
 友人と過ごす。姉妹水入らずで過ごす。大切な誰かと過ごす。
 学園に縛られない日々の放課後は生徒たちにとって正しく余暇である。
 それは、日頃終わりの無い雑務に明け暮れている山百合会と、そのメンバー達も決して例外ではなかった。
 
 
 取り急がなければならない仕事は皆無だった。
 けれど細かい仕事はそれこそ砂丘での砂遊び。
 崩しても崩しても砂は際限が無く、集めても集めてもまた、同じように際限が無い
 ずっと気を張っていてはやがてほつれ壊れてしまう。
 時には安息も必要だという理由から、ここ数日は山百合会の日常業務は行われていなかった。
 
 それでも此処薔薇の館に二人の少女がまるで示し合わせたように現れたのは、或いは彼女たち二人も無意識に気の置けない友人と過ごす余暇を求めていたのかもしれない。
 
 薔薇の館の会議室、既に手に馴染む程になった扉を開いたところで藤堂志摩子は、「あら」と驚きの色を含んだ声を上げた。
 志摩子の視線の先には、これまた志摩子と同じように多少驚きの面持ちを浮かべた福沢祐巳の姿が在った。
 一瞬の硬直と、驚き。その後に二人はどちらからともなく挨拶を交わす。
 
「ごきげんよう、祐巳さん」
「志摩子さん。ごきげんよう」
 
 一学年時に志摩子と同じ教室にて机を並べていた友人は、今では残念な事にクラスを違えてしまっている。
 祐巳が籍を置いている二年松組には、祐巳本人の他にも、山百合会にて同輩にして友人である島津由乃。他にも武嶋蔦子、山口真美など、数少ない学園内における志摩子の友人がその名を連ねている。
 疎外感に一抹の寂しさを禁じ得なかった頃も──いや、既に二学年の半分を消化した現在でも、その寂しさは拭いきれていない。
 だからこそ薔薇の館でこうして祐巳と偶然に出会えた事は、志摩子にとっては嬉しい偶然だった。
 
「今、お茶淹れるわね」
 
 鞄をテーブルに置くのもそこそこに、志摩子はお茶を淹れる準備に取り掛かる。
 祐巳も今しがた到着したばかりらしく、未だテーブルの上には二人分の鞄が無造作に投げ出されているのみである。
 慌てた祐巳も志摩子の手伝いをと腰を浮かしかけるが、それを志摩子はやんわりと制す。
 
「ゆっくりしてて。この間のオーディションで疲れたでしょう?」
「いや、私は特に何もしてない予感……」
「あら。祐巳さんのお世話で素敵な姉妹が一組誕生しそうだって聞いたけど?」
 
 微笑ましく言う志摩子に対して、祐巳は虚をつかれたらしい。
 祐巳にとっては心当たりが有り過ぎるであろうその素敵な姉妹とは、武嶋蔦子とその知己である下級生、内藤笙子のことである。
 独り身を貫くと公言して憚らなかった武嶋蔦子がここ最近、件の茶話会以降とある下級生と懇意にしているらしいと云うのは既に割と良く知られた話。
 世間のゴシップには頓と疎いし首を突っ込むことなぞ持っての他、というのが志摩子である。
 率先して囃し立てる気など更々無いが、蔦子の一人の友人として二人の未来を影ながら応援したいと思っていた。
 
「ははは……ああ、あれねぇ。うん、何か世話焼きたくなっちゃって。蔦子さんが妹を作る気が無かった、っていうのは知ってたんだけどね」
「そうね」
「蔦子さんはああいう趣味の人だから、一人の方が何かと動き易いのかもしれないし、きっと余計なお世話だって思われるのがオチかもしれなくて、私も結構迷ったんだけど」
 
 流しの前に居た志摩子は、何となく振り返った。その先に、向日葵のような笑顔が咲いていた。
 
「でもやっぱり、一人は寂しいよ」
 
 その言い分は余りにも志摩子の良く知る福沢祐巳らしくて、志摩子は思わず無意識に頷いてしまう。
 彼女はきっと本気で他人に対して親身になることの出来る人間なのだろう。時として自分自身のことすらお留守になってしまう程に。
 きっと小笠原祥子さまも島津由乃さんも、そして志摩子自身も、彼女のそういった性質に惹かれたのだろうと思う。
 
 ──そう。あの、佐藤聖も。
 
 不意に日が陰った。
 晩秋の夕暮れ、会議室には柔らかな橙色の夕日が深く深く差し込んでいた。
 つい今しがたその眩しさにかがっぽしさを感じ目を細めた記憶が在る。
 それなのに志摩子の目に映る風景は全てが曇り澱んでいた。今となってはどれ程目を凝らせど光源らしいものは見出せない。
 
 不可思議な現象に志摩子は内心首を捻りつつも、手は無意識のうちにお茶の準備を進めていた。
 コンロに架けたヤカンが忙しく蒸気を噴出し始めるのに気付き、我に帰る。
 それと同時に世界を覆い尽くさんばかりだった陰りは漣のように引いて。
 残されたのは橙色の世界に志摩子ただ一人。
 
 今のは、何だったのだろう。
 
 見回せど会議室の景観に不自然はない。
 もう何十年使い込まれたのか知れない色褪せたテーブル。いくつかの資料や辞典、また今期に入っての活動が纏められているバインダー等が整然と並べられている本棚。
 そして、出窓に飾られている花一輪。
 微かに耳鳴りがして、言いようの無い不吉な予感が脳裏を掠めた。
 ふと気付くと祐巳がこちらを呆けたようにぼんやりと見つめていた。
 
「ど、どうしたの?」
 
 口をついて出た言葉は思わず上ずってしまう。
 
「……いや、相変わらず志摩子さん、綺麗だなあって思ってたの」
「も、もう祐巳さんったらまた変なことばかり言って」
 
 柔和な笑みを投げ掛けて来る祐巳の眼差しにこそばゆいものを感じて、志摩子はお茶の準備に没頭する振りをする。
 容姿を誉められる事は稀にあることだが、しかし志摩子にしてみれば表情豊かにいつだって向日葵のような笑顔を絶やさない祐巳の方が、鏡に映る人間味の薄い自分よりも余程魅力的に感じられる。
 しかし二人きりの会議室で互いを誉め合うというのも一寸滑稽で頬の熱くなる想像だったから、勤めて志摩子は祐巳から視線を逸らす。
 二人分の紅茶をお盆に載せて志摩子はゆっくりと祐巳の待つテーブルを目指す。気兼ねない同輩同士であるからソーサーなど本来不要ではあるのだが、そこはそれ気分の問題である。
 
「お待たせしました」
「ふふ。ありがと、志摩子さん……あッ」
 
 目測を誤ったのだろうか、志摩子が紅茶の淹れられたカップをテーブルに置いた瞬間、注がれていた琥珀色の液体が跳ねた。
 直後、指先に火傷したような激痛が──実際火傷だったのだろうが、その痛みに志摩子は顔をしかめる。
 
「あっ、ご、御免なさい。一寸零してしまったわ。今拭くから──え?」
 
 痛みは一瞬だったが、念のため水で患部を冷やすべくと流しに戻ろうかと思った志摩子は、そこに奇妙な光景を見つけて面食らった。
 火傷した指先に暖かく湿った感覚。
 人差し指の先が、祐巳の口の中に含まれていた。
 
「ゆ、祐巳さん?」
「……」
 
 祐巳は答えない。彼女の口は志摩子の指で塞がれているのだから答えようも無い。
 舌先が触れたのだろうか、暖かくざらりとした感触を指先に覚え、志摩子は眩暈にも似た感覚に襲われる。
 自分と同年代の友人が目の前で傅き、自分の指先を舐めている。
 その光景に背徳を感じぬ方が人としてはどうかしているだろう。
 
「ふぅ。もう痛くない? 志摩子さん」
「え、ええ」
 
 普段と何ら変わりの無い友人の雰囲気に、逆に志摩子は戸惑ってしまう。元々痛みなど大したものではないのだ。祐巳の所為かどうかは判らないが、今では痛みなど綺麗さっぱり消えている。
 いや、既に忘れていると形容するのが適切だろうか。
 本来それは、母が我が子に対してするような行為である。
 良い悪いの概念ではなく、友人同士で交わすやり取りではない筈だ。
 傷口を舐めるのは本能的な行為に近いが、志摩子は血の繋がらぬ他人に対して、例えどれだけ仲の良い友人に対しても、それを行う気には到底なれない。
 そんな志摩子の感慨を知ってか知らずか、祐巳は戸棚の上のティッシュボックスから一枚取り出すと、おもむろに志摩子の指先で微かに光るものを拭き取った。
 
「ありがとう、祐巳さん。ちょっとビックリしちゃったけど」
「……ごめん。志摩子さん痛そうだな、って思ったら、気が付いたら舐めちゃってた。よく考えたらこれって変なことだよね。家族でも恋人でもないのに」
「い、いいのよ。お陰で今は全然痛くないし。ええ、ありがとう、祐巳さん」
 
 照れたように、そして少し気まずそうに謝る祐巳を前にしていると、不意に心がどうしようもなくざわめいてきて、志摩子は逃げるように流しへと向かった。
 零れた紅茶を拭くために布巾を取りに行くためでもあるが、今祐巳の傍に居るとおかしなことを口走ってしまいそうで、それを恐れて逃げ出したのだ。
 
 彼女は優し過ぎて、そして純粋過ぎる。
 
 人間誰しも自分だけの領域を持っているもので、例えばそこに踏み込まれたとすれば、見られて欲しくないもの、他者に晒したくないものを覗かれる恐怖に緊張する。
 逆に他者のそれに踏み込んだならば、鬱陶しく思われないだろうか、無下に追い出されはしないだろうかと、同じように恐怖する。
 
 あの福沢祐巳という少女には、そういった概念が一切無いように感じられる。
 誰かと親しくなる術に劣る志摩子にとっては、理解の及ぶ範疇ではない。誰と接するときにも緊張し、また相手を緊張させてしまうのが、藤堂志摩子という自分自身だ。
 そういった意味では、お互い気の置けない友人という関係を築き上げる事の出来た祐巳は、志摩子にとっては実に得難い人間だった筈だが──。
 
「……」
 
 だとすれば、この胸のざわめきは一体何だろう。
 誰もが彼女の優しさを愛し、そして優しさに愛される事で一時の安息を得る。
 志摩子の周りに居る人間の誰もが、彼女のことを好ましく思っている。
 思い浮かべる知人達の誰一人として例外なく、福沢祐巳という存在を介して得た仲間なのだから、彼女の人望たるや推して知るべしである。言うまでも無く志摩子自身も、彼女のその人望に惹かれた人間の一人だ。
 けれど、でも、しかし。
 
「志摩子さーん、どうしたの。気分でも悪いの?」
 
 背後から祐巳の心配そうな声が聞こえる。けれど、振り向く事は出来ない。振り向けばこの胸のざわめきが、何か得体の知れない不吉なものを運んでくるという予感がする。
 
「ねえ、志摩子さ──」
 
 
 お願い。
 もうこれ以上私に優しくしないで。
 
 
 これ以上私を────奪わないで。
 
 
 
「祐巳さん」
 志摩子は振り返る。一切の光源の失われた白と黒のモノトーンの世界がそこに在った。
 秋の日は釣瓶落しで、日没までの時は日増しに短くなっている。ふと気が付けば日は沈み、宵の闇が辺り一面埋め尽くす。
 奪わないで、と志摩子は思った。そう、志摩子は奪われる事に恐怖していた。
 何を? と志摩子は自問する。そんなものは言うまでも無い。忘れていた記憶を思い出す。忘れたくて強引に蓋をして閉じ込めていた記憶を鮮やかに蘇らせてしまう。
 季節は異なれど、あの日あの時も一面が橙色だった。夕暮れの橙色が、世界一面を覆い尽くしていた。それなのに記憶に鮮烈に残っているのは、橙色の光にかがっぽしさを感じ目を細めた直後の暗闇だった。
 暗闇は忘却。忘れたいと願い志摩子は忘れたのだ。
 
 あの日、お姉さまと祐巳さんが、キスをしていた。
 
 重なり合う影と影が夕日に照らされて長く長く伸びていた。影は廊下にも届き、その影の中に志摩子は一人呆然と立ち尽くしていた。
 廊下を背にしていた祐巳さんは兎も角、聖にも志摩子の姿は見えなかっただろう。あの時二人は、お互いの姿しか見えていなかった筈だから。
 奪われた事が悔しくて溢れた涙が頬に零れそうになった次の瞬間には、志摩子は校門へと向かう道を一人歩いていた。
 溢れ出す涙はそのままに、一人、当たり前のように歩いていた。
 やがて右手の方に見えてきたマリア像を無意識に見上げたときに、志摩子はその涙に気付いたのだ。頬を伝う一筋の涙に。
 涙の意味を聖母に問うた。無論答えなど無く、残されたのは胸の奥に突き刺さるような痛み。
 忘れていた痛みの意味。それを志摩子は今、鮮烈に思い出していた。
 塞がれていた傷口が開き、鮮血が迸るように、色鮮やかに。
 
 祐巳さん、貴女はいつもそう。優しさで全てを飲み込もうとする。奪おうとする。大切な姉を私から奪いそして今、私自身をも奪おうとしてする。
 もう何も奪われたくない。もう誰も奪われたくない。
 これ以上優しくしないで。これ以上、誰にも優しくしないで。でなければやがて貴女は、私から妹すら──乃梨子すら奪おうとするだろう。
 
 志摩子はゆっくりと祐巳に近づいて行く。二本の足がまるで自分のものではないみたいに重く、酷くもどかしい程に彼女に近づけない。
 酸素が薄いのだろうか。頭ががんがんと痛み、止まない耳鳴りが鼓膜すら破りそうだ。まるで水中を掻いているように体全体が度し難いほどに重く、白と黒だけのモノトーンの世界がまるで自分をあざ笑っているようにも感じられ、志摩子はひどく苛々した。
 
「ねえ祐巳さん。私、貴女のこと大好きよ。優しくて暖かくて、何でも話せる一番大切なお友達。私、貴女と知り合えて本当に良かったって思ってるの」
 
 気付いていないのだろうか、志摩子が祐巳の傍に近づいても、声をかけても、彼女は何ら反応を示さない。
 椅子に座っている祐巳の後ろに回る。二つに分けられた髪房の下に白いうなじが覗き、志摩子は眩暈にも似た感覚を覚える。かつてお姉さまがそうしてたように、後ろから抱きつくには頃合だ。その白い首筋に手を沿わせ締めるのにも頃合だと思う。かつて幼かった頃、道端に咲いていた綺麗な花を嬉々として摘んで集めていたことを志摩子は何となく思い出した。
 
「祐巳さん、貴女は」
 
 志摩子はそっと手を伸ばした。その、彼女の首筋に。
 
 
「──うん、私も志摩子さんの事好きだよ」
「えっ?」
 
 唐突な祐巳の言葉に、志摩子は一瞬忘我する。一体私は、何をしようと思っていたのだろう。
 西日が強く差し込む薔薇の館の会議室は橙色に染め上げられ、同じように橙色をした自分自身の姿が、まるで世界に融け込み飲まれてしまいそうに思えた。
 志摩子の伸ばした手。指先が祐巳の首筋に微かに触れている。慌てて志摩子が手を引っ込めると、祐巳はくすぐったげに肩をすくめて見せる。拍子に左右に飛び出した髪房が微かに揺れる。ふわり、ふわりと、優しげに。
 
「ふふ、ありがとう祐巳さん。それでは大好きな祐巳さんに、日頃の感謝を込めて」
「え? あん、何するの志摩子さん。はははくすぐったいってば」
 
 祐巳の両の肩に手を添えて、志摩子は軽く揉んでみた。マッサージの心得など皆無だったが、自分がされて気持ち良さそうな事を、してあげれば良いのだ。
 しばらく祐巳はこそばゆいのか身体を捻ったりくねらせたりと落ち着きが無かったが、やがて刺激にも慣れたのか徐々にうっとりと目を細める。
 そのまま祐巳は、顔を逸らせ背後に居る志摩子の顔を覗き込むようにする。微かに頬が紅く染まっている。首筋を撫でてあげたときの猫みたいだ、と志摩子はぼんやりと思った。
 
「えへへ。ずーっと仲良しでいようね、志摩子さん。卒業しても、大人になっても、ずっと」
「……そう、ね。私もずっと、祐巳さんと」
 
 何故か口の中がからからに乾いていて、上手く声にならなかった。
 
 
 
 
                
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