さくら
さらさら、さらさらと流れる液体。
これを養分とし、美しい花を咲かせよ。
無垢で純粋なその白を 血の赤に染め上げよ。
お次は、あなた。
木々の生い茂る道を、髪の長い女性と髪を顔のラインでそろえた女性が歩く。
髪の長い女性は古風な制服に身を包み、もう1人はスーツ姿。
「お姉さまはどうなさるんですか?」
「そうね。もう少し待ってみるわ」
「聖の事だから、携帯を持ち歩いていないと思うの」
「ご自宅にはお電話されたんですか?」
「ええ。でも誰もいないみたい。聖のお母様もお父様もお忙しい方だから」
「帰りにでも会いましたら伝えておきます」
「そうして頂戴。祐巳ちゃんによろしく伝えて? あなたたち仲直りしたばかりなんだから」
「はい、そうします」
スーツの女性は「私はもう行くから」と言って小走りに走っていった。
残った制服の女性はため息を1つつき、視線の先へ見えてきた門を見る。
「もちろん。もう祐巳を離したりはしませんわ、決して」
1人つぶやいた。別れた姉、水野蓉子に誓うように。
リリアン女学園。古くからあるその学園は、紅薔薇・白薔薇・黄薔薇の薔薇様が生徒会員となり、様々な行事を進めている。
梅雨も明けた暑い夏の1日。今は夏休みだが、いろいろと準備があるので学園へと来る日も多い。今日もそんな日だった。
マリア像へと手を合わせ、祈りを捧げる。
いつも祈るのはただ1つ。彼女を妹に選んでからずっと同じ祈りを捧げていた。……あの梅雨のすれちがいの日々でさえ。
ハンカチを出して額の汗をぬぐう。いつの間にか、その額には玉のような汗が浮かんでいた。
薔薇の館へと入ると、中には志摩子がいた。たった今着いた様子。
「ごきげんよう、紅薔薇さま」
「ごきげんよう、志摩子」
そういえば、と話を進める。
「志摩子、最近聖さまとお会いしなかった?」
「いいえ」
「そう……。祐巳なら分かるかしら……」
祐巳とあの方は頻繁に顔を合わせるらしいから、きっと知っているだろう。
あまり、お会いしたくはないのだけど……。
祐巳とのすれ違いの先には、必ずあの方がいる。いつも祐巳を支えて、助けて、そして優しく包む。自分には決してできないそれらの行動は、私にとっての抜けない棘になっていた。
「そういえば、祐巳さんはまだ来ていないのですね。先ほど見かけたのですが」
志摩子の声で我に返る。祐巳はまだ館には顔を見せてなかった。
「どこか、図書館にでも用事があるのではないかしら。もうすぐ来るわよ」
「そう、ですね……」
志摩子は何か気になる様子のようだが、「ごきげんよう」と妹の乃梨子ちゃんが来るとパッと表情を変えた。
「ごきげんよう、乃梨子」
「すみません、遅くなりました」
そう言ってすぐにお茶の準備を始める乃梨子ちゃん。志摩子と乃梨子ちゃんは楽しそうに話している。その2人を見ていると、無性に祐巳に会いたくなった。
「それじゃあ、準備は今度の月曜からでいいかな? 祥子」
ハッと気付くと令が話しかけていた。とっさに「ええ、そうね」と返す。
いつの間にか、皆が集まり話し合いも終わろうとしていたようだ。
「これから忙しくなるから、月曜日まではみんなゆっくりするといいよ」
トン、と持っている資料の束を机に置くと、その音がきっかけとなり皆が席を立つ。
令は資料の束を持ったまま、由乃ちゃんと話している。――これから2人でどこかへ出かけるらしい。
「お姉さま、お茶のおかわりは如何ですか?」
「ええ、ありがとう。お願いね、祐巳」
カップへとお茶を注ぐ祐巳。見ていると、柔らかい感情が芽生える。
「祐巳、この後どこかへ行かない?」
吃驚したような顔を見せる祐巳。そして嬉しそうに笑みを浮かべた。
「いいんですか? お姉さま」
「ええ。令も言っていたけれど、来週から忙しくなるから2人でどこかへ出かけるのはこれから先あまりないと思うの」
そうでなくても梅雨の仲違いからそんなに間が空いていない。祐巳は「気にしていませんよ」と言ってくれるけれど、やはり不安は強かった。
話し合いは解散となり、それぞれ姉妹と連なって帰る。
「じゃあ、祥子。私達はこれで」
「ええ。ごきげんよう、令」
黄薔薇姉妹は、いつものように仲むつまじく手をつないで帰っていった。2人とも距離が近いから、話すよりも目を見ただけで相手の思っていること、感じていることが手に取るように分かるらしい。
羨ましい、とも思う。けれどきっと、必要なのは距離ではなく想う心の強さ。
もっと自信を持って祐巳をリードして行こう。隣を歩く祐巳の手を取り、「さ、行きましょうか」と声をかけた。
「お姉さま」
マリア像近くになって、祐巳は急に声をかけてくる。
「どうかした?」
「あのですね、先ほど温室へ行ったのですが薔薇が咲いていたのです。とても綺麗だったので、温室へと行ってみませんか?」
可愛い子。顔を真っ赤にさせてそう伝えてきた祐巳。
「ええ、そうね。……でも、この時期の薔薇は蕾の時期から花を摘み取るのではないかしら?」
「え? そうなんですか?」
「そうなの。夏は成長させて株を大きくさせる為に花は摘み取るものなの」
「それは知りませんでした」
「夏休みだから管理する人もそこまで手が回らないのでしょう。いいわ、行ってみましょう」
「はいっ」
温室へ入るとほのかな芳香が鼻腔をくすぐった。
「まあ……これは綺麗ね」
薔薇が植えられている一角に、どうやらコウシンバラらしき株が美しく花を飾っていた。
「これをお姉さまと一緒にみたくて……」
「ありがとう。心が和むわ」
おねえさま。
ニッコリと笑みを浮かべる祐巳。私も笑顔を返そうとしたその時。
ふいに体が痺れて、ガクリと膝をついた。
「な……これ、は」
「おねえさま」
「ゆ……み? どうし、た、の」
可愛い妹の手には、茶色い小瓶。
「おねえさま? あそこに、ロサ・ギガンティアがありますよ。あれも綺麗ですね」
「祐巳……救急車を……これは……」
「おねえさま、もう力が入らないんですか? ……聖さまは、もう少しは意識があったんですけれど」
聖さま……。
「一体どういう事!?」
「おねえさま、また前のおねえさまに戻っていますね。最近すごく優しかったのに」
それは……あなたが、あなたを離したくなかったから……。
「ふふっ。おねえさま、1つ言いたいことがあったんです」
「なに? 祐巳」
「祐巳は、お姉さまが大好きです。……だから、お姉さまが許せなかった」
ぼんやりと笑みを浮かべる祐巳。
一体何が起こっているのか。
「聖さまは、話を聞いてくれました。胸を貸してくれました。それから、」
『祐巳ちゃん、私だけにしときなさい? 祥子に復讐なんて……だめ、よ……』
「嬉しかった。聖さまは、私の為に死んでくれる、と言ったんです」
「だから、殺してしまったの?」
「いいえ。聖さまはずっと祐巳の事を気にかけて下さった。だから殺すなんて出来ません」
『どこから手に入れたか知らないけれど、こんなのを持つんじゃないよ』
グイ。
そう言って、聖さまは。
中に入っている液体を。
飲み
干した。
『くっ……グホッ』
血を吐く聖さま。祐巳はしばらく聖さまと話していたけれど、ふいに咳き込みだした聖さまは、『私だけにしておきなさい』と言って、それから。
それから呆気なく。
倒れた。
「聖さまの血が、ロサ・ギガンティアにかかってとても綺麗でした。所々赤く染まる白い薔薇。まるで『不思議の国のアリス』を読んでいるようで」
「聖さまはどうされたの!?」
「おねえさま、今は他の方の心配をされている余裕などあるのですか?」
くす。
くすくす。
一体いつの間に……毒など。
「さきほどおかわりした紅茶。味などありませんから、全く気付かなかったでしょう」
「祐巳」
ぼんやりとした笑顔。その頬を涙が伝う。
「おねえさま。祐巳はどれだけ傷ついたか。どれだけ泣いたか。……どれだけ、お姉さまの事を、好きか……」
だから、だからゆるせなかったのです。とうこちゃんへ笑顔をむけるおねえさまのことが。
だって、おねえさまに嫌われたくなかったから。だから、ゆるそうと思ったのです。
「でも、祐巳には出来ませんでした。助けてくれた聖さまも、もういらっしゃらない。だから、おねえさま」
しんで、ください。
意識の底で、血を吐く自分を感じる。
聖さまも、こうやって倒れて。
こうやって薔薇の養分となり、
美しい花を咲かせたのか。
桜には魔が宿る。
そんな。
だって目の前の木は、桜ではなく薔薇だ。
ああ。
そうだった。
桜は……薔薇に属する。
だとしたら、薔薇にはどれだけの魔が宿るのか……。
私は祐巳に、どれだけの魔を抱え込ませてしまったのか。
自嘲気味に笑った、だろう。多分。
もう目も見えない。感覚もない。
ただ嗅覚のみが、薔薇の香りを感じていた。
さらさら、さらさらと流れる液体。
これを養分とし、美しい花を咲かせよ。
一度罪に染まったその赤を すべて流してしまえ。
赤の罪は深く そして許されることなどない。
さらさら、さらさらと流れる血。
さらさら、さらさらと――。