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 夜明けが来たと一番鶏
 まどろみの中から浮上する
 私はもう、夢を見ない
 
 
彼方の少女
(1)
 
 透き通るように眩い、夏の一日だったことを記憶している。
 木々は深緑に輝き、枝葉の隙間から陽光の線が刺し込む。
 茂みを小さな動物が走り抜け、どこか遠くで蝉が鳴いていた。
 お気に入りの別荘の近く、お気に入りの散歩道。
 横を歩く妹は、真っ白な日傘をくるくると回して、楽しげに微笑んでいた。
 彼女は、祥子の自慢の妹だった。
 明るく、朗らかで、陰りがなくて、どこまでも優しい。
 口に出したことはないけれど、その優しさにどれだけ救われたかわからない。
 自分のような、我侭で、気が短くて、ひねくれていて、意地っ張りな、そんな姉をいつも支えてくれた。
 ――何より、愛してくれた。
 彼女は、祥子の自慢の妹だった。
 誰からも愛されて、誰からも好かれる、そんな娘。きっと彼女を嫌える人間なんて、いるはずがない。
 例え誰の妹になっても、きっと理想的な姉妹になれただろうに。
 彼女は祥子を愛し、選んでくれた。
 他の誰でもなく、小笠原祥子を、選んでくれた。
 自分が彼女を選んだ理由は百でも千でも思いつくけれど、彼女が自分を選んでくれた理由だけは、一つとして思い当たらない。
 それなのに、彼女は選んでくれたのだ。
 ――彼女は、祥子の自慢の妹だった。
 
 
 
 
「そろそろ、何をするかだけでも決めておかないとね」
 
 と、令は重々しく切り出した。
 薔薇の館、いつもの会議室。
 居並ぶ山百合会のメンバーは、それぞれの個性に見合った表情で同意を表した。
 黄薔薇のつぼみは腕を組んで考え込み、白薔薇さまは困ったように首を傾げて、白薔薇のつぼみは淡々とうなずく。
 そして祥子は、つまらなそうな表情でぼんやりと宙を見つめていた。
 
「夏休みももう終わりかけてるし。花寺と協議するにしても、こっちの準備がまるで整ってない」
 
 令は端整な顔立ちに生真面目な表情を浮かべて続ける。
 
「それに――こういう言い方も何だけど、人数も心許ない。正直な話、五人だけではどうにも、ね。花寺の文化祭のことも考えると、何をするかよりもそっちの方が切実かも」
「つまり、誰か手伝いができる人を引っ張って来いってこと?」
 
 由乃が口を挟んだ。
 
「引っ張るっていう表現もアレだけど……つまりそういうこと。由乃は、誰か心当たりいないの?」
「いたらさっさと連れて来るわよ。いえ、来ますわ、お姉さま」
 
 口を尖らせて応えかけて、由乃は慌てていい直した。
 
「志摩子さんと乃梨子ちゃんは、どう?」
「頼めば引き受けて下さる人はいると思うけど……その人たちにも、部活の都合とかあるでしょうから……」
「そりゃそうよね。自分の部活を最優先、そのていどは大前提として心得てくれる人でないと」
「瞳子なら、あるいは。ただ、あの娘に頼み事をするなら、私よりも――」
 
 交わされる会話を、祥子はどこか他人事のように聞いていた。
 何を論じているのかは分かっている。
 二学期に控えている学園祭、そこで行われる山百合会の企画についてだ。
 八月のこの時期からすれば気が早いといえるのかも知れないが、体育祭をはじめとする他の行事との兼ね合いや、毎年協力を依頼する花寺学院側の都合も考えると、そろそろ本格的に企画を立てる必要がある。
 実際のところ、彼女はかなり以前からそれについては考えていた。
 学園祭で何をするかなど、彼女の中ではほぼ確定していたほどだ。
 後は令と相談して、細部を詰めれば、いつでも準備を開始できるていどには、思考を進めていた。
 しかし、祥子は無言だった。
 自分の中で形を成しかけていた思考のすべてを、すでに放棄していた。
 それはもはや不可能なものとなっていたし――、実をいえば、どうでもよくなってもいたからだ。
 令がこれから何を提案するにしても――例えそれが、自分が演劇の主役を張らねばならないようなものであったとしても――受け入れる気分になっていた。
 寛容なるがためではなく、単に興味がないために。
 
「ですから――――――そう――――えば、――――んな――――――」
「――――――、私――――ます――――――」
「――ね。――――――けど――――るわ――――」
 
 いくつもの声が鼓膜を通り過ぎ、脳裏に染み込む前に片端から忘却されて行く。
 何を言っているのかわからない。誰が言っているのかわからない。
 ここは何処? 彼女は誰? 私は何?
 私は――どうして、存在しているの?
 わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。
 無数の問いかけが次々と浮かんで、そして未答のままに消えていく。
 そして最後に現れるのは、小笠原祥子という存在の根幹に刻まれた、たった一つの問いかけ。
 ――あの夏の一日。
 私は一体、何故――何故――何故――あんなことを。
 誰かが頭の中でそう呟いた瞬間、テレビのチャンネルが切り替わったように脳髄がクリアになった。
 ――あの夏の一日。
 透き通るように眩い、夏の一日。
 お気に入りの別荘の近く、お気に入りの散歩道。
 横を歩く彼女の妹。真っ白な日傘をくるくる、くるくると、子供のように回して。
 昼過ぎの野道を、並んで歩いた。
 閑静な森に人影はなく、まるで世界に自分と妹しかいないような。
 そんな快い気分に浸れた。
 二人は何処までも森を進む。
 何処までも何処までも。きっと世界の果てまでも。
 やがて、歩き疲れたらしい妹が、少し休みませんか、といった。
 祥子はうなずき、手近な木陰に腰を下ろす。
 手招きすると、妹は小走りに駆け寄ってきて、祥子の横に腰を下ろした。
 涼しげな風が吹いていて、心地よい疲れが全身を満たしていた。
 やがて彼女は、うつらうつらと眠りに落ちて――
 
「――子、祥子、聞いてる?」
 
 ふと気付くと、令が眉をひそめて声を上げていた。
 先ほどから何度か呼びかけていたらしい。
 
「――何かしら?」
「何かしらじゃないよ。瞳子ちゃんに、祥子から手伝いを頼んでもらえないかって話。親戚なんでしょ?」
「……瞳子ちゃん?」
 
 思わず鸚鵡返しに問い返したのは、訝しさの故ではなく、とっさにそれが誰か思い出せなかったためだ。
 数秒の時差を置いて、それが幼い頃から付き合いのある年下の親戚であることを思い出す。
 
「どうしたの?」
「いえ、何でもないの。わかったわ、私から頼んでおくから」
「紅薔薇さま、本当に大丈夫ですか?」
 
 志摩子が気遣わしげに口を挟んだ。
 
「何か最近、お元気がないように思うのですけど……」
「夏バテ、みたいなものよ。ちょっとぼんやりしてるだけ……心配しないで、志摩子」
「残暑が厳しいですからね」
 
 由乃がうんうんとうなずく。自身、昨年に心臓を手術するまでは病弱だったために、思い当たる節もあるのだろう。
 志摩子は完全に納得したわけではないようだったが、それでも「そうですか」とうなずき、令は眉をひそめたまま何も言わない。
 その後、瞳子を含め数人に手伝いを打診すること、具体的な企画の概要については三薔薇の間で協議を進めておくことを打ち合わせてから、会議はお開きになった。
 実のところは何が決まったわけでもないのだが、とりあえず全員の前で問題点を明らかにしただけでも前進、といったところだろう。
 閉会を告げられてから、祥子はさっさと荷物をまとめて席を立った。いちいち別れの挨拶も口にしない。別段、無愛想な気分になっているわけではなく、単に校門までは必然的に一同連れ立って帰るような形になるからだ。
 無言のままに会議室を出ようとした彼女を、
 
「祥子、ちょっといいかな」
 
 と、令が呼び止めた。
 何かしら、と振り返ると、「ちょっと相談があるんだけど」と口を濁す。
 祥子はしばらくその表情を確認し、いいわよ、とうなずいた。
 同じく鞄を片手に立ち上がっていた由乃が、
 
「それじゃお姉さま、私たちは外で待ってますから」
「先帰ってていいよ?」
「長くかかるお話なの?」
「いや、すぐすむけれど……」
「じゃ、待ってる」
 
 由乃はそう宣言すると、白薔薇姉妹と共に退室して行った。
 扉が閉められ、三人分の足音が階段を下って行く。
 階下で館の扉が開閉する音が聞こえるまで待ってから、祥子は友人を振り返った。
 
「それで、令? 何の御用?」
「用というほどのものでもないんだけど……」
 
 声音も口調も、妙に歯切れが悪い。常日頃は、ミスター・リリアンの異名に相応しくはっきりとした物言いを好む令としては、ひどく珍しい態度だった。
 数秒の逡巡の後、彼女は切り出した。
 
「……志摩子もいってたけど、祥子、最近本当におかしいよ?」
「いったでしょう。単なる夏バテよ。多分」
「体調が悪いようにも見えないんだけどな……」
「そう? まあ、そんなものかも知れないわね」
 
 気だるげに祥子は答える。
 まるきり、他人事のような口調。実際に他人事の口調。
 令は本格的に顔を曇らせ、
 
「……何か、変だよ。本当に。らしくないっていうより……」
「『いうより』、何?」
「……ううん。何でもない」
 
 令はため息まじりに頭を振ってから、おそらくは意図的にであろう、表情を悪戯っぽいものに切り替えた。
 
「それともう一つ。今更という気もするんだけどね。何をするにも人手が足りないって現状はよくわかっているよね、紅薔薇さま」
「それはもう、黄薔薇さま」
 
 祥子も調子を合わせて答えた。友人の、この種のさり気ない気遣いが、彼女は嫌いではない。
 
「なら、早く妹を作って下さると、私としても山百合会としても大いに助かるんだけど。五人が六人に増えるだけでも、当社比で二十パーセント増量になるんだから」
「たかだか二十パーセントでしょう。そのていどでは大した増分にならないわね」
「戦力倍増要素って言葉もあるんだけどね」
「寡聞にして知らないわ、そんな言葉」
 
 他愛のない言葉遊び、意味のないやり取り。
 祥子にして見れば白々しさの極致という自覚があった。
 二十パーセント? 倍増? ――冗談ではない。
 あの娘がいたならば、自分は百倍にも千倍にもなれる。
 
「まあ、ご意見は前向きに検討させていただくわ、黄薔薇さま」
「政治家的発言だね、紅薔薇さま」
 
 一人は白々しく、一人は純粋に親愛を込めて、二人の薔薇は笑みを交わした。
 
 
 
 
 
 ――あれは本当に、何故だったのだろうと祥子は思い出す。
 目覚めたとき、日差しは西に傾きかけていた。
 名も知れぬ巨木に姉妹二人してもたれかかった姿勢で、意外に長い時間眠り落ちてしまっていたらしい。
 そろそろ戻らなければ、と祥子は妹を振り返った。妹との時間が終わってしまうのがひどく残念だったけど、どうしようもないと思っていた。
 瞬間。
 呼吸が止まった。
 妹は心地よさそうに眠っていた。
 あどけない、幼女のような寝顔。
 すーすーと、聞いている側が安らぐような寝息が耳をくすぐった。
 折から吹いた風に煽られて、髪がゆるやかにたなびいていた。
 ――これほどに綺麗なものが。
 何よりも誰よりも愛しいものが。
 この世にあるなどと。
 一体誰が、知り得よう。
 祥子は惚けたようにその寝顔を見つめ――そして――そして。
 夢現のような気分で、両手を伸ばしていた。
 自分が何をしようとしているのか、何がしたいのか、祥子にはわからなかった。
 ただ、それが摂理であるかのように、手を伸ばしていた。
 まるで林檎が落ちるのと同じくらいの自然さで、体が動いていた。
 わずかに汗の滲んだ手が、妹の細い首にかかる。
 とくとくと、小さな鼓動が感じ取れた。それは命の鼓動、生の息吹、妹の命の音そのものだ。
 柔らかな肌に指が食い込む。華奢な首を、両手に納める。
 自らの手の中に、妹の命を文字通り握り締める。空恐ろしいほどの自覚。
 そして祥子は――その両掌に、全身の力を――――
 
 
 
 
 
 島津由乃は、宣言通り薔薇の館のすぐ前で待っていた。
 白薔薇姉妹も当然のように付き添っている。
 お待たせ、と令がいい、遅いよ、と由乃は答えた。
 
「何話してたの?」
「いつになったら山百合会には紅薔薇のつぼみが生まれるのかなっていう、そんな話」
「ふーん。令ちゃん、もといお姉さま、薔薇さまらしくなっちゃって」
「まあ、決まり文句だからね。由乃もそろそろ本気で妹を誰にするか考えたら?」
「考えてますとも。余計なお世話ですわ、お姉さま」
 
 いつものように仲良く喧嘩する黄薔薇姉妹を、志摩子は柔らかく微笑みながら、乃梨子は苦笑まじりに見守っている。
 実際、早く妹を、というのは歴代薔薇さまが妹たちにいいつける口癖のようなものなので、誰も深刻に取り合ってはいない。
 先代の白薔薇・佐藤聖が、当時一年の志摩子をつぼみに選んだという事実もある。
 だから――
 紅薔薇さまこと小笠原祥子に「いまだ」「つぼみが」「いない」という「事実」を、誰も深く考えていない。
 誰も、小笠原祥子に「妹が」「いない」「事実」を、疑わない。
 じゃれ合いながら校門へと歩き始める黄薔薇姉妹、それに続く白薔薇姉妹、そのさらに後ろを歩きながら、祥子はその矛盾とも言えない矛盾についてぼんやりと考えていた。
 誰も知らない。誰も覚えていない。
 小笠原祥子の妹のことを、誰も何も記憶していない。
 世界が自分に嘘をついているような、ありうるはずのない現実。
 何故と問うならば、あるいはこちらの方がより切実な設問だ。
 だというのに――どうしたことか、祥子はそれを疑問と思ったことすらなかった。
 出来の悪いモノクロの映画を漫然と眺めているような、そんな感覚。
 目に映る光景ははるかに遠く、実感として捉えることもない。
 ……だから、何もおかしく感じる必要も、ない。
 祥子は空を見上げ、眩しく照りつける太陽を視界の端に留めた。
 八月の終わり。厳しく照りつける晩夏の太陽は、あの夏の一日の透き通ったそれとはまるで似つかない。
 違和感よりも何よりも、何か納得したような気分になって、彼女はくすりと笑った。
 
 
 
 
 
 ……冷たくなった骸を森の中に置き捨てて別荘に戻ったとき、すでに妹の足跡は消えていた。
 お帰りが遅いので心配しておりました、お嬢さま。
 別荘の管理を務める沢村夫妻はそういって、ただ一人で帰って来た祥子を当たり前のように迎え入れた。
 明日には東京にお戻りになるのでしたね。お弁当、お作りさせていただきます。
 一人分の夕食をふるまいながら、キヨは少し寂しそうに微笑んだものだ。
 祥子は、らしくもなくぼんやりしていたと思う。
 森の中に残してきた妹。
 あの娘を殺したときの感触が、いまだ生々しく掌に残っていたから。
 徐々に失われていく体温を、日が暮れるまでずっと胸に抱いて感じつづけていたから。
 だから、何もいわなかった。
 ――翌日、東京に戻り。
 家族や友人たちと接する日々が始まって。
 小笠原祥子はようやく、世界が妹を忘れてしまった事実を知った。
 
 
 
 
 
 他人事のように眺めるうちにも、時計の針は規則正しく回転して行く。
 夏休みが終わり、新学期が始まって。
 花寺との、本格的な協議も何度となく行われた。
 会議の席で顔を合わせた花寺生徒会の代表――つまり生徒会長ということだが――の名は、福沢祐麒といった。
 殺してしまったあの娘の、実の弟だ。祥子とも何度か面識がある。
 姉にそっくりの顔立ちをした彼は、両校生徒会の最初の顔合わせの際、お久しぶりです、祥子さん、と頭を下げて挨拶してきた。雑談を装っていくつか確認して見たが、やはり彼の記憶からも祥子の妹の記憶は――彼にとっての実の姉の記憶は――消えていた。
 今年正月に小笠原家に泊まり込みに来たのは柏木優、佐藤聖、福沢祐麒の三人のみ。夏休みに別荘地で顔を合わせた――福沢祐麒は、姉の忘れ物の日傘を届けに来たことがあるのだ――のも、単に近くに来たから挨拶しに来ただけ、という風に祐麒は記憶していた。
 
「祐麒さんにはお姉さんがいらっしゃらなかったかしら」
 
 雑談の最中、祥子はふと思いついて直接的な質問をぶつけて見た。
 福沢祐麒はしばしぽかんと目を丸くしてから、
 
「いえ。俺は一人っ子ですけど」
 
 首を傾げてそう答えた。
 そうですか、と祥子はうなずき、それきり彼への興味を失った。
 別段、落胆も驚きもなかった。
 予想はしていたことだ。
 ただ、目に移る世界がますます遠くなったように感じられた。
 誰もあの娘のことを覚えていない。
 小笠原祥子の妹の存在を、忘却している。
 だが、それでいい――と。最近の祥子は考えるようになっている。
 誰が忘れても、祥子は覚えている。
 祥子だけは、覚えている。
 正月の楽しい一夜。
 バレンタインにくれた「びっくりチョコ」。
 後日に行った初めてのデート。
 梅雨の擦れ違い。
 祖母が亡くなって消沈していた祥子を許し、包み、受け入れて、癒してくれた。
 あの明るさを。輝きを。優しさを。――愛し愛された記憶を。
 一切合切を記憶している。
 それで十分ではないかと祥子には思えた。
 そうして花寺の文化祭が終わり、リリアンでは体育祭が行われて。
 小笠原祥子の妹だけを欠いたまま、季節は確実に移ろい、世界は彩りを変えて行く。
 ――そして、気が付けば。
 かつて彼女が妹を得た学園祭が、目の前に迫っていた。
 
                
(2に続く)
 
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