高級エステの黄薔薇さん
それは由乃さんの一言から始まった。
「祐巳さん、こういうのがあるんだけど、興味ない?」
そう言って差し出すのは一枚のチケット。
「なに、これ?」
「高級フィットネス&エステ、無料チケット。本券一枚で三名さままでご招待」
ふふん、と得意気にチケットをひらひら揺らす由乃さん。
「次の連休の土曜日に令ちゃんと一緒に行くつもりだったんだけど、せっかく三名さままでなんだから、もう一人、誰か行かないかなと思って。祐巳さんに決めたわけ」
うーん。選んでくれたのは嬉しいけど、それでは自分が由乃さんと令さまのデートのお邪魔虫になってしまうんじゃないだろうか。
その百面相を見破ったのか、由乃さんは笑う。
「ああ、気にすることないわよ。どうせこれは無料入場券。中に入ればそれぞれ自由に体験すればいいんだから」
それもそうだ。それに、フィットネスはおいといても、高級エステというのにはちょっと興味がある。高級と名がつくものにはお姉さま以外縁のない祐巳だけど、試しにやってみたいなとは思う。
「うん。それじゃあ一緒に行く。でも、本当にいいの? 令さまと二人っきりじゃなくて」
「大丈夫。祐巳さんなら、令ちゃんも大歓迎よ」
土曜日。
待ち合わせた三人はバスに乗る。
少し遠いが、普通の会社帰りのOLや学生を相手にしているクラブではない。なんといっても「高級」なのだ。
一見、ホテルと見違えるような豪華な建物。
ホテルみたいだね、と言うと、ホテルよ、と答える由乃さん。
どうやら、ホテルの中の施設らしい。
チケットを見せて入場、ロッカーで着替えてジムへ。
(うわああああ。やっぱり令さまって格好いい)
服装自体は単なる運動用のジャージ上下なのだが、中身が中身である。スポーティかつ凛々しくスマートな姿に祐巳は見とれてしまう。
視線に気づいてクスッと笑う令さま。
慌てて視線を外す祐巳。こんな所を由乃さんに見られたら何を言われるやら…。
けれども、当の由乃さんは祐巳の慌てぶりにも気づかずに、ずらりと並んだ運動器具を眺めている。
「一度やってみたかったの。こういうのを」
あまり女の子らしい好奇心とは言えないが、スポーツ観戦が趣味の由乃さんとしては、実際に試してみたいと思ったことも多いのだろう。
祐巳も、例え本命がエステだとしても、せっかく来たんだからやってみようかなという気になっている。
「試合でよその学校に行くとね、スポーツに力を入れているところだと、こういう器具が体育館に並んでいたりするんだよ」
「令ちゃんもやってみたかったの?」
「少しね」
「じゃあ一緒にやろう」
「由乃。これは別に一緒にやるための器具じゃないんだよ」
「じゃあ順番にやればいいじゃない」
すでに由乃さんは祐巳のことを忘れているっぽい。
「あ、私は一人で見学していますから、大丈夫です」
すまなそうにこっちを見ている令さまに手を振り、祐巳はその場から後じさりして離れた。
時間のせいか時期のせいか、人はあまり多くない。
(でも、姉妹のデートがフィットネスクラブなんて…)
自分とお姉さまを黄薔薇姉妹にだぶらせてみて、頭を抱える祐巳。
(似合わない。お姉さまにフィットネスは似合わない)
例え高級という言葉が付いていても、小笠原祥子さまが運動器具を使っている姿は想像しにくい。
うっかり白薔薇姉妹を想像してさらに頭を抱え、一人で笑いを堪える祐巳。
志摩子さんと乃梨子ちゃんはさらに想像しにくい。というか乃梨子ちゃんはまだしも志摩子さんの姿は全く想像できない。
それは似合わないと言うより、すでにお笑いの域だ。
(お笑い…?)
そのまま、先代薔薇さまお別れ会の悪夢まで記憶が繋がり、どーんと落ち込む祐巳。
(あ…何やってんだろ、私)
悪夢を振り払って顔を上げると、エステの部屋の看板が見える。
そうだ。本命はこれだった。
マッサージとか、マッサージとか。さらにマッサージとか。
エステと言われても祐巳にはその程度しか想像できないが、とにかく気持ちのいいものらしい。
筋肉痛のときに祐麒にマッサージしてもらったことはある。あれはあれで気持ちいいものだが、それとは全く違うはずだ。
入ろうとして、注意書きに気づく。
一旦ロッカールームに戻って全裸にバスタオルを巻き、ロッカールーム側の入り口から入るように書かれている。
(全裸…って裸?)
横に由乃さんがいたら思いっきり突っ込まれそうな当たり前のことを考える祐巳。
うん。これは祐麒のマッサージとは相当に違うようだ。
(気持ちいい…)
想像通り、マッサージは気持ちよかった。
他にも数人が受けているが、みんな気持ちよさそうに目を閉じている。
(これは高級っぽいよ…)
フィットネスはよくわからなかったが、こちらはまさに祐巳の持つ高級のイメージにどんぴしゃりだった。
第一、ここでマッサージを受けるお姉さまは容易に想像できる。
志摩子さんも、こっちならイメージぴったりだ。
先代の薔薇さまもそんなイメージ…しかし祐巳の浮かべたイメージの中では、何故か聖さまはマッサージする側にいた。しかも嬉しそうな顔で。
(へっへっへっ…お嬢さん、イイ肌でんなー)
何故かわざとらしい関西弁の中年男笑いまで聞こえてくるような気がする。
(気のせい気のせい)
祐巳はマッサージに精神を集中した。
(気持ちいい…)
思考がループしていて同じことしか考えられない。
確かにこれはとてもいい。高級の名にふさわしい。
なにか、自分が女王さまになったような気分。
周りに従者を侍らせて…可南子ちゃんとか瞳子ちゃんとか。
って、なんでこの二人、しかも従者って。
(ああ、これじゃあ私もヘンタイさんだ)
自分で自分にツッコミを入れたところでマッサージが終わる。
名残は惜しいが、時間は時間。
延長は…値段を考えただけで怖気を振るってしまう。
エステの部屋から一旦ロッカールームに戻る。バスタオル一枚の姿で戻ってみると、由乃さんのロッカーから何かはみ出ている。スポーツタオルの端だ。
ということは一度ここに戻ってきて…シャワー室かもしれない。
祐巳は素直にそのままシャワー室に入る。
大きな音を立てて開くドア。ビックリしたがよく見ると鈴が付いている。覗き防止の為だろうか?
それにしても、シャワー室も広い。
しかも、それぞれが完全個室になっている。祐巳は足と頭が見えるようなシャワー室を想像していたのだが、やはり高級と名前が付くとひと味違うようだ。
これでは由乃さんたちが入っているかどうか判らない。
それでもきょろきょろしていると、あることに気づいた。
個室が一つしか使われていない。
一つ…。由乃さんと令さまだから必要なのは二つ。つまりここに入っているのは由乃さんでも令さまでもない。
いや、広そうな個室だから二人、それどころか三人くらい入れそうだ。
あの二人なら一緒に入りかねない。
そっと近づく。
なにか変な声が聞こえたような気がした。
(え?)
変な声。
(え? え? ちょっと待って)
扉に耳を押しつける。周りから見ると珍妙な姿だけどそんなことは気にしていない、というか気にする余裕がない。
「令ちゃん、もっと強く」
「痛くないの? 由乃」
「令ちゃんなら、平気だよ…」
(もしもし黄薔薇さま方?)
心の中で突っ込む祐巳。
(仲がよろしいのは結構ですけれども、こんなところで何を…)
当然そのツッコミが二人の耳に届くわけもない。
聞き続ける祐巳。二人の声に頬を染め…
そこで我に返る。
(何やってるの、私。こんなところ誰かに見られたら…)
祐巳はドアから離れると、背中を向け、わざとらしく声を上げた。
「由乃さん、令さま、いる?」
ゆっくりと開くドア。
「ああ、そこにいたのね由乃さん。探していたの」
何事もなかったかのように言う祐巳だが、そもそも祐巳はポーカーフェイスが苦手だ。
手招きする由乃さん。
「祐巳さん、ちょっと…」
「へ?」
手の届く範囲まで近づくと、令さまが祐巳を捕まえる。
「え?」
「祐巳さん、わざとらしすぎ。シャワー室のドアがあんな大きい音立てるんだから、もっと早く入ってきてたのバレバレよ」
「ええっ!?」
「なんでもっと早く声をかけなかったのかなぁ…?」
「由乃さん? 令さま?」
「祐巳ちゃん、さ、おいで」
猫なで声。状況さえ違えば、間違いなくうっとりとする声。
でも今はそんなことをしている場合じゃない。
しかし、令さまと由乃さんの二人がかりでは祐巳が逃れられるわけもなく、引きずり込まれて個室のドアが閉められる。
まさか、まさか、まさか。
(二人がかりでイタズラされる!?)
パニックになりそうな祐巳。
「祐巳さん、何真っ赤になって慌ててるの?」
由乃さん、ややムスッとした口調。
「まさかとは思うけど、なにか激しく誤解してない?」
「へ?」
誤解。誤解と言われれば納得できる。
というより、自分の想像していたことを思い返して祐巳の頬がさらに赤くなる。
「誤解? なんのことかな、由乃さん」
頭を抱える由乃さん。
「ああ、やっぱり誤解してたのね。いくらなんでも場所柄ってものがあるじゃない? 祐巳さん」
それじゃあ場所さえ整っていれば二人はそういう関係なのか、と突っ込みたくなるのを堪える祐巳。
「令ちゃんのせいで祐巳さんまで変な誤解してる」
「そんなこと言ったって、ここに入ろうって言ったのは由乃じゃないか」
令さまの声は極端に情けない。由乃さんが一緒だとミスターリリアンの凛々しさはどこへやら。事情知ったる祐巳の前だから令さまも平気でヘタれてしまう。
「ほら、これ」
由乃さんが差し出したのは垢擦り。
「背中にね、届かないのよ」
「由乃さん…もしかして洗いっこしてたの?」
「そうよ。祐巳さんが何を考えていたのかは知らないけど」
「そ、そ、そ、そ…」
新手の道路工事か。
「それは、その…」
「まあ、いいけど」
肩をすくめる由乃さん。
「それにしても、祐巳ちゃんはやっぱり祥子の妹だね」
令さまが思い出し笑いしながら、そう言った。
「ええ?」
祐巳はどうしてここにお姉さまの名前が出てくるのかが判らない。
「去年、祥子も同じような勘違いしてたから。あ、ちなみにここのチケットをくれたのは祥子よ。祥子は自分ではこういう所には来ないらしいから、良くチケットをくれるのよ」
「…令ちゃん?」
やや険しい由乃さんの口調。
「私、ここに来るの初めてだけど…去年は誰と来て、祥子さまに勘違いされたの?」
「あ…」
令さまの笑いがとたんにぎこちないものになる。
「あ、勘違いだった。私はここには来てないよ、由乃」
「江利子さまなのね…」
「あ、いや、由乃?」
「江利子さまと去年来てたのね?」
「あのね、由乃」
「江利子さまと去年ここに来て洗いっこしたのね?」
「洗いっこはしてません…江利子さまがふざけて同じシャワー室に入ってきただけです」
「それを今まで黙ってたんだ…」
祐巳はゆっくりとシャワー個室を出た。その祐巳の姿を由乃さんは気にしていないし、令さまは気にする余裕がない。
個室の戸を閉め、ゆっくりと退散していく祐巳。
「令ちゃんのバカーーーーーーっ!」
由乃さんの声が、シャワー室に響いていた。