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春を迎えるあなたに
 
 
 もうすぐ、高等部の卒業式。それが終われば、薔薇さまたちはいなくなってしまう。
 それは寂しいが、それでもお姉さまが次の紅薔薇さまになると言うのならばなんの不安もない。私はそう確信していた。
 そして三日前、お姉さまは私と令に言った。
「次代の薔薇さまの、事実上の初仕事よ。次代のつぼみも一緒に手伝いなさい」
 まだ肌寒さの残る季節、お姉さまに言われたとおりの時間、夜明け間近の暗がりに起き出すのはつらかった。
 それでも、お姉さまの言葉には従うほか無い。
 別に強制されているわけではないが、私が従いたいのだ。他ならぬ、お姉さまの言葉だからこそ。
 私はまだ明けきってない暗い道を、リリアンに向かって歩いていた。こんな朝から、松井を働かせる気にはならなかった。少なくとも、始発電車は動いていたのだし。
「ああ、祥子」
 背後からの声に驚いたが、声の主は令だった。
「ごきげんよう。もしかして、驚かせた?」
「ごきげんよう、令。いいえ、驚いてなどいないわ」
 数少ない、私の友達。友達など、必要以上には欲しいとも思わないが、それでも令の存在はありがたい。特にこんな日は。
 私たちは、リリアン女学院の別門に続く道を歩く。この時間には、まだ正門は開けられていない。だが、薔薇の館に一番近い位置にある別門は開けてあるはずだった。
 少なくとも、昨日のお姉さまの話ではそういうことだった。
「祥子は今日のことで何か詳しいことは聞いているの?」
「いいえ。令こそ、江利子さまからは何も聞いていないの?」
「聞いてない。部活もないのにこんな時間に出て行くから、由乃に説明するのが大変だったんだよ」
 とりとめのない話を続けていると、いつの間にか別門の前にたどり着いていた。
「ごきげんよう、お二人さん」
「ごきげんよう。お姉さま」
 令の表情が一気に明るくなる。まるで、お母さんの迎えを待ちわびた幼稚園児のよう。
「ごきげんよう、江利子さま」
 別門の前に待っていたのは、江利子さまだった。
「さあ早く入って。二人が入ったら鍵、締めちゃうからね」
 門をくぐる三人。私が周りを見渡すのを見て、江利子さまがにたりと笑う。
「祥子ちゃん、蓉子なら薔薇の館にいるわ。そんなに慌てなくても蓉子は逃げないわよ」
 私はその言葉で赤くなっていたのだと思う。令も私のほうを見て苦笑していたから。
「私は、他に誰かいないかどうかを見ていただけですわ」
「聖はいない。だからこの三人と蓉子だけだよ」
「聖さまはいらっしゃらないのですか?」
 令が私の分も尋ねてくれた。
「ええ。今の聖だと、一緒に行っちゃいかねないからね…、蓉子がそれを心配しているのよ」
 一緒に…行く?
 江利子さまはなんの話をしているのだろうか。
 そのときの私には、想像もつかなかった。
「二階に上がる前に、これを持ってよ」
 薔薇の館に入った私たちを、江利子さまは一階の物置に導いた。
「これはなんですの?」
「見ての通り、大小様々、色とりどりの水差しよ」
 江利子さまの言葉通り、数多くの水差しが並べられている。
「これを持って上がるのよ。そして上にいる蓉子に渡したらまた戻ってきて、三往復もすれば運びきるでしょ」
 素直に運び始める令。両手で一つずつ、小脇に一つずつ。
 私は両手に一つずつがやっとだ。
 階段の上、ビスケット扉の向こうではお姉さまが水差しに水をたっぷりと張っていた。
「ごきげんよう、祥子、令。早速だけど、水差しは全部こっちに持ってきて。それが終わったら、テーブルの上に適当に水の入ったものから並べていってね」
 水差しを全て運び終え、私たちはお姉さまの指示に従ってテーブルの上をセッティングした。
「最後に、これにも水をたっぷり入れて、扉の反対側に並べて」
 お姉さまが出したのは、大きなマグカップ。普通のマグカップの二倍以上はある。
「どの代かは忘れたけれど、陶芸が趣味の薔薇さまがいて、その方が手づから作ったものよ」
 全てが終わると、私たちは椅子に座るように言われた。
「あとは待つだけだけど、二人とも、特に祥子、腑に落ちないって顔してるわね」
 お姉さまは愉快そうに私を見ている。
「令はどうなの?」
「私は、お姉さまに従うだけですから」
「うん。今日ばかりは令が絶対正しいわ」
 本当に、意地悪なお姉さまだ。それを楽しんでいる私が言うのもおかしいけれど。
「説明してあげてもいいけど、こればかりは実際に自分の目で見てもらった方がいいと思うのよね」
 そう言った江利子さまの言葉にうなずくお姉さま。
「私たちだって、自分の目で見なければ多分信じなかったでしょうね」
「ああ、一つだけ言っておくわよ、令、祥子。これからここに来る人がどなたであっても薔薇の館の大切なお客様。失礼の無いようにね。もし失礼があれば…」
 江利子さまは真剣な目で私たちを見渡す。
「ロザリオを返してもらうことも考えるわ」
 それほどまでに重要なお客様なのだろうか。だとすれば、余計に次代の白薔薇さまの不在は…。
「さっきも言ったけど、今日は聖はなし」
「江利子の言うとおり、今日は聖を連れてくるわけにはいかないのよ。もし、今日あの子がついていく気になったら、多分私たちじゃ…いいえ、白薔薇さまでも止められないでしょうね」
 また同じ事をお姉さまたちは心配している。
 一体何が来るというのだろう。聖さまを連れて行ってしまうかもしれない者…、そしてそれをお姉さまたちは歓迎するという。
 私の問に、お姉さまは明確に答えた。
「祥子。一つ訂正よ。聖が連れて行かれることを心配しているんじゃないの。そんなことはないと思うわ。私たちが心配しているのは、聖が自分の意志でついていってしまうんじゃないかって言うこと」
 私は、聖さまの事件を詳しくは知らない。それでも、お姉さまたちが真剣に聖さまのことを思っていることは知っている。だから、それ以上は何も聞かなかった。
 
 それは突然現れた。
 扉が開く気配もなく、音もなく、実際に動いた様子もなく、三人の女学生がいつの間にか立っていた。
「ごきげんよう」
 立ち上がり、丁寧に挨拶するお姉さまと江利子さま。
 私と令もそれに従った。
「ごきげんよう」
 三つの影は同時に答えた。
 不思議な声だった。まだ幼児のようにあどけなく、しかし老婆のように疲れた声。
 三人の来ているのはリリアンの制服だが、どこか違和感がある。
 少しして私は気付いた。今の私たちの制服と、デザインはほとんど同じだが、生地が違うのだ。
 手触りを試してみる必要はなく、目で見るだけでも私たちの者とは比較にならない劣悪なものだとわかる。さらには、所々に継ぎが当たっている。
 そしてその顔。
 顔は未だに思い出せない。それでもその瞬間は、美しい人だと思った。その記憶はある。それなのに、その顔に関しては何も思い出せないのだ。
「あなた達が紅薔薇さま、黄薔薇さま?」
 三人はお姉さまたちにそう呼びかけた。
 そして次のお姉さまたちの言葉に私と令は、お客様の前であることを忘れて声を上げてしまう所だった。
 お姉さまと江利子さまはこう言ったのだ。
「ようこそ。しろばらさま、あかばらさま、きばらさま」
 ロサ・ギガンティア、ロサ・キネンシス、ロサ・フェティダではなく、しろばらさま、あかばらさま、きばらさま。と。
「白薔薇さまは、残念ながらおりません。その代わりに、私たちつぼみが来ていますの」
 お姉さまは少し頭を下げた。
「まあ。可愛らしいつぼみさん達ね」
 “しろばらさま”は微笑んだ。
「それは構わないけど、なにか心配事があるのかしら?」
 “あかばらさま”が尋ねる。その顔はどことなく聖さまのお姉さま、白薔薇さまに似ていた。
「今のあの子は、“ばらさま”たちについて行ってしまうかもしれないので…」
 江利子さまの言葉にクスクス笑う“ばらさま”達。
「ああ、そうね。今までもときどきそういう子がいたようだもの」
 “きばらさま”は一番大きな声で笑っていた。でも、その声に嫌みな部分は全く感じられなかった。
「私たちにできるのは、その子に置いて行かれた友達の悲しみを哀れむことだけだというのにね…」
 言いながら、突然“きばらさま”は自らの身体を抱きしめた。
「熱っ!」
 それに連鎖するように、“あかばらさま”“しろばらさま”も自分の身体を抱きしめ、呻く。
 まるで苦痛に晒されているかのように。
 私は異臭に顔をしかめた。横では、令も同じように顔をしかめている。
 この匂い…まさか…そんな…
 この嫌な匂いは…
 嫌…これは…
「祥子!」
 お姉さまが叫ぶ。
「祥子、気を確かに持ちなさい」
「令、あなたならできるわよね。自分に気合いを入れてみなさい」
 お姉さま達の言葉で私たちは自分を取り戻した。さっきまでの匂いは嘘のように消えている。
「気の持ちよう…というより、自分がしっかりしていれば連れて行かれることもない。そういうことよ」
 江利子さまはわたしと令の間に入って、優しくそう言ってくれた。
「さあ。お客様に振る舞いましょう」
 お姉さまは既に、苦しむ“あかばらさま”にマグカップを渡していた。
 江利子さまは“きばらさま”に。
 そして私と令は、お姉さまと江利子さまを見よう見まねで“しろばらさま”に。
 驚いたことに、ほとんど一瞬にしてマグカップの水はなくなった。
 一気に、どころか息すらしないように、水は“ばらさま”たちの喉に吸い込まれていったのだ。
 私たちは、用意してあった水差しからマグカップに水のお代わりを注いだ。
 何度も。何度も。
 
 水差しの大半が空になったとき、ようやくマグカップがテーブルに置かれた。
「ありがとう。喉の渇きが収まったわ」
 そういって、“あかばらさま”はお姉さまの前に移動した。
 “きばらさま”は江利子さまの前に。
 そして、“しろばらさま”は私と令の前に。
「ありがとう。可愛い妹たち。あなたも素敵な紅薔薇さまになれるわ…。せめてものお礼、祝福を…」
 そのころには私たちは“ばらさま”の正体に思い至っていた。今日の日付が何よりの証拠だ。
 私は令の顔を見た。令は私の顔を見てすぐに理解してくれた。
 ありがとう、令。
「待ってください」
 令が“しろばらさま”の伸ばした手をかいくぐるように横へ動く。
「令?」
 珍しい、江利子さまの慌てた声。
 私は一歩前に出た。
「もし、許されるなら、“しろばらさま”の祝福は、聖さまに」
 沈黙。
 私は、禁忌を犯したのかもしれない。それでも、涼しい顔でそれを受けることなど、私には考えられなかった。
 もし旧代の“しろばらさま”からの祝福が本当にあるのならば、それを今必要としているのは私でも令でもない。それは聖さまなのだ。
 クスクスクス…。
 三人が笑っていた。
 誰の声なのか区別が付かず、それでもはっきりとその声が聞こえてくる。
「祝福なんて、そんな力は私たちにはないのに…」
「私たちはただ、火に巻かれ、炎にあぶられて水を求めるだけなのに…」
「乾きと熱を抑える水を望みに現れるだけなのに…」
「でも、妹たちの心が嬉しい…」
「桜の花に託すから…」
「私たちはもう二度とそれを見ることはないけれど…」
「本当に祝福の力があるなら…」
「きっとあなた達を祝福するでしょう…」
 そして消えた。
 視界にとどめていたはずなのに、いつの間にか消えていた。
 かつて、火の雨に灼かれた少女達がいた。炎の中に倒れるしかない少女がいた。煙に巻かれ、一滴の水を求めて苦しみ抜いた少女がいた。
 それでも、生者が決めた今日という日の鎮魂に合わせて現れるなんて、リリアンの乙女はいつまでも律儀なのだ。
 そう考えると、少しおかしくて。私は小さくクスリと笑ってしまった。
「祥子?」
 令にだけは聞こえたようで、驚いた顔でこちらを見たけれど、多分私は、少し泣いていたんだと思う。
 令が、とても優しい顔でうなずいてくれたから。
 
 新学期が始まり、聖さまは志摩子と出会った。
 その場所を聞いたとき、私と令は顔を見合わせ、そして同時に感謝した。
 素敵な“しろばらさま”に。
 
 
 
 3月10日は「東京都平和の日」
 戦災で亡くなられた方々を追悼する日。
「なんでこんな日に集まるんだろう?」
「さあ、今回に限っては、令ちゃんは何も教えてくれないのよ」 由乃も首を傾げている。
 しかし祐巳は、祥子の言葉を疑うことなど夢にも思ったことがない。日付を疑問に思っているだけだ。
 別門では、令が待っていた。
「ごきげんよう。二人とも、今日はいつも以上にきちんとしてね」
「令ち…お姉さま、志摩子さんは先に来てるの?」
「今日は志摩子は来ない。どうしても家の用事で抜けられないって…それに…聖さまの卒業で、今の志摩子は不安定だから…」
 
 
 そして、春の桜の下、藤堂志摩子は二条乃梨子と巡り会う。
 祐巳と由乃が何を思ったか…それはここでは語らずにおこう。
 
 
 
 
あとがき
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