いつかレディになる日まで
「瞳子、優お兄ちゃんと結婚するの」
「アハハハッ。瞳子、僕はさっちゃんと結婚することに決まっているから、瞳子とは結婚できないよ」
「んー。じゃあ瞳子も祥子お姉さまと結婚するの。三人で結婚するの」
「瞳子ちゃん、三人では結婚できないのよ」
「うー、祥子お姉さまばっかりずーるーいのー。瞳子も優お兄ちゃんと結婚するのーーーー」
「よーし、それじゃあ、瞳子ちゃんは僕の愛人にしてあげる」
「愛人って何?」
「優さんっ!」
「冗談だよ、さっちゃん」
今考えるとあれは冗談ではなかったのかもしれないな、と祥子は思う。
当時は判らなかったが、今判っている柏木の性格からすると、それぐらいは本気で言いかねない所がある。柏木本人に言わせれば、瞳子を馬鹿にしているのではなく瞳子の意思を尊重しているからだ、と答えるのだろうが。
今考えるとあれが冗談でなければ良かったのに、と瞳子は思う。
当時は知らなかった、というより本人も気付いていなかったのかもしれないが、お兄さまが女の愛人を作るということはまず考えられない。本妻だけで充分だろう。少なくとも、“女”は。
それでも、あの時自分は本当に“優お兄ちゃん”のお嫁さんになりたかった。
今でも…
もしかすると…
ほんの少しくらいは…
うん。
こうやって柏木の家に遊びに来ていても何をするというわけでもなく、それでも優お兄さまの顔を見ると何故か満足できて。
目の前にいる人は女の子にはちっとも興味ないんだと判っていても、デートに誘われると嬉しくて。
「さっちゃんに断られたんだけど、せっかく切符と予約があるんだから。映画と食事、どうかな?」
「断られるなんて、お兄さまの魅力が足りないんですわ」
屈託のない言葉に嫌味を返しながら、何故か出そうになる涙を堪えてみたり。
だから、自分が嬉しくなる言葉をお兄さまに言わせてみたくなる。
「お兄さまが一番好きな女の方は祥子お姉さまなのでしょう?」
「そうだよ? それがとうかしたのかい?」
「では、二番目にお好きな方はどなたですの?」
瞳子だよ。そう答えさせて、自分を満足させる。例え誤魔化しでも、それで癒される自分が悲しいけれど、嬉しくなることは否定できないから。
「今は…」
瞳子は自分の耳を疑った。
(お兄さま?)
「うん。今は祐巳ちゃんかもしれないね」
福沢祐巳。こんな所にまで祐巳さまが。
瞳子は心の中で溜息をつく。今や、祐巳さまの魅力は祥子お姉さまだけでなく、お兄さまにまで及んでいる。そしてさらに悔しいことに、それも仕方ないと思っている自分がいる。
「でも、一番好きなのはユキチだけどね」
それはどうでもいいんです、優お兄さま。
ふと、思うときがある。
もしも祐巳様にロザリオを戴けるのなら、もしも福沢祐麒とまた出会うことがあったなら…。
二人を自分のモノとしたら、お兄さまは一体どうするんだろう?
もしも瞳子が祐巳さまの妹であり、その弟の彼女になったりしたら。
そこまで考えて瞳子はがっくり。
お兄さまの反応は決まっている。
そう、大喜びするに決まっている。
「瞳子のおかげで二人が僕に近づいてくれる」
多分そんな感じのことを言いながら。
気配りがきいているように見えて、人の気持ちには鈍感で、その代わり自分が踏まれても気にしない。女の子には人気の癖に男の子が好きな、優お兄さま。
もしも、祥子お姉さまが婚約を解消したいといえば、優お兄さまはどうするだろう?
お兄さまのことだから、祥子お姉さまの気持ちを尊重するのでしょうね。
瞳子はその先を想う。
もし私が代わりに立候補すると言えば、お兄さまはどんな顔をするでしょう?
驚く顔を想像して、瞳子はクスクス笑う。
「思い出し笑い? 何か学校であったの?」
お兄さまが尋ねる。瞳子は教えない。
「お兄さまには秘密ですわ」
「ふーん。つれないね」
「瞳子は祥子お姉さまと祐巳さまの次、ただの三番目ですもの」
「それじゃあ、今夜だけは一番でどうだい?」
「え?」
思ってもみなかった言葉に赤くなる瞳子。
「今夜はもう、さっちゃんの話題も祐巳ちゃんの話題も無し。それでどうだい?」
「祐巳さまの弟さまも?」
「……どうしよう?」
「どうしてそこで悩むんですか」
「わかった。僕も男だ。断腸の思いだけど、今夜はユキチの話題も諦めよう」
そうすると、今夜の優お兄さまは瞳子一人のもの?
車に乗って、映画を見たのがここまで。あとはご飯を食べて、家まで送ってもらえる。
ただそれだけの、素敵な時間。
「そのかわり、笑った理由を教えてもらえるかな?」
それは……
決断は早いほう。
瞳子は女優。
精一杯、意地悪な表情を作る。
「ええ。…もし優お兄さまが祥子お姉さまに振られたら、瞳子が代わりに結婚してあげてもよろしいですわね、と思ったんですわ」
一瞬きょとんと、そして笑い出すお兄さま。
「そうか。嬉しいな。だったら、さっちゃんに振られても僕は安心だ」
「瞳子でよろしいの?」
「勿論。瞳子が柏木の家に相応しいレディになってくれるなら。いや、多分そうなると、さっちゃんが他の男と結婚するなんて思えないから…。うん、僕が小笠原の養子になるかもしれないから、瞳子は小笠原の家に相応しいレディになることだね」
「勿論ですわ、お兄さま。約束を忘れないでくださいね」
馬鹿な約束。適わない約束。そして、素敵な約束。
「勿論。でもその前に、小学生の時の約束もまだ有効かな?」
「え?」
「瞳子が僕の愛人になる約束」
「お兄さま、覚えてらしたの?」
「僕が瞳子との約束を忘れるわけないよ」
微笑む横顔を、瞳子は見つめていた。
「お兄さまって…」
「ん?」
プイッと、瞳子は窓の外に流れる夜景に目をやった。
「結構…意地悪なんですね」
小さな呟きは聞こえない。
「何? 聞こえないよ、瞳子」
「何でもありませんわ。瞳子はもうお腹ペコペコなんです。早くお食事に行きましょう、お兄さま」
「ペコペコ…その言い方だとレディには遠いかな」
「いいんです。瞳子は瞳子ですから」
(優お兄さま、今の約束も忘れないでくださいましね)
瞳子が、いつかレディになる日まで。