こんなに温かい
私は、蓉子さまに選ばれたのだから。
胸を張って、
誰にも後ろ指を指されずに、
タイを真っ直ぐに、
スカートを翻すなんてもってのほか、
紅薔薇のつぼみの妹として恥ずかしくないように、
そしていつかは、紅薔薇のつぼみとして、
最後は、紅薔薇さまとして、
だって私は選ばれたから。
蓉子さまに選ばれたと。
小笠原の力とは関係ない。
お金も血筋も親の仕事も関係ない。
小笠原祥子が選ばれたのだから。
「令、剣道部はどうなの?」
「はい、お姉さま。来月、交流戦があるんです。それで、もしよろしければ…」
「令が勝ってくれるなら、応援しに行ってもいいわよ」
「勝ちます。お姉さまのためなら、私、絶対に勝てます!」
「令ったら、そんな大声を出さなくても聞こえるわ」
「あ、すいません…」
クスクス笑う江利子。
「いいのよ。それより、今の約束、忘れないでよ」
「私、由乃とも絶対に勝つって約束したんです。由乃とお姉さまの約束、絶対に守ります」
そこまで聞いて、蓉子はそっと江利子を見た。
あら。
江利子の顔が微妙にひきつっている。
「ああ、そう。由乃ちゃんね」
「はい。由乃がどうしても応援しに行くって言うんですけれど、会場は暖房も良く効かない体育館ですし、風邪でもひいたら大変ですから、来ないように説得するのが大変で…。由乃は、令ちゃんの…いえ、私のためなら風邪ぐらいひいたって応援するって聞かなくて。でも元々身体が弱いのに風邪なんか引いちゃうと……」
リリアン広しと言えども、姉の前でこれだけ惚気ることができるのも令だけだろう。しかも本人にはその自覚はない。全くの天然である。
「そう。それじゃあ…」
江利子はにっこりと笑った。
「由乃ちゃんは風邪を引いたら大変だけれど、私は別にいいんだ?」
「え?」
文字通り青ざめる令。
「そ、そんな、お姉さま…私はそんな意味で…、あ、すいません。本当にすいません」
笑いを堪えてる江利子の顔にむけて、「その辺にしておきなさいよ」と目で合図を送ると、蓉子は自分の妹のほうに目をやった。
小笠原祥子。
非の打ち所はない。
容姿、物腰、態度、学力、全てにおいて全く非の打ち所はない。
強いて言うならば、その閉じた性格か。いや、その性格が実は祥子の一番の問題だった。
だれとも社交的に会話をこなすことができる。裏を返せば、誰にも心を開くことができない。
全員と同じように接することしかできない祥子が、その閉じた部分をかいま見せるのは今のところ、蓉子と令だけだ。
蓉子はお姉さまとして、令は長いつき合いの旧友として。
祥子を、小笠原家の祥子ではなく単なる小笠原祥子として接することができている生徒は数少ない。
その筆頭が、令と蓉子。
薔薇さま方は当然のようにそれができているのだけれど、今は卒業に向けて忙しい時期だ。
江利子は祥子に興味を持っていないし、聖に至ってはそれどころの状態ではない。
そしてそれについて言えば、蓉子は実は祥子よりも聖のほうを心配している。できれば、親友のほうに心を向けていたいのだ。
冷たいわけではない。それだけ、今の聖が特異な立場でいるのだ。
蓉子は、誰にも気付かれないように溜息をつくと、令と祥子を見比べた。
祥子は自分の得たモノの価値を理解したくなかった。
勉強ができる。
…最高級の家庭教師を付ければ、学校の成績ぐらいなんとでもなる。
一通りのお稽古事。
…小さいときから通わされているだけ。自分で興味を持って習いたいといった記憶はない。
物腰と作法。
…そういうことにだけはうるさい家で生まれ育っただけ。誰かを敬うために覚えたつもりはない。
結局、自分の意志で勝ち取ったモノは何があるのだろう。
祥子は考えて、結論を出した。
そんなモノはない。
全て、小笠原の名で勝ち取ったモノ。
けれども今は、紅薔薇のつぼみの妹という立場がある。
でもそれは、ただ一人の親友の前では実に些細なこと。
「お待たせ、祥子」
支倉令。黄薔薇のつぼみの妹。彼女の前では、紅薔薇のつぼみの妹であることなど、なんの自慢にもならない。
そして彼女はただ一人、小笠原の名前に潰されることなくただの友達でいてくれる人。
家に招待したとき、ほとんどの友人は、屋敷の広さ、部屋の広さに口々に驚嘆し、そして微妙に態度を変える。
「私の部屋何個分?」「私の家何軒分」「祥子さんの部屋だけでうちの家族が暮らせるよ」
そんなことを聞きたいために呼んだ訳じゃない。
同じように部屋に入った令は言った。
「ふーん。祥子の部屋って、竹刀振り回しても平気みたいだね」
あまりの比較対照に呆気にとられた祥子は、次に笑い出した。
「あれ、何か変なこと言った?」
自分の言動のおかしさに気付いていない令に、祥子の笑いはより大きくなる。
その日から、祥子と令の友人関係が始まったのだ。
そしてすぐに祥子は気付いてしまった。
自分は令は勝てない、と。
学校の成績や家柄、そんなモノではない。
もっと根本的な何かで、祥子は自分が令に比べて決定的に劣っていると感じた。
剣道に打ち込む令の姿。それは令が自ら志して進む道だ。
自ら志し、自らを鍛え、自らの望む道へ進む。
令にとってはごく当たり前のそれが、祥子にはとても眩しく見える。
小笠原家の娘として過ごし、適齢期になれば親の決めた許嫁と結婚して共に家を盛り立てていく。それがいかに空虚なものだったか。
許嫁は魅力的な、素敵な男性だと思っていた。同性愛者だと告白されるまでは。
今となって見渡すと、子供の頃はそれなりの魅力を持ったビジョンすら色褪せている。
そんな祥子にとって、令は眩しい。
「今日は由乃も調子がいいから、一度会ってみてよ」
令の家に行くのは初めてではない。ただ、由乃にきちんと会うのは今日が初めてだった。
今までも姿は見かけたことがあるが、話したことはない。
「ごきげんよう」
令に紹介された由乃は線の細い、令が病弱だと説明するのもよくわかる女の子だった。
「令ちゃんのお友達?」
「ええ、小笠原祥子さん」
自分と話をしながらも、何かと由乃に気を遣う令の姿を、祥子は興味深そうに観察していた。
なんとなく、由乃が羨ましい。
令が飲み物をとりに席を外したとき、由乃が尋ねた。
「あの、鳥居江利子さんってどんな人なんですか?」
祥子は、ごく普通に知っていることを話した。
「その方と一緒にいるときの令ちゃんは楽しそうなんですか?」
「ええ」
祥子のさも当然だと言う答で、由乃はうつむいてしまう。
「…私でも、山百合会には入れるでしょうか?」
「え?」
「私、こんな身体でも、邪魔になりませんか?」
「何を言ってるの? 山百合会は高校の…」
そこで、祥子は由乃が今現在の話をしているのではないと理解した。
「それは…、由乃ちゃんが私か令、聖さまのロザリオを戴かないと無理でいてよ」
「それは大丈夫、私、令ちゃんのロザリオをもらうの。もう予約済みだから」
驚く祥子に、微笑む由乃。
「令ちゃんとも約束しました。私が高等部に入ったら、妹にしてくれるって。令ちゃんのお姉さまも知っているはずです」
「そう…」
実際の姉妹や親戚でロザリオを渡す者も少なくはない。それほど珍しい話ではないだろう。
「令ちゃんは誰にも渡さないから」
由乃の言葉に、祥子はドキリとした。
心を見抜かれている、そんな気がする口調。
「相手が誰であろうと、令ちゃんは渡しません。鳥居江利子であろうと、貴方であろうと」
「私…?」
「祥子さん、私と話しながらでも令ちゃんのほうばかり見てるから…」
「由乃ちゃん、誤解はやめて」
「そう…誤解ですか…」
見透かしたような物言いに、怒りよりも羞恥を感じて祥子は立ち上がった。
「ごめんなさい。用を思い出したの」
部屋を出ると、戻ってきた令と鉢合わせる。
「どうしたの、祥子?」
「ごめんなさい、令、私、用事を思い出して」
「ああ、そうか祥子、忙しいものね。もしかして今日誘って悪かったかな?」
相手を疑わない。そして自分の過失をまず考える。
優しいのだ、令は。
そして今は、その優しさがつらい。この優しさが、由乃を心配させていると判るから。この優しさに甘えてしまいたくなる人は決して少なくないだろうと判るから。
「大丈夫よ、令。私が予定を忘れていたのがいけないのだから」
それだけを言うと、祥子は階段を下りて玄関に向かう。
後を追う令に詫びの言葉をかけながら、祥子は支倉家を後にした。
薔薇の館には令と祥子しかいない。
三年生は受験と卒業の準備。聖さまは心ここにあらずが続き、江利子さまは差し迫った用事か興味がなければ薔薇の館であろうと寄りつかない。
そして蓉子さまはクラスの用事。
残っているのは二人だけだった。
「こうなるって判っていたら、もっと小さくしたのに」
令は、バッグから包みを取り出すと、中からロールケーキを出した。
「新作を、試しにつくってみたの」
皿の上にも置かずに器用に切り分ける。
「はい、これ」
切った後、皿の上に置いて祥子の前へ。
「本当はね、由乃にせがまれたの。それで試しにつくってみたら思った以上にうまくできて、それで今日持ってきたのよ」
祥子はゆっくりと味を見た。見るまでもなく、今までの経験からすれば令が作ったと言うだけで美味しいことは判っている。あとは、ゆっくり味わうかどうか。
「令。私、由乃ちゃんに言われた事があるの」
先日の、由乃との会話を簡単に繰り返す祥子。
「由乃ちゃんに言われて気付いたわ。私は貴方が好き。いえ、憧れていると言ったほうがいいかしら」
食べ終えた皿を返しながら、祥子は令に近づく。
「貴方は、私にないものばかりを持っている。私と違って、確実に自分の欲しいものを掴むことが出来る。私は、そんな貴方がとても羨ましいの。どうして、そんなに強いの?」
令は身動き一つせず祥子を待った。そして、祥子の言葉に照れたようにうつむく。
「勘違いしてない? 私は祥子が言うような大したことは何もしてないよ。それに……」
顔を上げると、手を伸ばし、祥子の髪に触れる。
「私だって、祥子が羨ましいんだから」
「令が? 私を?」
「とっても女らしい素敵な姿に憧れてた。貴方みたいな姿になる自分を想像して、泣きそうになったこともあるんだよ」
「そんな、私…」
「私たちは互いに、互いの持っていないものを持っているんだよ、きっと」
髪を触れられた祥子は、自然に令の腕の中に入るような体勢になる。
「私の持っているものなんて、何もないのよ、令。全部小笠原の力で望みもしない間に得たもの。私が望んだものなんて、何もなくってよ」
令の手が祥子の頭を包み込む。
「でも、こんなに温かい」
「え?」
「祥子はこんなに温かい。この暖かさすら、誰かにもらったものなの? 違うよ、これは祥子の暖かさだもの」
「そんなの意味がないわ…」
「誰かを暖めるんだよ、いずれ。私に由乃がいるように…」
「由乃ちゃんが…?」
「ええ。私には由乃がいるから」
令の腕に身体を預けるように、祥子の身体から力が抜けていく。
「令…」
「なに?」
「貴方が暖めるのは、由乃ちゃんじゃなきゃ……」
「駄目」
令が祥子の唇に指を当てた。
「それ以上言うと、私が祥子のことを嫌いになるから、駄目」
「でも…」
「今の祥子は蓉子さまに暖めてもらえばいいんだよ。いつかきっと、祥子にも暖める相手ができるから」
「考えたくないわ…私…妹なんて…」
「私に由乃がいるように、祥子にも大事な妹が必ずできる。だって、こんなに温かいんだよ?」
夢の中か記憶の中か。
あの日の出来事をそのまま夢に見た。
祥子は、起きてしばらくは時間の感覚を失っていた。
どうして、今日になって突然あの日のことを思い出したのか。
あれから半年以上経った今になって。
聖さまには志摩子、令には由乃。二人とも可愛い妹を作っている。
今や、妹がいないのは自分だけだ。しかも、蓉子さまからは早く作るように言われている。
そのプレッシャーで、あの日のことを夢に見たのか?
あの日。
令に抱きしめられた、最初で最後の日。
校門をくぐっても、まだ頭の中がもやもやしている。
そして、ふと前方に気付く。
「お待ちなさい」
下級生を呼び止める。
マリア像の前。
「はい…。あの………。私に御用でしょうか?」
ツインテールの少女が振り向いた。
その表情に、祥子は思わず微笑んでしまう。
「呼び止めたのは私で、その相手は貴方。間違いなくってよ」
祥子は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づく。
「持って」
カバンを持たせると、手を相手の首に回す。
「タイが、曲がっていてよ」
そして、祥子は福沢祐巳に出会ったのだった。