孫の闘い
いつの間にか習慣になっていること。
例えば、お昼休みになると、瞳子が由乃のおさげを解いて、もう一度結い直すこと。
鼻歌を歌いながら、器用に髪の毛をおさげにまとめていく。
しかも結構早い。
それを令は楽しそうに眺めている。
「うまいもんだね、瞳子ちゃん」
「髪の毛を弄るのは慣れてますのよ」
縦ロールを見ると誰もが納得。確かに、縦ロールに比べればおさげは楽だろう。
「お姉さまの髪の毛を弄っていると、心が落ち着きますの」
一度、由乃がいない日に、あまりにも手が寂しくなって錯乱した瞳子が可南子を強襲、押し倒した上に髪の毛を全部おさげにしてしまって大変な騒ぎになったことがある。
それ以来、可南子はちょっと瞳子に怯えている。
ちなみに、その騒ぎを目撃した一般生徒はこう語っている。
「メデューサかと思った」
尚、その場には志摩子と祥子もいたのだけれど、何故二人は襲われなかったのか。
瞳子曰く「本能的に避けたんだと思います」
やはり、錯乱状態でも人間、生存本能だけは捨てないようだ。
だからと言って、可南子を襲われても困る。
祐巳からの厳重注意。
「すいませんでした」
素直に謝ったところへ由乃の疑問。
「瞳子、貴方、私より祐巳さん相手のほうが素直じゃないの?」
「いえ。そんなことはありませんわ?」
「そう。それじゃあいいけど、あんまり可南子ちゃんいじめたら駄目だよ」
「可南子さんが私にちょっかいをかけてくるのがいけないんですわ」
「貴方さっき祐巳さんには素直に謝ってなかった?」
「気のせいですわ」
「そう」
「はい」
「本当に?」
「多分」
「多分!?」
「あ、いえ、本当に」
お弁当を食べているとき、それぞれの姉妹が固まっていることが多い。
ある日、乃梨子が志摩子にお弁当を作って持ってきた。「志摩子さん、これ。和食中心のお弁当。銀杏に百合根に…頑張って作ったんだよ」
「まあ、乃梨子。ありがたく戴くわ。それじゃあ今日は私がお茶を煎れるわね」
志摩子がお茶を煎れて、乃梨子がお弁当を広げる。
「まあ、美味しそう」
それを見ている祐巳と由乃。
「いいなぁ、志摩子さん」
「うん。羨ましい」
二人の言葉に顔を見合わせて苦笑する祥子と令。
「瞳子ちゃん、可南子、私たちも貴方達の腕が見たいものね」
「わかりましたわ、紅薔薇さま。明日は私がお姉さまに腕を振るって愛妻…げふんげふん、お弁当を作ってきますわ。ついでにと言ってはなんですが、紅薔薇さまの分も」
苦笑する祥子さま。
「ありがとう、可南子ちゃん」
「あ、可南子。お姉さまは好き嫌いが激しいから」
「祐巳、余計なことは言わないの。第一、私は好き嫌いなんてなくてよ」
「はい、お姉さま」
(可南子、家に帰ってから電話するね)
目配せする祐巳と密かに頷く可南子。
一方、由乃はじーーーーーっと瞳子を見つめている。
「……わ、わかりましたわ。明日はお姉さまと黄薔薇さまのお弁当もシェフに命じて作らせます」
「へえ、松平家のシェフのお弁当か、どんなのだろう。楽しみだね、由乃」
「私はいいよ、瞳子。別に松平家のシェフの弁当料理が食べたいわけじゃないもの」
由乃は明らかに白けた様子。
「由乃さん、作ってもらえばいいじゃない。私もお姉さまに小笠原家のシェフの特製お弁当をもらったことあるけど、やっぱりプロの作るお料理は美味しいよ?」
「プロ…ですか?」
「あ、いや、可南子の作るお弁当は別格。というか、腕よりも可南子の愛情の籠もったお弁当が…」
祐巳は墓穴に気付いて絶句する。
「そうね。籠もった愛情が大切なのよ。腕とか味とかじゃなくて。祐巳さんと可南子ちゃんはよくわかってるじゃない。誰かの妹と違って」
そう言いながら、立ち上がる由乃さん。
「私、剣道部に行って来るから」
「ちょ、ちょっと由乃」
「お姉さまも、剣道部に行かなければならないんじゃないですか?」
さっさと出て行く由乃。
瞳子も同じように立ち上がる。
「お姉さま、待って下さい」
追っていく瞳子。
二人をおろおろと見送る一同。
「由乃、ちょっと待ってよ。瞳子ちゃんも」
令は二人を追って出ていく。
「瞳子、なんでシェフなんて言うのよ…」
「乃梨子さんには志摩子さましかいないから、わかりにくいかもしれませんね」
「なに?」
可南子が瞳子の出て行った扉を見ながら言う。
「私も瞳子さんも、祥子さまや令さまを意識しないわけにはいきませんでしたから。けれども私はまだマシです」
可南子は祥子のほうに一礼した。
「紅薔薇さまは良くも悪くも市井の感覚をお持ちじゃありませんから、比べるのもおかしいくらいの差がありますもの。けれど、瞳子さんは大変だと思います」
「何が?」
「私は、小笠原家のシェフの作った料理に劣る物を作っても当たり前ですが、瞳子さんは相手が違います」
「あ…」
一同は、思い当たって顔を見合わせる。
確かに、ことお弁当については瞳子はかなりのハンデを背負っていたのだ。
令は瞳子を抜かして、由乃に追いついた。
「由乃。どうして怒るのよ。瞳子ちゃんは別にそんなつもりで言ったんじゃないよ」
「わかってるわよ、そんなこと。でも、情けないじゃない」
「それじゃあ、由乃は私のためにお弁当を作ってくれるの?」
「だって、私がそんなの苦手だって令ちゃんも…」
「瞳子ちゃんも同じだよ」
「あ……」
「明日、私が由乃と瞳子ちゃんの分も、美味しいお弁当作ってあげるよ」
追いついてきた瞳子に、
「ね、瞳子ちゃん」
「お姉さま」
瞳子は令を無視していた。
「お姉さま、意地悪じゃありませんこと?」
「私が?」
「そうですわ」
「どうして? 苦手なのは仕方ないけれど、最初からお弁当をシェフに作らせようとする人に言われたくないけど」
「勝てるわけないじゃありませんかっ」
「え?」
由乃の厳しい顔が揺らぐ。
「何を言ってるの? 瞳子」
「私が、令さまに勝てるわけがありませんわ!」
これには令が驚いた。
「瞳子ちゃん?」
「元々お料理が上手で、そのうえ、私なんかより何倍も何十倍もお姉さまと一緒にいて、好みも何もかも知っているなんて…」
「ちょ、ちょっと、瞳子ちゃん」
「卑怯なんじゃありませんの!」
瞳子の矛先が令に向いた。
由乃の顔に面白がる表情が浮かぶ
この瞳子の言葉、どこかで聞いた覚えが。
「令さまは、卑怯ですわっ! 令さまだけが、お姉さまのことに詳しいなんて!」
「ひ、卑怯?」
「そうじゃないですか。私は、お姉さまと知り合ってまだ一年も経っていないのに、令さまは生まれたときからずっと一緒にいるだなんて!」
「瞳子ちゃん、言ってることが無茶苦茶だよ」
そうだ。
由乃は思い出した。
これは自分の言葉。自分が、江利子さまに向かっていった言葉。
それを今、瞳子が令に向かって叫んでいる。
「瞳子!」
由乃は手を伸ばして、瞳子の肩に触れる。
「勘違いしてるよ」
「勘違いってなんですの?」
「私は瞳子のお弁当が食べたいの。令ちゃんより美味しいお弁当とか、そんなことは考えてないの。私はただ、瞳子が作ってくれたお弁当が食べたいの」
肩を引き寄せる。
由乃に急接近して、慌てる瞳子。
顔が近づく。
目を見開いて、頬が真っ赤に染まる。
普段のイケイケな言動に誤魔化されてはいけない。由乃はタイプこそ違えど、実は志摩子さんに匹敵する美少女だ。
「いい? 瞳子。私は、乃梨子ちゃんでも可南子ちゃんでも令ちゃんでも、ましてや松平家のシェフの作った物でもない、貴方の作ったお弁当が食べたいの」
ぎゅっと抱きしめる。
そして耳元で、
「それに愛情がこもっていれば、最高かな?」
「は、はい。お姉さま、作ります!」
感極まって、つい答えてしまった瞳子。
「ありがとー」
頬をくっつけてスリスリと摩擦する由乃。瞳子もそれに応えて頭を動かす。
令がぎゃーと叫んで引き離そうとするが、瞳子は由乃にしっかりと抱きついて離れない。
心配になって駆けつけた祐巳達は、痴話喧嘩真っ最中の黄薔薇姉妹を発見するのだった。
翌日、昼休みに可南子と乃梨子が慌てて薔薇の舘前に駆けつける。
二人は、そこでメンバーの到着を待ち、全員にくれぐれも瞳子の外見を気にするなと言い含める。
「今日は朝から一触即発です」
「触らぬ仏、もとい、神に祟りなしよ、志摩子さん」
何があったのかと一同がいぶかしみながら待っていると、当の瞳子がやってきた。
その瞬間、全員が二人の注意の意味を理解した。
ない。
ないのだ。
ドリル。瞳子と言えばドリル、そうリリアン中に認識されているはずのドリルがないのだ。
「どうやら、朝に髪を整える時間がなかったようなんです」
「それで誤魔化すために、全部一気にまとめて妙なポニーテールになってしまっているんです」
とにかく、全員が普通にお弁当を広げ始めた。
可南子はお弁当箱を祥子と祐巳にそれぞれ渡す。
「…可南子ちゃん?」
「はい」
「このお弁当箱、私と祐巳と明らかに大きさが違いすぎるような気が」
「ああ、すいません。それしか家になかったので」
「ああ、そう。それなら仕方ないわね」
数秒後。
「可南子ちゃん?」
「はい」
「中身が違いすぎるような気が…」
「同じものですわ」
「見た目からして全く…」
「ああ、同じものを作って、祐巳さまには真ん中のものを。紅薔薇さまには端っこや失敗作を入れてみました」
「可南子ちゃん?」
「味に違いはありませんし、食べられない物は入れてません。メニューはアスパラの炒め物、それに…」
見事に祥子の嫌いな物ばかり。慌てる祐巳。
しかし祥子は別の文句を言う。
「可南子ちゃん、切れ端とか失敗作ばかりなんて、こんな失礼な物、受け取れないわ」
「わかりました。私も冗談が過ぎたようですから、それは私が食べることにします。紅薔薇さまはこちらをどうぞ」
別のお弁当を差し出す可南子。
「先ほどとは別メニューですが」
開いてみる祥子。今度は祥子の好きなメニューになっている。
「あ…」
横から覗いて気付く祐巳、
「可南子、心臓に悪いからもっと素直になってよ…最初からお姉さまにこっちを渡すつもりだったんでしょう?」
「それもありますが…」
声を潜める可南子。
「こうすれば、私とお姉さまだけが同じメニューだと言うことを隠すカモフラージュになります」
「可南子…頭いい」
「山百合会幹部に対抗していると、嫌でもこうなりますわ」
そして、瞳子は由乃の前に一つの包みを置いていた。
「由乃さま、これが」
「ごめんね、瞳子」
「え?」
「自慢の縦ロールもできないほど、時間がかかったんだね」
「あ、これは、私がたまには気分を変えようと勝手に…」
「ありがとう、瞳子」
包みを開ける由乃。中には、美味しそうなサンドイッチ。
「おいしそう。ありかだく、戴くわ」
「乃梨子、ほっぺた」
「え?」
乃梨子の頬についたご飯粒を取る志摩子。
「はしたないわよ、乃梨子」
口調とは裏腹に、志摩子は微笑んでいる。
それを見ていた祐巳は、じーっと可南子を観察する。
「…? あの、お姉さま?」
「ん? あ、なんでもない。べつに…」
「いえ、ご飯粒が…」
祐巳の頬からご飯粒を摘む可南子。
「あれ」
自分についていたか、と頭を掻く祐巳。
「うふふ」
パクリ。
ご飯粒を食べてしまう可南子。
「か、か、か、可南子ちゃん!!!!」
祥子が立ち上がる。
「な、な、何をしているの!!!」
「え? ご飯粒を取っていたんですが…」
「食べ、食べ…貴方食べたでしょう!」
「ええ。あ、ごめんなさい。うちではいつもこうしていたので癖になってしまって…」
「そ、そう。それなら仕方ないわね」
あの、お姉さま。可南子の家族構成だと、可南子がご飯粒を取るような相手はいませんよ。
そう言いたいのを堪える祐巳。余計な波風は立たせないに越したことはないのだ。
「瞳子、どうしたの?」
由乃に言われるまで、瞳子は残りの姉妹の行動を眺めていた。
「あ、いえ、なんでもないです。それよりお姉さま、サンドイッチのお味はどうですか?」
「うん。美味しい。この卵サンド、念入りに潰してあるけど、時間かかったでしょうね」
「ちょっと、予想よりかかりましたけど、大したことはありませんわ」
そこで、瞳子は由乃の頬にタマゴの黄身の欠片がついているのを見つけた。頬と言っても限りなく唇に近い部分。
「由乃。私にもサンドイッチ一つ味見させてよ」
「ダーメ。これは瞳子が私のために作ってくれたサンドイッチだもの。お姉さまは自分のお弁当を食べてて下さい」
「あの、お姉さま」
「なに、瞳子」
「動かないで下さいまし」
ちゅっ
卵の黄身を直接食べてしまう瞳子。
「と、瞳子?」
「瞳子ちゃん!!」
片やうわずって、片や逆上気味に瞳子の名を呼ぶ黄薔薇姉妹の長女次女。
三女はにっこりと笑っている。
「お姉さまの頬に黄身がついていましたの」
「ま」
「瞳子ちゃんっ!!」
令の逆上。由乃の(令に対する)逆ギレ。瞳子の高笑い。
見事なまでの黄薔薇姉妹の暴走三連発を、眺めるしかない白紅薔薇姉妹だったという。