無敵の令ちゃん
「令ちゃんのバカー!」
ああ、またあの二人の痴話喧嘩が始まった。
と思われているんだろうけど、それはそれ。とりあえず今は一時の感情に身を任せて突っ走るだけ。
由乃は駆けだした。行く当てはないが、適当にダッシュして、温室辺りで息を整えていれば、いずれ令ちゃんが追いかけてくると判っている。
そもそも、令ちゃんがもう少し由乃の気持ちに気付いてくれれば、こんなにしばしば爆発することもないのだ。
確かに優しいのは令ちゃんのいい所だけれど、それが誰にでも優しいというのはちょっと嫌だ。
令ちゃんは由乃にだけ優しい令ちゃんでいて欲しい。ワガママだとは判っているけれど。
「令ちゃん?」
呟いてみても、令ちゃんは影も形もない。
温室の陰からそっと辺りを見回すが、やはりいない。
困った。これでは、仲直りに考えていた台詞が全部無駄になる。いや、それどころか、当面の問題として、どうやって薔薇の館まで戻ろう。
何もなかったかのように素で戻っていくのはさすがに恥ずかしい。
どうしようかと考えていると。可南子ちゃんの姿が見えた。
「可南子ちゃん!」
突然名前を呼ばれ、怯えたように振り返る可南子ちゃん。
「よ、由乃さま?」
「薔薇の館に行くの?」
「いえ、私はただ通りすがっただけで」
「どこかに急ぎの用事?」
「そういうわけではありませんが」
「じゃあ薔薇の館に来なさい。祐巳さんの顔が見られるなら貴方も嬉しいでしょ?」
「何を馬鹿なことをおっしゃって…」
「じゃあ可南子ちゃんは祐巳さんのタヌキ顔なんか見たくもない?」
「タヌキ顔なんて失礼な!」
「だよねえ」
可南子ちゃんは、由乃にひっかかったことに気付いて顔を赤らめる。
「判りました。伺います」
「そう。それじゃあ、可南子ちゃんは薔薇の館の場所を忘れなさい」
「はあ?」
「だから、可南子ちゃんは薔薇の館の場所をど忘れしちゃったの。そこで、私が案内してあげるのよ」
「あの…よくわからないのですが…」
由乃はじっと可南子ちゃんを見た。
「簡単なことでしょ? 下級生の可南子ちゃんが薔薇の館の場所を忘れてしまって困っていたから、親切な上級生の由乃さんが、道案内どころか、館まで連れて行ってあげるの」
「私は迷子ですか」
「そんなものね」
溜息をつく可南子ちゃん。
「また、戻るに戻れなくなったんですか?」
「今、また、って言った?」
「いえ、別に」
「…まあいいわ。とにかく、可南子ちゃんは薔薇の館の場所をど忘れしたの。いいわね」
「…判りました。私は薔薇の館の場所を忘れてしまいました。由乃さま、案内してくださいませんか?」
突然笑い出す由乃。
「大ボケねぇ、可南子ちゃん。薔薇の館の場所を忘れるなんて」
「やっぱり帰ります」
「あ、ごめん。ちょっと待って。待って、可南子ちゃん」
その日、薔薇の館に戻ると令ちゃんはいなかった。
可南子ちゃんを祐巳さんに引き合わせて、可南子ちゃんへのお礼に、二人一緒の仕事を押しつける。
いつの間にか来ていた瞳子ちゃんには睨まれたが、別に由乃は気にしていない。
それよりも、令ちゃんの不在が気になった。
「令なら先に帰ったわよ」
祥子さまが、由乃の質問に先んじて言う。
「珍しく、真剣な顔で怒っていたみたいだったけど。由乃ちゃん、いくらなんでも、令に甘えすぎじゃない? 令だって人間よ、ヒステリーを起こしたり、ハンカチを引きちぎりたくなるときだってあるわよ」
ヒステリーは置いたとしても、ハンカチ云々は貴方だけです、祥子さま。
由乃はそう言いたいのを堪えて、他のメンバーの意見を聞いてみた。
「黄薔薇さまなら、帰りましたよ。ええ、何か考え事をしてるみたいでしたよ」
と、乃梨子ちゃん。
「ええ。令さまはお帰りになられたわ。由乃さんも一緒だと思っていたのだけど、違ったのね」
これは志摩子さん。
どうやら本当に帰ってしまったらしい。令ちゃんに頼まれたらいけしゃあしゃあと嘘をつきそうな祥子さまはまだしも、白薔薇姉妹が嘘をつくとは思えない。
仕方なく、由乃は家に帰ってみたが、今度は令ちゃんが自分の家から出てこない。
「ゴメンね、由乃ちゃん。なんか令ったら、帰ってきたらずっと忙しそうなのよ」
別にわざと避けているのではなく、何かの作業をしているらしい。
自分に関係のあることなのだろうか? 今日の喧嘩と関係あることなのか?
「お菓子の材料を買い込んでいたみたいなんだけどね」
ああ、なるほど。
由乃は納得した。令ちゃんは仲直りのためにお菓子を作ろうとしているのだ。ケーキか、クッキーか、ドーナッツか、シュークリームか、変わったところでは最近手を伸ばし始めた和菓子系か。
由乃はそれを楽しみに、夕飯は少し控えめにした。
ぐぎゅる〜ぐるぎゅ〜〜
お腹の鳴る音。
「令ちゃん、どうしてこないのよ…」
机に突っ伏して由乃は呟いていた。
夕飯を少なめに食べたのが災いして、空腹が無視できなくなっていた。
「こんな事ならちゃんとご飯食べておけば良かった…」
しかも今日のおかずは好物だったのに。
「令ちゃんのバカ…」
結局その夜は、空腹を抱えて眠る羽目になってしまったのだった。
翌日、まずは祐巳さんの様子がおかしい。
「何かあったの?」
「ううん。何もないよ?」
休み時間になるとなにやらごそごそしている。
よく見ると、何かの包みの中に手を入れてごそごそとやっている。
「なに、それ」
悪戯が見つかった子供のように祐巳さんは慌てる。
「なんでもない。なんでもないよ?」
口の回りが食べかすだらけだよ、祐巳さん。
「違うよ。これは違う。市販のクッキーだから。別に令さまにもらった訳じゃないから」
「ほほお」
「あら祐巳さん、これはいいものを」
「私もお一つ」
蔦子さんと真美さんが、祐巳さんの隠そうとした袋から器用にクッキーを一つずつ掴みだして口へと運ぶ。
「「……」」
見つめ合う二人。
「……祐巳さん、これ、どこのお店?」
「どこで売ってるの?」
詰め寄るようにそれぞれが祐巳さんに尋ねる。
「え、ええ?」
「これは是非買いたい。というかもっと食べたい。家にバケツで常備したい」
「知られざる名店なら是非取材したいわ、どこなの、祐巳さん!」
「そ、それは…」
祐巳さんが助けを求めるように由乃を見る。
とてもわかりやすい。
「あのね、蔦子さん、真美さん。それは令さま…黄薔薇さまの作ったクッキーよ」
「黄薔薇さまの?」
「そう。支倉令さまの作ったクッキーよ。貴方達、黄薔薇さま手作りのクッキーを食べちゃった訳よ?」
「えーと。祐巳さん、ゴメン」
「ごめんなさい、祐巳さん」
「うん。いいよ、別に。急に手が伸びてきてビックリしただけだから」
「じゃあもう一個」
「それは断る」
そうこうしているうちにお昼休み。
「ねえ、由乃さん」
薔薇の館へ向かう途中で、祐巳さんが話題を切り出した。
「ちゃんと令さまに謝ったほうがいいよ」
「なんで私が。悪いのは令ち…お姉さまなのよ」
「でもやっぱり、令さまは由乃さんのお姉さまなわけだし」
「年功序列反対!」
とうとう乃梨子ちゃんみたいな事を言い出す由乃。
薔薇の館では、もうみんなが揃ってお弁当を食べていた。
様子がおかしい。
「由乃ちゃん。昨日のことなんだけど」
「紅薔薇さま?」
「やはり、貴方が令に謝るべきだと思うのだけれど?」
「紅薔薇さままでそんなこと…を……お?」
よく見ると、祥子さまの口元に黄色いものが。
どうもカスタードクリームっぽい。
まさか…
「由乃さん、いいかしら?」
志摩子さんが、背後から声を掛けてきた。
「なに? 志摩子さん」
「昨日の件、由乃さんから折れた方がいいと思うの」
志摩子さんまで。
「…もしかして志摩子さん。令ちゃんに何かもらった?」
んぐ。どこかで変な音。
「いいえ」
あっさりと首を振る志摩子さん。でも向こうでは乃梨子ちゃんが大福餅を喉に詰まらせて激しく苦しんでいる。
そうか、白薔薇姉妹には和菓子なのね。
「黄薔薇さまに何か戴いて、それで由乃さんに意見するなんて、まるで賄賂みたいですわね。でも違いますわよ」
乃梨子ちゃんが倒れた。
「あの、志摩子さん」
「ですから、私は決して黄薔薇さまに何か結構なものを戴いてこのようなことを言っているわけでは…」
乃梨子ちゃんが痙攣している。やばいんじゃないかな。
「志摩子さん?」
「まだ疑うの?」
「いや、乃梨子ちゃん死にそうになってるよ」
「え?」
振り向くと「乃梨子!」と叫んで走り寄る。
由乃が見ていると、志摩子さんはマウストゥマウスを始めた。
海で溺れたわけでもないのに、と観察していると…。
ズルルルルルルル
乃梨子ちゃんの口の中から大福餅が出てきた。
…吸い出したの? 志摩子さん。
って、どんな肺活量なんですか、志摩子さん。
どちらにしろ、これで令ちゃんのやったことが判った。
簡単に言えば、
餌付け
それも実にあっさりと、紅薔薇姉妹と白薔薇姉妹は餌付けされてしまったらしい。
(令ちゃん、やるじゃない)
由乃はどうしてやろうかと考えながら、とっとと薔薇の館を出ようとした。
可南子ちゃんと瞳子ちゃんが珍しく並んでやってくる。
「瞳子ちゃ…」
呼びかけそうになって、由乃は気付いた。
二人とも、口の端には生クリームが付いている。
「あの二人まで…」
その日一日、由乃は山百合会全員に「黄薔薇さまに謝った方がいい」と言われ続ける羽目になる。
どうしてくれようか。
由乃はじっと考えた。令のお菓子作りの腕はもはや洗脳レベル。このままでは全員に攻められ続け、いずれ負けてしまうだろう。
けれども、よくよく考えてみればそれほど心配することはない。
令ちゃんのお菓子作りは確かに凄い。凄いが、それも少しの間の話。
令ちゃんに、毎日お菓子を作り続けられるほどのお小遣いはない。つまり、数日耐えれば全ては元に戻るのだ。
よし。それならそれでいい。
令ちゃんに洗脳された山百合会、かかってこい。
由乃は決心を固めた。
忘れていた。
由乃は肝心な事を忘れていた。
確かに、連日のお菓子作りをこのまま続ければお小遣いの関係で向こうは戦わずして負けていただろう。
けれども、向こうにはこの二人がいた。
小笠原祥子
松平瞳子
そう。資金は豊富だったのだ。それこそ、町のお菓子屋などよりも豊富だったのだ。
一週間後、由乃は素直に令ちゃんに謝った。
なおこの騒動の余波として、由乃と令ちゃん以外の山百合会メンバー全員(可南子ちゃん、瞳子ちゃん含む)が、お風呂上がりの体重計の上で
「ギャアアアアアアアアア」
と叫んでいたことは言うまでもないだろう