乃梨子の危機
「いい妹ってなんなんだろ」
私のつぶやきを耳にとめたのは、その隣にちょこんと座っている瞳子。
「乃梨子さん、何かお悩み? もしかして白薔薇さまとうまくいっていらっしゃらないとか…」
「いや、志摩子さ…お姉さまとはとてもうまくいってるわよ」
言いながら、ちょっと照れてしまう。まるで惚気ているみたい。
「それならよろしいのですけど…」
瞳子は首をかしげて、お弁当箱のふたを開ける。
私を中心にした反対側では、可南子がほとんど同時にお弁当箱のふたを開けていた。
互いに同じ動作をしていたことに気づいてムッとする二人。
…ああ、まただよ。この二人…
ここは薔薇の館。揃っているのは私と、現在お手伝い中の瞳子と可南子。二年生と三年生はまだ来ていない。
三人並んで仲良くお弁当を食べるの図なのだけれども、瞳子と可南子の間には必ず私が入らなければならない。この二人を隣り合わせに座らせることは、押しも押されもせぬ黄薔薇さま、泣く子も黙る紅薔薇さま、三薔薇でも最高級の白薔薇さまにも不可能とされている。
もっとも、紅薔薇のつぼみである福沢祐巳さまなら、あっさりと二人を従わせることができるかもしれない。あの人にはちょっと不思議な所がある。
「私、やっぱり高校からの編入だからかもしれないけれど、姉妹制度がイマイチ身体に染みついていないみたいで。リリアンにおける理想の姉妹っていうのはどんなものなのかなぁと思うことがあるのよ」
普通の沈黙ならいざ知らず、嫌な雰囲気の沈黙にはさすがに耐えられない。私はできるだけ無難な話題を選んだつもりだった。
「それは勿論…」取りあえず可南子への敵対心を引っ込めると、瞳子は胸を張るように続ける。
作戦成功。瞳子は、リリアンの風習を私にレクチャーすることをおのれの使命と考えている節があるのだ。
長々と続く瞳子の話だが、慣れたもので私の耳はその中の要点だけを拾い出していく。
「…、ですから端的に言えば、お互いの望みにいち早く気づき、準備する姉妹…」
相手の望みに気づいて準備する…
私が志摩子さんに望んでいること? そしてその準備
「…山百合会にはそのような姉妹こそが必要とされているのではないかと…」
瞳子が何か言い続けているが、私は別のものを見ている。
豪奢な洋室。天幕の張られたベッド。そこに腰掛けている自分。そして部屋の片隅から聞こえるシャワーの音。
シャワーの音が止まり、身体をバスタオルで巻いて出てくるその影は…
「準備は良くて? 乃梨子」
「し、志摩子さん…」
「私の望んだまま、準備してくれたのね…」
ふと気づくと、私はすけすけのネグリジェでベッドに腰掛けている。
(しええええええっ!)
「乃梨子さん?」
可南子の声で現実に引き戻される私。
「どうなさいましたの? 瞳子さんの話を全く聞いていなかったようですけど」
「あ、え? いいえ、なんでもないの、なんでもないのよ」
あああ、私ってば何を想像して…でも、志摩子さんが望むことって…。そうよ、志摩子さんなら私に何を望むか…
古風だが整然とした和室。私は布団の敷かれた部屋にいる。
布団の脇に人影。
寝間着姿の志摩子さん。ぞくっとするほど色っぽい。よく見ると、やや胸元がはだけて鎖骨から下のラインが見えている。
「乃梨子。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「あ。はい。志摩子さん」
二回目は自力で妄想から生還した。
(…今のがもしかして私の望み? ちょっと待て、私)
「どうかしましたの?」
可南子と乃梨子が心配そうに両方から顔をのぞき込んでくる。
「う、うん。ちょっとね。大丈夫」
まさか、突発的にお姉さまとのイケナイ妄想に突入してしまったなどと言えるはずがない。
(私は一体どうしたと言うんだろう…)
決してそういう趣味はない、と自分では信じている。勿論志摩子さんは大事なお姉さま…。
待て。私は自答した。
考えてみれば「お姉さま」という言葉に全く照れがなくなっているのはなんとしたことか。中学時代の自分なら、いくら仲のいい上級生と言えども「お姉さま」とは絶対に呼ばなかったはずだ。
やはりこれはどう考えてもこの環境、リリアン女学院の環境による影響だ。
少し妙な間ができたが、それでも黙々とお弁当を食べる。
「あのー」
意を決して口を開く。
私のこの妙な妄想が果たしてリリアンのせいなのか否か。
「やつぱりリリアンみたいな女子校っていうのは、あんな子が多いのかな…」
「あんな子?」眉をひそめる瞳子。
「その、なんというか、男よりも女のほうが好きっていうような…」
「当然です」
可南子がお弁当をどんと置き直した。
「男なんて最低です。いなくなってしまえばいいんです。男が好きなんてそんな気持ちの悪いこと言わないでください」
振った相手が悪かった。可南子は筋金入りの男嫌いだったのだ。
後から考えてみると、ここで私が自分でも珍しいと思う悪戯心を出したのが不味かったのだろう。
「たとえば、可南子さん、ここが無人島で他には誰もいない。、もし私が男だとして、私と瞳子のどちらかを必ず選べって言われたらやっぱり瞳子を選ぶの?」
ぽかんと口を開く瞳子。
「あ、あの…乃梨子さん? 何を突然おっしゃるんです?」
しかし可南子は即座に答えた。
「その場合でしたら、一生独身を貫きます」
瞳子はムッとしている。
「それはそれで何か腹が立ちますわね」
鼻で笑うように言葉を続ける可南子。
「勿論、乃梨子さんが女性のままでしたら、乃梨子さんを選びますわ。少なくとも、瞳子さんを選ぶことは絶対にあり得ませんわね」
プチン。瞳子のキレた音。しまった。まさかこうなるとは。
「瞳子だって、絶対に可南子さんは選びませんわ!」
売り言葉に買い言葉。もはや最初の私の質問はどうでも良くなっているらしい。
「私は、乃梨子さんを選びます」
「瞳子が乃梨子さんを選ぶのよ!」
「私が先に選んだのですから、瞳子さん、猿真似はやめてくださる?」
「なんですって!?」
「ほら、そうやってムキになってキーッとヒステリックになる。そういう所はさすがご親戚。紅薔薇さまにそっくりですわ」
瞳子はさらにもう一段階キーッとなりかけるが、すぐに私の手を取る。え、何をする気?
「可南子さんがどうおっしゃろうとも、肝心なのは乃梨子さんがどちらを選ぶかですわ」
「瞳子?」
驚いた。何か違う話になっている。いつの間に私に選択権が?
「それは白薔薇さまを見れば自ずと判ることです」
え、可南子さん、どうしてそこに志摩子さんが?
「普段の挙措にも品位の漂う白薔薇さまをお姉さまとして選んだ乃梨子さんが、貴方のようなヒステリードリルを選ぶと思いまして? まあ、穴掘りには役立つかもしれませんわね」
「キーーーーーーッ」ドリドリドリッ
なにか今本当にドリルが回ったような気がしたけれど、多分幻覚。それにしてもこの細川可南子、人を…特に松平瞳子を挑発することにかけては天才的だ。
「乃梨子さんは私を選びますわよね」
私の左手を取る可南子。
「瞳子ですよね」
右手にしがみつく瞳子。
えっと、この状態は……
私、モテモテ?
違う違う。
「あのね、瞳子…」
言いかけて私は息をのんだ。
右手にしがみついて、上目遣いで私を見ている瞳子。
か、可愛いっ。
確かに平均以上の顔だとは思っていたけれども、こんな風に直に訴えかけてくるような眼差しは始めて見た。
「乃梨子さん、瞳子のこと捨てちゃ駄目だよ」
潤んだ瞳、捨てられた子犬のような表情。
駄目だ。今この手を振り払うことはできない。というか、このままだとうっかり抱きしめそうになる。
うかつだった。瞳子がこんなに可愛く見えるなんて。
仕方ない。
「あの、可南子さ…」
ズキューン、と音がしたような気がした。
ううう、瞳子は判る。けれども、可南子がこんな顔を……。
元々いつも何かに困っているような眉の形だけれども、さらにはっきりと強調されて、顔全体で困っている。しかも、それがこの子の場合とても愛らしく見える。
ちょっとはにかんだように下唇を噛んでいるのも、なにげにポイントが高い。
そしてうつむき加減だが、視線はこちらに向けられている。それもすがる視線で。
えーと。これはもしかして、二人して私を落としにかかっているという解釈でいいのだろうか。
「乃梨子さん〜」
「乃梨子さん…」
二人の声がハーモニーにも聞こえる。
これは……これは…。
もしかしてハーレム?
私は両腕でそのまま二人の肩を引き寄せた。
「ごめんなさい。選ぶなんてできない。私は二人とも選ぶよ」
あまりに急だったので、無理な体勢でいた可南子が転ぶ。
巻き込まれた私。だけど、右手は瞳子から離さない。
結果として、私が二人を引き寄せて倒れる形となった。
座っていた椅子が倒れるが、何とか頭は打たずに済んだ。そして私は胸元に二人の頭を抱きしめている。
「あらあら。やるわね、乃梨子ちゃんも」
その声に私たちは一斉にビスケット扉を見た。
「そっかー、祐巳さんが構ってあげないから瞳子ちゃんも可南子ちゃんもそっちに走ったかぁ、ふーん」
明らかに笑いを堪えて言う由乃さまはいい。こういうハプニングか大好きな人だ。
問題は…
「…紅薔薇ファミリーにセクハラするのは白薔薇ファミリーの掟か何かなのかなぁ…、ねえ、志摩子さん」
「私には、二人が乃梨子を押し倒しているように見えるのだけれども。誰かが相手にしてくれないから、可哀想に二人とも欲求不満なのかしらね? 祐巳さん」
ああああああ、何かが散ってる。これは火花?
志摩子さんと祐巳さまの間に火花が散っているように見えるのは私の気のせい?
「祐巳さま〜」
「祐巳さまっ」
立ち上がって駆け出す二人。私はいきなり独りぼっち。現金な奴らだ。
「乃梨子さんったらひどいんです」
は? 瞳子の言葉に凍り付く私。
「今回ばかりは瞳子さんの言うとおりですわ」
可南子まで…。
「どっちを選ぶのかと尋ねたら、二人ともだなんて…」
祐巳さんがこっちを見る。
「乃梨子ちゃん?」
ああ、失礼ですけど、貴方に睨まれてもそれほど怖くないです。なんか子犬に睨まれているみたいでどちらかというと微笑ましい感じが。
でも、でも、その横で。
あああ、志摩子さんが笑ってる。笑ってる。これ以上ないってくらいにっこり笑ってる。
「乃梨子。詳しい話を聞かせてちょうだい?」
………怖い。
恨むよ、瞳子、可南子。