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遼様のキリ番(30000)リクエスト
 
オアシス
 
 
 熱波。
 果てしなく続くかに思える砂、砂、砂。
 そして灼熱の太陽光線。
 一歩進むごとに体力が急激に失われていくような感覚が、身体中をむしばんでいる。
 自らの吐息すら炎のように感じる空間。
 陽炎に囲まれた世界は、進むべき方向すら見えない。
 志摩子は、荷物を探った。
 小さな革袋が二つ。それぞれに水が入っている。これがおそらく最後のものだろう。
 一つの革袋の先を唇に当てた。
 少しずつ、一滴一滴を惜しむように口に含む。
「志摩子…」
 声の方向に振り向くと、聖が立っている。
 唇はひび割れ、熱砂を横断してきた姿はあまりにもみすぼらしい。
 志摩子は残った革袋を渡した。
 聖は、礼を言うとそれを受け取り、一気に飲み干した。
「さすが志摩子だね」
 にっこりと微笑む聖。水を得たことで、普段の笑みを取り戻している。
 志摩子も微笑み返し、空になった革袋を受け取る。
【二条乃梨子】
 革袋に書かれた文字が目に入った。
 人の名前?
 何か、重い物が落ちる音に、志摩子は振り向いた。
 からからにひからびた、ミイラのような少女がそこに倒れている。
 悲鳴を抑え、志摩子はその姿を凝視した。
「酷いよ…志摩子さん…私の水…」
 ミイラのような少女…乃梨子はそう言いながら志摩子を恨みがましく見上げていた。
 
 悲鳴で目が覚めた。
 息が荒い。
 夢と言うにはあまりにも生々しかった。だが、起き抜けで思い返す夢とはそういうものだ。
(嫌な夢……)
 夢の中で志摩子は、乃梨子を見捨てて聖を選んでいた。
(違う)
 聖に水を渡すまで、夢の中の自分は乃梨子の存在を知らなかったのだ、乃梨子の存在を知っていて水を奪ったわけではない。
(私は…)
 そこまで考えて、志摩子は苦笑した。
 一体誰に対して言い訳しようというのだ。夢の中の行動を。
「どうかしたのか、志摩子?」
 父の声が部屋のドア越しに聞こえる。自分は、相当な悲鳴を上げてしまったに違いない。
「ごめんなさい。嫌な夢を見てしまって」
「そうか。それならいいが」
「はい。おやすみなさい」
「…ところで志摩子」
「はい?」
「余計なことかもしれんが。夢は、所詮夢だと覚えておきなさい」
 父の声に、志摩子は思わずうなずいていた。
「はい」
 
 あなたは砂漠をさまよっています。持ち物はただ、一人分の水の入った袋が二つ。
 今、あなたの前にとても大切な人が現れました。その人も、あなたと同じように砂漠で苦しんでいます。
 あなたも、目の前の人も、今すぐにでも水が必要です。
 しかし、もしかするともう一人、今目の前にいる人と同じくらい大切な人が近くにいるかもしれません。
 あなたは、その水をどうしますか?
 
 志摩子はまず祥子さまにそう尋ねてみた。
 最初に現れるのは蓉子さま。近くにいるかもしれないのは、祐巳さん。
「なに? それは心理テストのようなもの?」
 志摩子はただの好奇心だと答える。
「馬鹿な質問ね。そもそもそれっぽっちの水を持つだけで砂漠を旅するような馬鹿な真似、私がすると思って?」
 対する祥子さまの答は身も蓋もなかった。
「そうね。万が一そんな状態になったとしたら、一人分をまず蓉子さまと分けて、残った一人分は念のために確保しておくわ」
「え。でも水は一人分で…」
「水なのでしょう? どれほど少量であっても、液体である限りは分けることができるはずでなくて?」
「それは…そうですけれど…」
「それならば、答はこれで決まりよ」
 何故か勝ち誇ったような表情の祥子さま。
「それで志摩子、どうなの?」
「は?」
「これは心理テストの類なのでしょう? 私の答だとどう判断されるのかしら?」
「え。い、いえ…。これは本当にそういったものではなくて、純粋に私の好奇心から尋ねたことなので…」
 不思議そうな顔の祥子さま。それはそうかもしれない。逆の立場なら、志摩子もそう思う。世間話の延長で済むような話ではない。
 志摩子は迷ったが、もう一つだけ、質問した。
「もし一つを蓉子さまに渡して、自分がもう一つを飲み終わったあとに祐巳さんが現れたらどうなさいますか?」
「もう水はない、祐巳を救えないと言うことなの?」
 祥子さまの視線に志摩子はたじろぎ、すぐに馬鹿な質問をしてしまったと後悔するが、もう遅い。
「そうね。…もしそんなことになれば、私は一生自分を許さないでしょうね」
 …私にここまで言わせたのなら、いい加減な返答は許さなくてよ。
 祥子さまの視線はそう言っているように、志摩子には思えた。
 しかし、その開いた口からは志摩子の全く予想していなかった言葉が出てきた。
「志摩子、私はあなたのお姉さまのようにはなれない。けれども、あなたの話を聞くくらいはできてよ。何があったのかは知らないけれど、それで楽になるのなら、私に話してみてもよくてよ?」
 祥子さまは、こんなに御方だっただろうか?
 志摩子は心の中で少し首を傾げ、そしてすぐに思い至った。
 祐巳さんの存在だ。祐巳さんの存在が、小笠原祥子という存在を変えている。
 祐巳さんがいなければ、未だに祥子さまは自分に対してこんな事を言おうとはしなかっただろう。
「いえ。話すほどのことはないんです。ちょっと気になる夢を見てしまったもので…」
「まあ、志摩子の夢の話だったの?」
 令さまがそこで顔を出した。
「ごきげんよう。珍しいじゃない。志摩子と祥子が話し込んでるなんて」
「あら、令。ごきげんよう。志摩子の夢の話を聞いていたのよ」
「夢? 面白い話なら聞きたいね」
「そうね。志摩子、話してみれば?」
 
 最初に現れるのは江利子さま。近くにいるかもしれないのは、由乃さん。
「一つを江利子さまに渡して、もう一つは由乃のためにとっておくわ」
 即答だった。
「令さまも喉が渇いてるんですよ?」
「我慢する」
 これも即答。
「由乃やお姉さまが苦しんでいるのなら、私は助けたいもの」
 祥子さまが口を出す。
「水を分けないの?」
「この手の問題だと、水を分けるのはインチキでしょう?」
「私が、インチキだというの?」
 やや眉をひそめる祥子さま。
「こういう問題だと、水を分けるなんて発想が出てくるのはよほどの偏屈、へそ曲がりよ。ねえ、志摩子?」
「令、あなた何が言いたいの?」
「別に」
 にやにやしている令さま。由乃さんと一緒にいる所しか見ていない者からすると意外だが、令さまは由乃さんと江利子さまに対してのみ、例外的に弱いだけなのだ。
「私はただ、志摩子の質問に正直に答えただけだから」
「令」
「はいはい。そう怒らないで。ほんの冗談よ」
 
 同じ質問は、祐巳さんや由乃さんにはできなかった、二人が大切な人はそれぞれ祥子さまと令さま。その方達と同等に大切な人など志摩子には思い浮かばない。この場合、家族というのはちょっと違うような気がするのだ。
 あとは可南子ちゃんと瞳子ちゃん。この二人も同じ。出てくる答は予想できる。というよりも、この二人がこんなおかしな質問にまともに取り合うかどうかも疑問だ。
 なんとなく考えをまとめたい気分で、志摩子は薔薇の館を後にした。足は自然に、銀杏並木に向かう。
 
「やっぱりここにいた。ごめん。聞こうと思った訳じゃないんだけど」
 顔を合わせた瞬間、乃梨子はまず謝罪した。
 志摩子は驚く。
「どうしたの? 何を謝っているの? 乃梨子」
「志摩子さんの夢の話。祐巳さまと由乃さまから聞いちゃったの」
「ええっ」
 警戒する志摩子。
「大丈夫。別に誰彼構わず吹聴している訳じゃないから。多分私だけだと思う。二人が薔薇の館から出てきたところで会ったんだから」
「祐巳さん達はなんと…?」
 乃梨子が聞いたという話は、確かに志摩子が祥子さまと令さまに尋ねた質問だった。
「でも、最後に祐巳さまが、志摩子さんにとっては大事なことかもしれないって言い始めたの。そうしたら由乃さまも、このことは忘れてって慌てて口止めしてね」
 考えてみれば令さまに話せば、由乃さんに伝わるのは確実なのだ。志摩子が令さまに口止めしていれば良かったのだろうが、そこまで考えていなかったのが現実だ。
「志摩子さん、夢の中で私と聖さまに会ったんだよね」
 そこまでは誰にも行っていない。志摩子は驚いた目で乃梨子を見つめた。
「わかるよ、それくらい。自慢じゃないけれど、今リリアンにいる生徒の中で、志摩子さんが一番大事に思っているのは私だって信じてるから」
 乃梨子が頬を少し染めていた。
「悔しいけど、志摩子さんがまだ聖さまのこと忘れていないのも判ってる」
「乃梨子…」
 志摩子の言葉を遮る乃梨子。
「ねえ、志摩子さん。一つだけ、聞いてもいいかな?」
 乃梨子はベンチを見つけると座り、志摩子に隣への着席を促す。
「水を飲んだのは、私? それとも聖さま?」
 志摩子には答えられなかった。
「水を残してもらえなかったのは私? それとも聖さま?」
 乃梨子は静かに問を重ねる。
「志摩子さん?」
「ただの夢の話しよ、乃梨子」
「逃げないで、志摩子さん」
「だからただの夢の話だって…」
「聖さまに水をあげたんですね」
「乃梨子…」
「そして残った水を志摩子さんが飲んで、私は水が無くて助からなかったんですね」
「知らなかったのよ」
 志摩子は夢の内容を漏らさず語った。
 乃梨子の存在には気付かなかったこと。突然その場に現れたようだったこと。
「……ごめんなさい」
「志摩子さん?」
 乃梨子が慌てていた。
「嫌だ、違うよ、志摩子さん、私そんなつもりで言ったんじゃなくて…。夢の話で謝ることなんてないよ。こっちこそゴメンナサイ。私が変なこと聞いたから…」
「でも夢の中とは言え私は聖さまを選んでしまったから」
「志摩子さん」
「私も自分の気持ちがわからなくて…」
「志摩子さんっ!」
「でも決して乃梨子を軽んじるとか、そんなことは…」
 立ち上がる乃梨子。そのまま、覆い被さるように志摩子の身体を抱きしめる。
「聞いてよ、志摩子さんっ!」
 志摩子は驚きと衝撃で息が詰まったように感じた。すぐにそれは錯覚だと判るが、乃梨子が押しつける胸の感触が頬に温かく感じられ、服地ごしの心臓の鼓動が、異様なまでに大きく聞こえ始めていた。
「勘違いしないで。私は志摩子さんを責めるとか、そんなことは全然考えていないから」
 志摩子を抱きしめたまま、乃梨子は志摩子のウェーブのかかった髪を愛おしむように頬ずりする。
「私はただ、一つだけ、志摩子さんに知って欲しかったの」
 ふっと、乃梨子の腕の力が弱まる。
「ねえ、志摩子さん」
 頭上からの声に、反射的に顔を上げる志摩子。
 唇が、降りてきた。
 慣れない行為に、乃梨子は唇を志摩子の前歯にぶつけてしまう。
「!」
 それでも、ひかない。
 志摩子も驚いたが、乃梨子の腕が志摩子の首元と後頭部をしっかりと押さえているため、逃げることができない。
 志摩子の抵抗は弱く、そして短かった。
 ようやく唇を離す乃梨子。
「私は絶対に、負けないから。志摩子さんが私のことを嫌いにならないかぎり、相手が聖さまでも誰でも関係ない。もし志摩子さんが聖さまに水を渡したら、私はそれを奪って飲んじゃうから」
 そこまで一気に言うと、自分の行為にようやく気付いた人間のように、真っ赤な顔で震え出す。
「わた、私は、いつでも志摩子さんが一番だからっ!」
 気付いた。
 自分でも遅いと思った。
 けれども、気付いた。
 志摩子は自分の思いに気付いた。
 聖さまに向ける思いは、愛情、感謝、敬意、思慕、色々な想いが混ざっている。決して軽くはない、ある面では乃梨子への想いを超えているかもしれない。
 けれども、乃梨子への想いは…感謝はほんの少し、敬意も思慕もない。ただ、愛しさだけ。
 わかった。今ようやく判った。
 聖さまに水を渡すことを後悔するのはやめよう。いや、後悔するべき事ではない。
 乃梨子の水を飲んでしまったことは、後悔すればいい。そして、新たに水を与えればいい。
 二つの革袋? そんなものじゃない。聖さまへの想い、乃梨子への想いはそんなものじゃない。
 砂漠を緑に変えるオアシス。それだけの量は十分にある。
 志摩子は立ち上がり、乃梨子に手を伸ばす。
 乃梨子の唇が切れて、血が出ている。
「乃梨子、血が出てるわよ」
「え?」
 志摩子は、乃梨子の傷口を唇で塞いだ。
 
 
 その夜、志摩子は夢を見た。
 砂漠のオアシスで、乃梨子と戯れる夢を。
 
 
 
あとがき
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