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黄薔薇嵐
 
 
3「眼差しを照らす雷」
 
 
 走り去る由乃。
 祐巳と志摩子はその後を追う。
「乃梨子ちゃん、可南子。瞳子ちゃんをお願い!」
「ここで待っていて」
 薔薇の館には、つぼみたちだけが残された。
 突き飛ばされた姿勢のまま、瞳子はしゃがみ込んでいる。
「私…何をしたの?」
「瞳子さんは、本当に判らないのですか?」
「…可南子…?」
 可南子は、瞳子に立ちはだかるような位置で歩みを止める。
「可南子、今はやめなよ」
 乃梨子が二人の間に手を伸ばす。
「今だからこそ、話すんです」
 瞳子に椅子を示す可南子。瞳子は、大儀そうに立ち上がると椅子に腰掛けた。
「瞳子さん、あなた、自分のやったことが判っているの?」
 可南子の話は、瞳子にとっては衝撃の一言に尽きた。
 
 つぼみ同士となった今、少なくとも表面的には今までの確執を捨てなければならない。瞳子はそう考えて、あえて可南子のそばにいるように振る舞った。
 それが結果的に、つねに紅薔薇さまのそばにいるように見られていたこと。
 
 昨日、瞳子の家から差し向けられた車に乗る可南子と祐巳の姿を、由乃は見ている、と可南子は推測していた。車に乗る直前、実は可南子は由乃らしき影を見ていたのが、その時は確固たる自信はなかった。それに、そこに由乃がいると言うこと自体が信じられないことだった。しかし、今日の由乃の態度、祐巳から聞いた様子で、自分の見た相手がやはり由乃だったと確信したのだ。
 瞳子が母に用事を言いつけられたのは事実。だがそれは、小笠原家への用事。
 それを当日朝になって知った祥子が、道すがらに祐巳と可南子を拾ってくるように頼んだのだ。
 そしてそれを由乃は目撃し、誤解している。
 
「黄薔薇さまは、あなたを紅薔薇さま、私のお姉さまに奪われそうなこと、そしてそれをあなたが望んでいることに傷ついている」
「そんな…」
「ええ、あなたがそんなことを望んでいないことは知っています。でも、少なくとも周りはそう思っています」
 皮肉に笑う可南子。
「私よりも瞳子さんのほうが祐巳さまにはふさわしい。未だにそう言う人たちもいるくらいです」
「でも、その噂は黄薔薇さまを傷つけた」
 乃梨子が後を引き取った。
「噂は私も聞いたことがある。くだらない噂だから無視していたし、瞳子や黄薔薇さまには言わないようにしていたのだけれども、どこかで黄薔薇さまの耳に入っていたとしてもおかしくない」
「噂だけなら、どうということはありませんでした。しかし、瞳子さんの軽率な行動は、由乃さまを追いつめました」
「可南子!」
 乃梨子が怒る。
「瞳子はわざと由乃さまを追いつめた訳じゃないよ。そんなことぐらい可南子だって判っているんでしょう?」
「判っています。それでも、瞳子さんは自分のやったことの結末を見届けるべきです。瞳子さん、あなたは昨日、祥子さまにご相談なさる時間があるなら由乃さまに会いに行くべきだったんです。他の誰でもない、あなた自身のお姉さまにもっと相談するべきだったんです」
 可南子の口調は詰問調に変わっていた。
「あなたは、自分のお姉さまが信じられないんですか?」
 
「私は、また同じ事をしてしまったのですね…」
 瞳子の視線は宙をさまよっていた。
「今度は、お姉さまを傷つけてしまった…。私は」
 自分の視界が滲むことを瞳子は不思議にも思わなかった。
 望むわけでもなく、人を傷つける自分をただ呪っていた。
 いや、もしかしたら、自分は望んでいたのかもしれない。去年、祥子と祐巳の関係にひびが入ったとき、自分がそれを全く望んでいなかったと言えば嘘になるだろう。自分は、祐巳が祥子の元から去ることを確かに望んでいたのだ、少なくとも、そのときは。
 だが、今は違った。
 由乃を傷つけることなど、心のどの部分でも望んでいるわけではなかった。
 由乃とスールの関係を結んだ当初から今に至るまで、瞳子は確かに自分のお姉さまとしての由乃の存在を意識していた。
 そして、山百合会の一人として、黄薔薇のつぼみとして恥ずかしくない自分になろうとした。
 今は判る。それがただの空回りだったと。
 自分のワガママが、かつて祥子と祐巳を傷つけた。だから、もう誰も傷つけたくはなかった。誰も傷つけないように立ち回ろうと思った。
 でも、自分にはそれができなかった。
「私は…」
「どうすればいいのか判らないのなら、答は一つよ」
 可南子は静かに告げる。
「ロザリオを由乃さまに返して、薔薇の館に二度と来ないこと」
 瞳子は視線を可南子に向けた。
「可南子さん…まだ瞳子のことが嫌いなんですね」
「ええ。大嫌いよ。あなたがそうやってはっきりしない限り、私はいつまでも言われ続けるの。紅薔薇のつぼみには松平瞳子のほうが相応しいんじゃないかって。福沢祐巳の明るさを細川可南子が消しているって言われ続けるの、私は」
 可南子は声を荒げない。しかし、静かに続けられる言葉は、瞳子を打ちのめしていた。
「あなたがまだ紅薔薇のつぼみに未練を持っていると思われる限り、私はつぼみに相応しくないと言われ続けるの。祐巳さまの妹には相応しくないと言われ続けるの」
 私は可南子さんも傷つけている…。
 瞳子はただ、そう思った。
 自分はここにいるだけで由乃さまを、可南子さんを、そして祐巳さまも、乃梨子さんを、志摩子さまを傷つけている。
 自分はここにいない方がいいんだ…。
「本当に、判らないのね…そう、それじゃあロザリオを渡しなさい。あなたにできないなら、私から由乃さまにお返しするわ」
「それは…」
「あなたたちのような姉妹がいても迷惑なだけです。二人が相手の顔もろくに見ずに、ただワガママを言い合っているだけの姉妹なんて、それが姉妹といえるのですか?」
 瞳子の頬に涙が流れた。
「そんなこと…可南子さんは…自分の大好きな人に、最初に好きになった人にロザリオを戴けたから…」
「瞳子!」
 乃梨子が血相を変えて瞳子の肩を掴む。
「今、アンタなんて言ったの? もう一度言ってみなさい、もう一度言ってみなさいよ!」
「の、乃梨子さん?」
「あなたは由乃さまのことが好きじゃないって言うの? ただ、黄薔薇のつぼみになりたいから由乃さまの妹になったの? そんなふざけた理由で由乃さまの妹になったって言うの! だったら可南子の言うとおり、今すぐロザリオを返しなさいよっ!」
「離してくださいっ」
 身をふりほどく瞳子。
「乃梨子さんだって、自分が最初に好きになった人にロザリオを戴けたんじゃありませんかっ!」
 乃梨子は思わず手をあげていた。
 その手を掴む可南子。
「乃梨子さん、怒るのは判りますが、今は下がってください。瞳子さんは、心を乱しているだけです」
 そこで自分のしようとした行為に気付き、慌てて手を下ろす乃梨子。
「ごめん…志摩子さんのこと言われると…私、気が短くなるみたい…」
 うなずいて、可南子は乃梨子と瞳子の間に入る。
「瞳子さん。あなたは未だに祐巳さまのことが好きなのでしょう?」
 瞳子は無言でうなずいた。
「では、由乃さまのことは嫌いなのですか?」
「そんなわけ…」
「では由乃さまと祐巳さま、あなたはどちらを選ぶのですか?」
 顔を上げる瞳子。その目は可南子を睨みつけている。
 その目前にぶら下がるロザリオ。
 可南子が祐巳から受け取ったロザリオが揺れていた。
「本当の気持ちを答えてください。答によっては、私もロザリオをお姉さまに返します」
 乃梨子が背後で息をのむ音が聞こえた。
 ロザリオと可南子、二つを交互に見つめると、瞳子は言う。
「どうして、可南子さんがロザリオを…」
「瞳子さんの気持ちがまだ祐巳さまに向いているのなら、私にロザリオを受け取る資格はないんです」
「私の気持ち…?」
「…瞳子さんは誤解しています」
 可南子は微笑む。
「私は祐巳さまが、お姉さまが好きです。でも、ロザリオを受け取った理由はそれとは別です」
 瞳子の視線が可南子のそれと繋がった。
「私は過ちを犯しました。お姉さまを自分の尺度で決めつけ、それが間違いだと指摘されると言葉で傷つけようとしました。今考えると、本当に馬鹿げた、でも許されない行為でした……」
 祐巳は可南子を許した。しかし、可南子は自分自身を許すことができなかった。祐巳を知り、さらに深く知れば知るほど、自分の愚かさに締めつけられるような思いだった。
 祐巳は可南子を決して遠ざけなかった。可南子は少しずつ祐巳に近づいていた。そしていつの間にか瞳子よりも、そして祥子よりも祐巳に近づいている自分に気付いた。
「……ロザリオを差し出された日、私は気付いたんです。祐巳さまは私を許したわけではなかったと…」
 許す、許さない。それ自体が、既に間違った尺度だった。
 祐巳は可南子を許すも許さないもない、最初から、怒りを抱いていなかったのだから。
「祐巳さまは、私の過ちを寛大に許そうとしているわけじゃなかった。ただ、そばにいる者が間違っていると思えば、その過ちを正そうとするだけ」
 ロザリオをそっと動かす。
「その時、私は初めて心から思ったんです。この方のロザリオを受け取りたい、と。ただ好きなだけではない、私が道を誤ったとき、きっと正してくれる方のロザリオを受け取りたいと」
 言葉を止め、再び可南子は瞳子を見つめた。
「これが私の選んだスールのあり方。これを否定するなら…瞳子さんが私以上に祐巳さまを必要としていると言うのなら、私はロザリオを返します」
 瞳子は、自分が由乃に受け取ったロザリオを見下ろす。
 …私は、お姉さまに…
 
 
 
 可南子さんがロザリオを受け取った。
 瞳子が最初に感じたのは、
 …ああ、やっぱり
 諦めにも似た納得だった。
 松平瞳子は福沢祐巳を必要としている。
 細川可南子は福沢祐巳“だけ”を必要としている。
 依存と言い換えて誹ることもできるが、瞳子はそれをよしとしない。それはただ単に、自分と可南子の違い。それだけのことに思えるから。
 強い依存は、すぐに弱い依存に代わり、やがて共依存へと代わり、そして絆となる。
 二人の関係の変化を平穏に見届けている自分が、いっそ滑稽だった。
「鬱陶しい」
 最初にそう告げたのは由乃さまだった。
 薔薇の館にいたのは二人だけ。祐巳さまが可南子さんと連れ立って館を出るのを見送って、瞳子は大きな溜息をついた。そのとき、由乃さまはたまりかねたようにそう言った。
「自分をいじめてそんなに楽しいの?」
 なんの話だか判らない。瞳子はそう思いこもうとしたが、無駄だった。
「初めてここに来た頃の自分を思い出しなさいよ。あなた、祐巳さんが祥子さまから受け取ったロザリオを奪いかねない調子だったじゃない」
 その結果を知らない由乃さまではないでしょう? そう言いたい気持ちを堪えたが、それがさらに火を注ぐ。
「言いたいことがあるなら言いなさい。まああなたの考えていることはだいたい判るけどね。でも、そのことで一度でもあなたに祐巳さんが恨み言を言った? 愚痴をこぼした? 怒った? 紅薔薇さまがあなたに何か言った?」
 瞳子には答えられない。由乃さまの言葉はいちいちもっともなものだったから。
「とっくに祐巳さんはそんなこと許してる。いいえ、そもそも許すとか許さないなんて、祐巳さんの辞書にはないのよ。最初から、あなたが悪いなんて思っていなかったんだから」
 がつんと殴られたようなショックだった。
 薔薇の館に誘われたのも、仕事を手伝わされたのも、全て考えに考えて割り切った末。そう瞳子は思っていた。
 そして、瞳子は瞳子なりに祐巳さまの心の広さに感嘆していた。しかし、それはただの瞳子の思いこみ、祐巳さまは、まだ遙かに別の次元で動いていたのだった。
「私は…」
「祐巳さんが好きなんでしょ。可南子ちゃんも、私も、志摩子さんも、令さまも、祥子さまも、みんなそれは一緒よ」
 由乃さまが瞳子を指さす。
「でも、本当に好きなら、奪いたいくらい好きなら、可南子ちゃんから奪ってみなさいよ!」
「由乃さま?」
「それに私は、そういうイケイケな瞳子ちゃんが嫌いじゃないもの」
「え?」
「…確かに…祐巳さんを傷つけたのは許せなかった。でも、私が逆の立場だったら…もし令ちゃんと年が二つ離れていて、リリアンに入ったときに令ちゃんに妹がいたら、私は令ちゃんの孫になんかなりたくない。令ちゃんの妹になるために何が何でも突っ走っていたと思うの。いいえ、それ以前に、令ちゃんが私を差し置いて妹を作るなんて信じられない……瞳子ちゃんも、祥子さまがそうだと信じてたんだよね。私も同じ」
「由乃さまも同じ?」
「そう。瞳子ちゃんと同じ、私も一度走り出すと周りが見えなくなるから」
「そんな、瞳子はそんなこと、周りが見えなくなるなんて…」
「マリア祭、乃梨子ちゃんと志摩子さんの数珠」
 痛い所をつかれて絶句する瞳子。
 にやりと笑う由乃さま。どう見ても何か企んでる。
「というわけで、似たもの同士、どう?」
「はい?」
 ロザリオを掲げている由乃さま。
「黄薔薇のつぼみの妹の座。今ならもれなく、あのミスターリリアンの孫になれる権利付き」
「はいっ?」
「駄目?」
「何考えていらっしゃるんですか、由乃さまは」
「んー、ムードに飲まれてそのままオッケーとれるかと思ったけど…」
「駄目に決まってますわ」
「十一月まで決めなくちゃならないのよ…」
「瞳子はそんなこと知りませんっ!」
 ふふふ、と笑う由乃さま。
「元気出たじゃない、瞳子ちゃん」
 
 結局、それから程なくして、瞳子は由乃さまのロザリオを受け取ったのだった。
 
 
 
「私のお姉さまは黄薔薇さま、島津由乃さまただ一人です」
「それが判ってらっしゃるなら、ここで何をしているんです?」
 可南子は冷たく、しかし微笑って言った。
「こんな時は温室よ。前に志摩子さんが言ってた。あそこが私たちの避難場所だって」
 乃梨子が続け、瞳子は椅子から立ち上がる。
 その時、ビスケット扉が乱暴に開かれた。
 突然現れた二人が由乃たちの居場所を尋ねる。
 一瞬絶句する三人だが、入ってきた二人の姿を見極めると、
「温室です」
 可南子が即座に答えた。
 駆け出す五人。翻るセーラーカラーも、乱れるブリーツも、今は構わない。
 乃梨子と可南子は目を見合わせる。
 …さすがね。
 …お姉さまの選んだお姉さまですもの。
 先頭を走る令と祥子を、二人は羨ましさと妬ましさの混ざった複雑な目で追っていた。
 
 
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