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黄薔薇嵐
 
 
4「雨のち晴…多分虹」
 
 
 ……私は一人…誰もいない、戻る場所もない……
 笑いたかった。
 祐巳と瞳子に騙され、令と志摩子にも見捨てられた、道化以外の何者でもない自分を、由乃は笑いのめしたかった。
 でも想いとは裏腹に、涙が流れ、嗚咽が漏れるだけ。
「…う、私には、もう誰もいないんだ…誰も」
 立ちつくし、涙を流すだけ。
「そんなことないよ、由乃」
 今、一番見たい顔がそこにある。会いたい人がそこにいる。
 幻覚だ。
 由乃はそう思った。今、この人がここにいるわけがない。
「どうして…ここに…?」
「私は由乃のお姉さまで、由乃の従姉妹で、そして、由乃が大好きだから」
 令はそう言って温室に入る。
「だからここにいるの」
「でも…令ちゃんは」
「私と祐巳ちゃんの電話、本当は聞いていたんでしょう、由乃」
「あ…」
 忘れるわけがなかった。
“「……うん。大好きだよ。改めて電話で言うと照れるけどね。判ってる。由乃には黙っておくから。それじゃあね、祐巳ちゃん」”
「祐巳ちゃんが私に電話してきたんだ」
 どうして今そんなことを?
 由乃はそう言いたいのを堪えた。
(令ちゃんが私を捨てるなら、今がいい。今なら、もう大丈夫だから。今なら、一度にみんなを憎むだけで済むから。何度も、何度も憎まなくて済むから…) 
「由乃と瞳子ちゃんのことが心配だからって…」
(え?)
「祐巳ちゃんは、私が電話口で由乃のことが好きだって宣言するまで許してくれなかった。本当は、祐巳ちゃんが由乃のことで電話してきたことは、内緒だったんだけどね」
(…令ちゃんを信じていなかったのは私だった……)
「今朝の由乃の様子が変で、大学の授業が終わってすぐに駆けつけたんだ」
 令はさらに一歩、由乃に近づき、手を伸ばした。
「祐巳ちゃんは私に由乃のフォローをお願いしてきた。でも私は、それはできないって言ったの。由乃は、新しい黄薔薇さまとして頑張らなきゃいけないから。卒業した私に頼っちゃ駄目だと思った。…由乃なら頑張れると勝手に思ってたんだ…」
 伸ばした手が由乃の肩に触れる。
「由乃がそんなに苦しんでいるなんて知らなかった…ごめん、お姉さま失格だね、私」
 令が由乃の頭を抱いた。
「ごめんね…由乃」
「令ちゃん…」
 思いを込めて少しの間、二人は動かない。
 と、令が由乃の頭を遠ざけた。
「でも、私の役目はここまで。私が由乃を…いいえ、黄薔薇さまをいつまでも見ているわけにはいかないから。由乃が本当に苦しくなったら私はいつでも駆けつける。でも、そのとき立ち上がることができるかどうかは、由乃自身の力だよ」
「駄目!」
 由乃は自分でも驚くほどの声で令を引き留めていた。
 由乃の手が令の腰に回り、強く抱きしめる。
「…令ちゃんしかいないの。今の私には、もう令ちゃんしかいないの!」
「そんなことはなくてよ、由乃」
 凛としたその声に、由乃は顔を上げた。
「…祥子さま?」
 何故気付かなかったのだろう。令は一人ではなかった。
 志摩子と祐巳が祥子を挟むように立っている。
 二人は由乃を見捨てたのではない。令に気づき、令が温室に入れるように道をあけただけだったのだ。
 乃梨子も可南子も…そして、瞳子も。
「今、由乃のことを一番見ているのは、残念ながら令じゃないもの…」
 祥子は淋しそうに祐巳と可南子を見た。
「今、祐巳のことが一番見えているのが私じゃないようにね…」
 瞳子の背中を押す祥子。
「由乃のことを一番よく見ているのは瞳子なのよ」
「でもっ」
「お聞きなさい、由乃」
 瞬間、祥子の声が由乃を戻らせた。
 小笠原祥子は、水野蓉子の妹という理由だけで紅薔薇さまになっていたわけではない。その性格と態度、回りを従えずにはおかないカリスマが彼女を紅薔薇さまたらしめていたのだ。
 そしてそれは、卒業した今でも健在なのだ。
「おおかたの話は可南子ちゃんから聞いたわ。あなたが勘違いしているであろうこともね」
「勘違い?」
「日曜日、瞳子は祐巳と可南子ちゃんを連れてウチに来たわ。それはあなたも見たとおり。間違いない事実よ」
 しかし、瞳子は祥子を訪れたわけではない。瞳子はあくまでも小笠原家に用事があったのだ。母から言いつかった用事とは、小笠原家への届け物だった。ただの届け物ではない、だからこそ、一人娘である瞳子がそれを届けることとなっていた。
 リリアンでの出来事を聞いていなかった祥子は、瞳子が来るという話を聞き、ついでに祐巳と可南子を連れてきてくれるように頼んだ。
 このとき、直接話をしていれば問題はなかったのかもしれない。しかし、祥子は直接でなく、使用人を介して瞳子に頼んだ。それ自体に特別の意味はなかったのだが、結果として、瞳子に断る選択肢はなくなった。
「でもね、瞳子は家の用事を手早く済ませると私に会いに来たわ。私がせっかく二人と久しぶり会っていたのに…」
 
 
「祥子お姉さま、お話が」
 家の用事で祥子の両親と会っていた瞳子だが、早々と用事を終えるとすぐに祥子の前に姿を見せた。
「急ぐ話?」
 祥子は露骨に不快感を表して聞いた。せっかくの妹と孫の訪問である。大学に入ってから何かと忙しく、かなり久しぶりに二人に、特に祐巳に会っているのだ。よほどのことがなければ、例え瞳子が相手であろうとも邪魔はされたくない。
 もしかして、瞳子は久しぶりに焼き餅でも焼いているのだろうか? 祥子は最初、そう思った。
「久しぶりに祐巳に会っているのよ…。そうね、用事が終わったなら瞳子も一緒に四人でお茶でも…」
「そんなことはどうでもいいんです。もっと大事なことがあるんですっ!」
 呆気にとられる祥子。
「どうでもいい…て?」
「祐巳さまはどうでもいいんです。あの方には可南子さんがいますわ。瞳子がご相談したいのは、由乃さまのことなんです」
「由乃のこと?」
 祥子は当惑した。瞳子の話を聞くのはやぶさかではない。祐巳のことを「どうでもいい」と言い切ったのは少しムッとしたが、瞳子がせっぱ詰まっているのもよくわかった。
 だが、由乃に関する相談であれば…
「それならば、令に連絡した方がよいのではなくて? 由乃に関することなら、令はどんなことだって協力してくれるはずよ」
「それじゃあ駄目なんです」
「どうして?」
 瞳子は、気を利かせて席を外そうとする祐巳と可南子の姿に目をやった。
「祥子さまが、祐巳さまとのご関係で悩まれたとしたら、可南子さんに相談できます? 逆に可南子さんから祐巳様との関係の相談を受けたとして、公平に判断することがおできになります?」
 「姉の姉」と「妹の妹」の複雑な関係。特に令と由乃の繋がりは別格中の別格だ。
 今の瞳子の問、多分自分なら祐巳に有利に話を持っていってしまうだろうし、可南子を色眼鏡で見てしまうかもしれない。未だに、可南子に対して嫉妬していないと言えば嘘になるから。
 それでも、令ならば自分よりは冷静に物事を見るだろうとは思う。
 そして、瞳子の迷いもよくわかる。
 しかし、祥子にできることはそれほど多くなかった。
「自分に正直に振る舞いなさい。絶対に後悔はしないように。そして、薔薇さまであろうとつぼみであろうと、姉であろうと妹であろうと、その中身はごく普通の人間であることを忘れないようにね」
 私は、妹に過大な重圧を押しつけて、危うく壊してしまいそうになったから…。
 祥子の脳裏には雨の中、傘もささずに立ちつくしていた少女が思い出されていた。そして、少女を…愛しい妹を救ってくれた先輩と仲間たちの存在も。
 祥子は祐巳と、そしてその親友の由乃、志摩子を信じていた。志摩子の選んだ乃梨子、祐巳の選んだ可南子、由乃の選んだ瞳子のことも。
 彼女たちなら大丈夫、きっと由乃と瞳子を繋いでくれる。
 あのとき、蓉子さまと聖さまが、令が、由乃が、志摩子が、乃梨子が、それぞれのやり方で自分と祐巳を繋いでいてくれたように。
 
 
「瞳子は、由乃を軽んじていたわけではないのよ。誤解を招く言動はあったかもしれない。でも、瞳子は間違いなくあなたのことを想っているから」
 祥子の説明の後を引き継ぐ令。
「その瞳子ちゃんの様子を見た祐巳ちゃんが、夜に電話してきたんだよ」
「…」
 由乃の視線が令と祥子の間を揺れ、瞳子に止まる。
「そんな…」
 瞳子が由乃に近づいた。
「ごめんなさい、お姉さま。私が馬鹿だったんです。お姉さまの気持ち、もっとよく考えれば良かったんです…」
「…馬鹿は私だよ…」
 由乃が疲れたように言う。
「私がまた、いつものように一人で勝手に走ってたんだね…祐巳さんにも、志摩子さんにも、令ちゃんにも、祥子さまにも、可南子ちゃんにも、乃梨子ちゃんにも…瞳子にまで…みんなに迷惑かけて、一人で走ってたんだね……」
 瞳子の次の動きに、由乃を除く全員が息をのんだ。
「由乃さま、このロザリオをお返しします」
「瞳子!?」
「瞳子ちゃん?」
「…瞳子ちゃん?」
「瞳子、まさか…」
 前に踏み出そうとする令と祥子の前に立ちはだかる祐巳。その手を一杯に広げ、二人の進路を封じている。
「祐巳、あなたまさか…」
「お姉さま。私は由乃を信じています。由乃の選んだ瞳子ちゃんも」
 志摩子と乃梨子との前には、可南子が立っている。
「白薔薇さま、乃梨子さん。瞳子さんはそんなに弱くはありません。それに、彼女の選んだ黄薔薇さまだって」
 二人は互いに顔を見合わせた。
「可南子、瞳子ちゃんのこと信じてるんだね」
「お姉さまこそ、由乃さまを信じていらっしゃるんですね」
 四人の勢いはすぐに消えた。
 令がそれでも動きかねないのを見て祥子、
「令、祐巳と可南子ちゃんが信じているのに、あなたが由乃を信じないでどうするの」
「それはそうだけど…」
「令さまの過保護は、卒業なさっても変わりませんのね」
「なるほど、瞳子が相談したがらなかった理由がよくわかりました」
「志摩子、…乃梨子ちゃんまで…」
 六人は、瞳子と由乃を見守る。
 由乃と瞳子の間に、ロザリオが揺れていた。
「由乃さま、ロザリオをお返しします」
「瞳子…ちゃん?」
「もし、由乃さまが、こんな私でも構わないとおっしゃるのなら、もう一度…もう一度だけ、ロザリオを下さい」
 ロザリオが揺れる。いや、揺れているのはそれを持つ手。手の主の瞳子。
 瞳子は嗚咽していた。
「私っ……駄目な子になってた…、可南子さんと祐巳さまばかり見ていた…でも、そんな私を由乃さまが助けてくれたから。だから由乃さまの妹になりたくて、なのに、私は由乃さまを傷つけることしかできなかった……由乃さまが私を見ているのに、私は他の方向を見ていたから……それでも、私は由乃さまの妹になりたいんです」
 由乃が瞳子の手元からロザリオを取る。
「馬鹿…瞳子の馬鹿…。私、こんなだよ? すっごい馬鹿なんだよ? 人の迷惑も考えずに突っ走って、自分で勝手に傷ついて、助けを求めることもしないで、一人で悲しんで一人で傷ついて一人で泣いて一人で落ち込んで…ホンット、大馬鹿だよ。こんなのでいいの? 私、今でもまだ、令ちゃんがいないと止まれないんだよ?」
「存じています」
 泣きながら、瞳子は微笑んだ。
「全部、瞳子は存じておりますわ。由乃さま。だって瞳子も大馬鹿なんですもの。いつでもどこでも何があっても止まらない由乃さまが、瞳子は大好きです。令さまの代わりはできません、瞳子には由乃さまを止めることはできないかもしれません。でも、その時は…」
 手を伸ばす瞳子。
「瞳子も一緒に由乃さまと走ります。どこまでも、いつだって。それくらいは、瞳子にだってできるんですよ?」
 由乃が瞳子の手のひらにロザリオを置いた。
 そのままロザリオを挟んで手を握る由乃。
 何か言おうとして言葉にならず、瞳子の手を引くと抱きしめてしまう。
 逆らわない瞳子。
 そのまま、数分経った。
「後悔しないでよ。こうなったら、引きずってでも一緒に走るわよ、瞳子」
「追い抜くかもしれませんよ、お姉さま」
 気が付くと、六人の姿はなくなっていた。
「さあ、戻ろうか」
「どこにですの?」
「ここは温室。ここから戻る場所は一つだけよ」
「薔薇の館…ですわね?」
「…私には戻れる場所もあるし、一人でもない…」
 小声でそう言った由乃の言葉は、瞳子には聞こえなかった。
「お姉さま、なにか?」
「なんでもない。じゃ、早速走るわよっ」
 駆け出す由乃。
「ええっ、お姉さま、一緒に走るってそういう意味じゃなくて、…ちょっ、ちょっとお待ち下さい!」
 後をついて駆け出す瞳子の慌てた表情は、とても明るかった。
 
 
 
 −終−
 
 −戻−
 
 
 
あとがき
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