祐巳さんと可南子ちゃん
「ライバル登場?」
「……」
「どうしたの、可南子。たくさん食べてね」
「は、はい」
かちかちに固まっている可南子。これほど緊張したのは、お姉さまにロザリオをもらって以来のことだ。
「可南子、あんまり畏まってばかりいると、却って失礼だよ?」
横に座っている当のお姉さまが心配そうに可南子の顔をのぞき込む。のぞき込むと言うよりも、どうしても見上げる形になるのは仕方がないのだけれど。
「そうそう。祐巳さんの言うとおり。私はもう、可南子のお母さんみたいなものなんだから」
そう言われても、わずか二歳年上の相手をお母さんの呼ぶのは抵抗があるし、正確に言えばそもそも戸籍的にもお母さんではない。可南子は一応、母方に引き取られた形になっている。
あくまで、“お母さんみたいなもの”だ。
それでも、どこをどう考えても目の前の人を「お母さん」と呼ぶ気にはなれない。
どうやっても、「夕子先輩」。あるいは「先輩」と呼ぶことしかできない。
もしかしたら「お姉さま」と呼ぶことならできるかもしれないと思えるのは、リリアンに染まりきったせいだろうか。
「お米がおいしい〜」
ぱくぱくと食べる祐巳さま。実に美味しそうに食べている。
一見無頓着な能天気に見えるけれど、歓迎する側は歓迎されている側の喜ぶ姿を見ると嬉しいのは世の常。歓待を受ける側としては正しい姿勢である。
「それはもう、魚沼産のコシヒカリと言えば日本有数の名米だからね」
可南子のお父さんがやはり嬉しそうに言う。
そう。ここは細川家。それも、可南子の住んでいる家ではない。故郷の新潟に戻った、可南子のお父さんの家。
春休みに、二人は遊びに来ていたのだ。一人で行くのを照れくさがった可南子が、駄目元で祐巳さまを誘ったのだが、案外気軽についてきてくれたのだ。
もっとも、祐巳さまにしてみれば、小笠原家であれほど鍛えられた今、日本全国どこの家が相手であろうとも臆することはないのである。
「去年、お父さんが収穫したお米なのよ、これ」
可南子は複雑な顔になる。何故か、夕子さんは可南子のお父さんのことを“お父さん”と呼んでいる。
取り立てて嫌というわけでもないけれど、何となく嫌だ。
お父さんをお父さんと呼ぶのは自分だけ…将来的には次子も認めるけれど…。
そう思いながら、可南子は箸を動かし始めていた。
風呂場に案内された祐巳さまは目を見開いて大きな声を上げる。
「うわあ、広いっ」
可南子にしてみれば、ここは父親の故郷。つまり祖父母のいる所で、小さい頃に何度も来たことがあるのでそれほど大きな感慨はない。ちなみに祖父母はこの母屋を新婚夫婦に譲って、今は離れに住んでいるとのこと。祖父母は久しぶりに現れた可南子を歓迎すると、また離れに戻ってしまった。
しかし、祐巳は素直に驚いていた。
「でしょう。広いでしょう。私も始めて見たときは驚いたもの」
夕子さんが我がことのように自慢している。今となっては確かに“我がこと”で間違いないのだけれど。
可南子は風呂場の前でもじもじしている。
「どうしたの? 可南子。風邪ひくよ」
「可南子、今さら恥ずかしい? この前一緒に温泉入ったじゃない」
夕子さんと祐巳さまが、知ってか知らずか可南子を責め立てる。
はっきり言って恥ずかしい。
祐巳さまと温泉に入ったときもかなりの勇気を必要とした。結局、一緒にいた瞳子さんや乃梨子さん、由乃さま、志摩子さまに引きずられるようにして入ったのだ。
裸で連行される様は、どこかの捕虜収容所のようでちょっと悲惨だったと思う。
今回は、邪魔なクラスメートも上級生もいない。そのうえ、風呂場で待っているのは祐巳さまと夕子さん。可南子にとっての大好きツートップである。
これで恥ずかしがるな、というのは無理だ。
「可南子、早く入らないと時間がないよ」
夕子さんと祐巳さまになにやら耳打ちしている。
「そうそう。ガス消しちゃうよ」
「可南子、言っておくけど、私たちの次に入ったら…」
夕子さんの非情の声。
「もれなくお父さんと一緒だよ?」
いえ、さすがにそれは。
意を決して、風呂場にはいる可南子。
「こっちこっち」
湯船には夕子さんが浸かっている。さすがに広いとは言っても、湯船に入るのは二人までが限度だ。
祐巳さまは洗い場でお湯を被っていた。
「可南子と一緒にお風呂入るのって、クラブの合宿以来ね」
「え、可南子、夕子さんと一緒にお風呂入ったことあるのっ?」
驚く祐巳さま。
「ええ。クラブの合宿で。本当は学年によって時間が違うんだけど、可南子は特別に私と入ったのよね」
「え、ええ…」
祐巳さまの視線をちらちらと気にする可南子。
「ふーん。特別にねぇ……」
パシャ。お湯を被る祐巳さま。
「ねえ可南子。もし、私たちの中学校にもリリアンみたいな制度があったら、可南子は私のロザリオを受け取ってくれたわよね」
「先輩…」
「ねえねえ、可南子。私のこともお姉さまって呼んでみない?」
「え……」
バシャアッ。激しくお湯を被る祐巳さま。
「夕子さん。私もそろそろ湯船に入りたいんですが…」
「あら、そう。それじゃあ出ましょうか、可南子」
可南子の手を取って湯船から出ようとする夕子さん。
「あら、可南子はまだ十分に暖まってないよね」
夕子さんの手から可南子の手を奪う祐巳さま。
返事を聞かずに、可南子を強引に湯船に入れる祐巳さま。必要以上にぴったりと身を寄せてくる祐巳さまに、可南子の鼓動が早くなる。
「可南子は、私のロザリオを受け取ってくれたんだよね」
「は、はい」
「私のプティスールなんだよね」
「はい。お姉さま」
パシャ。お湯を被る夕子さん。
「また一緒に温泉行こうね。それから、学校に戻ったら薔薇の館で一緒にお弁当食べて、学校に行くのも帰るのもずっと一緒にね」
バシャッ。激しくお湯を被る夕子さん。
可南子は、予想外の成り行きに身を縮ませている。
(これはもしかして…お姉さまと先輩が私を取り合っている?)
人、それをハーレムと呼ぶ。
嬉しいことは嬉しいのだけど、あちら立てればこちらが立たず、針のムシロ状態。
「可南子も大変ね」
独り言のように呟く夕子さんだけど、お風呂場の中では声が反響するのではっきりと祐巳さまにも聞こえている。
「可南子は優しいから、先輩に強く言われると逆らえないのよね」
「可南子、中学校の時はそうだったの? 大変だね、横暴な先輩がいると。私は可南子の先輩じゃなくてお姉さまだからね」
「あの、祐巳さん?」
「はい」
「私も湯船に入りたいだけれども」
「それじゃあ交替しましょう。可南子、背中洗ってあげる」
「……」
無言で湯船に入る夕子さん。
祐巳さまは恥ずかしさで抵抗する可南子の背後に強引に回ると、可南子の背中を洗い始める。
「あ、あの、お姉さま。私は…」
「いいのいいの。私は、今日は可南子の家に泊めてもらっているんだから。…可南子の肌って綺麗だね。頬ずりしたくなっちゃう」
「ひゃうっ。したくなっちゃうって…もうしてるじゃないですか」
「うーん。思った通りスベスベだね」
「……祐巳さん?」
夕子さんが湯船から上がる。
「うちの可南子に何をしているんですか?」
「背中を流しているだけです」
「…リリアンでは、ホッペタで背中を流す習慣があると?」
「福沢家にはあります。リリアンにも、白薔薇一族にはありそうな気がします」
乃梨子さんが聞いたら「ないないないっ!(欲しいけど)」と絶叫しそうな大嘘。
でも夕子さんは冷静に答える。
「そうですか。可南子は知らないと思いますけど細川家にも似たような習慣があるんですよ」
夕子さんまで大嘘を。それともまさか……お父さん……。
「でも夕子さん、可南子の背中は私がもう洗いましたから」
「じゃあ私は前を洗います」
衝撃の展開に、慌てて前を隠す可南子。
「な、何言い出すんですか、先輩」
「可南子、貴方、リリアンのお姉さまには洗わせても、この私には洗わせないと言うの? そんな…中学の時はあんなに素直でいい子だったのに…」
「えええ…、でも、でも、前は…さすがに…」
「私が継母だからなのねーーーーー」
「絶対違うーーーーー!!!」
「頬ずりしてあげたいのに」
「駄目ーーーーーっ!」
二人のやりとりの間に、祐巳さまは可南子の背後からすっと手を前に回す。
後ろから抱きついたようになった姿の手に握られているのは、いつの間にやらボディソープをたっぷりと含ませたスポンジタオル。
「可南子、前も洗ってあげる」
「お、お姉さま!?」
「観念しなさい。動かないのっ!」
その手を掴む夕子さん。
「祐巳さん、何やってるのっ! 可南子から離れなさいっ!」
「いいから。そんなに洗いたいなら夕子さんは旦那さんを洗えばいいじゃないですか」
「可南子の方がいいっ!」
「せっかく結婚した相手じゃないですかっ!」
「あの人はあの人、可南子は可南子!」
「二股ですかっ!」
「夫に対する愛情と娘に対する欲情は別よっ」
「欲情言うな」
何か、非常に体力を消耗したような気がする。
お風呂に入ったのに、入る前より疲れたような気がするのは何故だろう。
「寝室だけど…」
夕子さんの口調に、可南子はバトル再開の気配を感じた。
ごめんなさい。ゆっくり寝かせてくれませんか?
可南子の願いは神に届かない。というより届く前に祐巳さまと夕子さんが叩きつぶした。
「久しぶりに、可南子と寝たいのだけど…」
「久しぶりって…私、先輩と一緒の部屋で寝たことはないと思いますけど…」
「あら、可南子。お姉さまの前だからって隠すことはないのよ」
妖しく微笑む夕子さん。祐巳さまはややひるんでいる。
「くっ…。可南子。今日も一緒に寝ましょう」
「あ、あの三人で一緒というのは…」
折衷案を出す可南子。これ以上争われてはたまらない。
「あら、それはいいわね」
「そうね。そうしましょう」
あっさりと許諾する二人。
そして三人は川の字に……訂正、「小」の字になって寝ることとなった。当然、真ん中が可南子。
電気を消そうとして、祐巳さまの提案で「茶色」にする。
すぐに寝息を立て始める三人。
何かを感じて目を覚ます可南子。
何かが左右を飛び交っている。
殺気?
少し考えて、その正体がわかった。
二人は寝たふりをしている。そして夕子さんが祐巳さまを、祐巳さまが夕子さんを監視しているのだ。
先に眠った方が負け。起きていた方は可南子を…。
このままお互い牽制してくれれば、可南子はぐっすりと眠ることができる。
(ごめんなさい、お姉さま、先輩。でも、私はとても眠くて…)
翌日、一睡もできなかった二人を尻目に、可南子は爽快な朝を迎えたのだった。