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BIOHAZARD
 
 
 
 佐藤聖、発病。
 
 ドアを開くと、人の気配はない。
「聖?」
 蓉子は部屋の主に声をかける。
「いないの?」
 ヘッドの上は乱れていて、人がいた形跡はある。ここで寝ていたのは間違いないようだ。
「聖? どこ? もう少ししたら江利子も来るのよ?」
 部屋の中には隠れられそうな空間はない。
 いや、一つだけ。
 壁に作りつけのクローゼット。この中になら人間一人ぐらいは入る空間がある。
 病気で寝込んでいるというのにこんな所に隠れるだけの余裕があるとは思えないが…。だが、性格としてならあり得る。
「まさか、いくら聖でもね」
 それが、蓉子の油断だった。
 
 水野蓉子、感染。
 
 江利子は不穏な気配を感じ取っていた。
 先に来ているはずの蓉子の姿が見えないのだ。
 …聖と二人で?
 いや、まさか。いくらなんでも。
 後で自分が来るのは蓉子が知っているのに、そんな無様な真似を蓉子ともあろう者がするわけない。
 それとも、言い出す間もなく聖に押し切られたか?
 …だとすれば、聖の病気も大したことないってことよね。
 江利子は大きく欠伸した。
 蓉子の能力への信頼。それが江利子の油断だった。
 
 鳥居江利子、感染。
 
 
 翌日……
 
 令と由乃は急いでいた。
 昨夜遅く、江利子さまから緊急連絡があったのだ。
 それも、メールで。
 そこには簡潔に、前日聖さまの家で起きた出来事が説明されていた。
「なんてこと…」
 呟きながら読み進めると、江利子さま自身はなんとか自分を封じて、聖さまは倒れているが、蓉子さまは行方不明だという。
 行き先として考えられるのはリリアン。それも、薔薇の館。
 江利子さまは続けて書いていた。
「…多分祥子や祐巳ちゃんじゃあ止められないどころか火に油だと思うから、貴方と由乃ちゃん、志摩子で何とかしなさい。運動能力格闘能力なら貴方のほうが格段に上だから。問題は性格だけど、そこは由乃ちゃんのフォローでどうにかなるでしょう。御免ね。私が行くことができればいいんだけど」
 そこまで読んで、令は息を呑んだ。
 お姉さまが、私に謝っている!?
「私はここを動けそうにないから」
 そうか…。
 メールを読み終えると、同じく読み終えた由乃と目が合う。
「…厄介ね」
「うん。とても厄介だ。私たちに蓉子さまを止めることができるかどうか…」
「でも、止めるしかないのね」
「そうだよ。今、山百合会を守れるのは、私たちだけだから」
「うん」
 二人は急いで朝食を摂ると、家を出た。
 だが、二人は急いだあまり見落としていた。
 江利子さまからのもう一つのメールを。
「追伸。私たちより先に、志摩子が来ていたかも知れないので注意して」
 
 
 人の気配がする。
 …?
 祥子は首を傾げていた。
 今日はクラスの当番で早朝登校をしているのだ。山百合会はまだ誰も来ていないはず。
 けれども、薔薇の館には人の気配がある。
「誰かいるの?」
 扉を開けて声をかける。
 人影が一つ。あまりにも自然なたたずまいに、祥子は一瞬その存在を当たり前のように受け入れた。
「ごきげんよう。お姉さま」
「ごきげんよう、祥子」
 少し間が空き、それでも祥子は当惑したように尋ねる。
「…お姉さま? どうして?」
 そこにいたのは紛れもない蓉子さまだった。
「貴方の顔が見たくてね、祥子」
 蓉子さまは変わりない微笑みで、祥子に近づく。
「お姉さま…」
 祥子は魅入られたように動けない。
「相変わらずね、祥子。そうやって予想外のことが起きると固まってしまう所とか」
 蓉子の手が祥子の手に重ねられる。
「祥子、逃げちゃ駄目よ」
「お姉さま? 逃げるなんて…、え?」
 
 小笠原祥子、感染。
 
 
「御免ね、二人とも」
 祐巳は二人に何度目かの同じ台詞を告げる。
「もう、いいですわ、祐巳さま。同じことばかり」
「気にしないでください」
 瞳子ちゃんと可南子ちゃんの手にも書類が一抱えずつ。
「うん。でも二人とも、こんな朝早くから」
 昨日の内にやるべきこと…書類を薔薇の館に運び込んでおくこと…を祐巳はすっかり忘れていた。
 朝になってから思い出して、慌てていつもより少し早く登校してきたのだが、その様子を見た瞳子ちゃんと可南子ちゃんがお手伝いを申し出てくれたのだ。
 今朝はお姉さまが早く登校しているはずだから、祐巳の失態は既に知られていることになる。それでも、放課後までうっちゃっておくよりはマシだろう。
「だから、構わないと何度も言っていますのに。私も可南子さんも」
 瞳子ちゃんが溜息混じりに言っても、可南子ちゃんは返事をしない。
「…可南子さん?」
 可南子ちゃんは立ち止まって温室のほうを見ている。
「どうしたの、可南子ちゃん?」
「どうかしまして?」
「あの、あそこにいるの…白薔薇さまと乃梨子さんでは…」
 本当だ、と呟き、声をかけようとする祐巳を慌てて止める瞳子ちゃん。
「いけません、祐巳さま!」
「どうしたの、瞳子ちゃん?」
「よく見てくださいまし!」
 言われて目をこらすと、何か様子がおかしい。
 どうも抱き合っているように見える。
「あ…」
「お邪魔しては悪いですわ」
「そうだね」
 じっと見ていた可南子ちゃんがポツリという。
「そうでもないようですよ。二人とも、こちらにやってきてますわ」
 走っている二人。
「あれ、もしかして、覗いたこと怒ってるのかな」
「瞳子達は覗いたわけではありませんわ!」
「そうですわ、祐巳さま。強いて言うならば、あんなあからさまな場所で愛を交わしている二人が悪いのですわ」
「それはそうかも知れないけれど…わっ!」
 二人が三人を挟むように別れた。
「な、なに、どうしたの? 志摩子さん?」
「瞳子…うふ」
「祐巳さん…くすっ」
 二人の妖しい微笑みに、祐巳も瞳子ちゃんも足が竦む。
「な、なに、どうしたの、志摩子さん」
「…乃梨子さん? 目が怖いですわ…」
 可南子ちゃんを中心にして、祐巳は瞳子ちゃんと一緒にじりじりと固まっていく。
「三人とも逃げて!!」
 大きな声に目をやると、由乃さんが令さまと一緒に走っている。
「由乃さん?」
「祐巳さん! 瞳子ちゃん! 可南子ちゃん! 逃げて!!!」
 なんだかわからない。わからないけれど、今の志摩子さんと乃梨子ちゃんは普通じゃない。それだけはわかる。
 乃梨子ちゃんの手が瞳子ちゃんに、志摩子さんの手が自分と可南子ちゃんに向かって延びたのを見た瞬間、祐巳は咄嗟に可南子ちゃんを突き飛ばす。
「可南子ちゃん! 逃げて!」
「祐巳さま!」
「早く! 薔薇の館にはお姉さまもいるから!」
「でも、祐巳さま!!」
「いいから行きなさい!」
 志摩子さんの腕に絡め取られながら、祐巳は叫ぶ。隣では、乃梨子ちゃんの腕の中で瞳子ちゃんがもがいている。
 視界の隅に、令さまと由乃さんの姿が映った。
 …令さま…由乃さん…
 …ありがとう…でも…もう…手遅れ…だよ
 
 福沢祐巳、感染。
 松平瞳子、感染。
 
 
 可南子は走っていた。
 これほどの全力疾走は、運動会の時ですらなかったこと。
 なにか、とてつもない自体が進行しているのだ。自分を救ってくれた祐巳さまのためにも、薔薇の館へたどり着き、祥子さまに状況を伝えなければならない。
 一階のドアを開き、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
 翻るどころか捲れ上がるスカートも気にしない。今は一刻を争うのだと、本能が告げていた。
 走りきった勢いで、扉を開く。
「紅薔薇さま!」
 ゾッとする感触。
 何かおかしい。
 そこにいるのは…紅薔薇さま…。そして…
 蓉子さま?
 二人は、仲睦まじく抱き合っている。
「…紅薔薇さま?」
 蓉子さまは先代の紅薔薇さま。もう卒業しているはずなのに。現に、文化祭ではOBとして遊びに来ていたのに。
「あら、可南子ちゃん? そんなに慌ててどうしたの?」
「あの…祐巳さまと瞳子さんが!」
「…ああ、もしかして、志摩子かしら?」
 蓉子さまがクスクスと笑う。
 可南子は振り返り、駈け出そうとした。
「駄目よ、可南子ちゃん」
 いつの間にか手の届く位置まで近づいていた祥子さまが、可南子の手を強い力で握りしめる。
「可南子ちゃん、背が高いから、絵になるわ」
 寄り添うように頭を傾ける祥子さま。
「紅薔薇さま…?」
「駄目。動かないで、可南子ちゃん」
「あ…」
 
 細川可南子、感染。
 
 
 立ち止まった令は、そのまま走り続けようとする由乃の肩を掴む。
「駄目だ、由乃」
「令ちゃん? どういうこと?」
「よく見るんだ、由乃」
 いいながら、令は由乃の体を引くと、自分の後へと置く。
 令の調子に、由乃は無言で従っていた。
 令はそれ以上何も言わず、部室から持ってきた竹刀の重さを確かめるように握り直す。
 …多少無茶でも、木刀の方が良かったかも知れない。
 初めて、竹刀を持った自分の力に不足を感じている。
「令ちゃん…」
 そこで由乃も気付いたようだった。
 志摩子、祐巳ちゃん、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん。
 四人が同じ表情でこちらを見ている。
「こんなに早いんだ…感染は…」
 江利子の言葉だけでは信じられなかったこの感染速度。それを目の当たりにしたことで、令は緊張を高めていた。
「黄薔薇さま」
 あくまでも微笑みを絶やさず、志摩子がこちらに向かって歩き始めた。けれども、それはいつもの志摩子の笑みではない。
「由乃さん?」
 日頃からは想像もできない媚の入った口調で、祐巳ちゃんがニッコリと笑う。
「黄薔薇さま」
「由乃さま」
 そして、乃梨子ちゃんと瞳子ちゃん。
「…由乃。私が合図したら、後ろに向かって走るんだ」
 令は竹刀を構えながら言う。
「今日ばかりは、口答えは許さないよ。これは黄薔薇さまとしての指示だからね」
「うん。わかった。…私、令ちゃんの足手まといにだけは絶対になりたくないから」
「由乃…これが終わったら…」
 四人との距離を令は測っていた。
「大きなケーキを焼いて、二人っきりで食べようね。…走って!」
 駈け出す由乃の足音を耳にして、もう一度令は竹刀を握り直す。
「御免、志摩子、祐巳ちゃん、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん。でも、私は何があっても由乃を守るよ」
 由乃の悲鳴。
 思わず振り向いた令の目に映るもの。それは…
 由乃を取り囲むように立ちはだかる真美、三奈子、蔦子。
「そんな…由乃!」
 その隙を見逃す四人ではなかった。
 瞬く間に竹刀を奪われ、計八本の手が令の自由を奪う。
「由乃ーーーーー!」
「令ちゃーーーーん!!」
 
 支倉令、感染。
 島津由乃、感染。
 
 
「ああ……」
 蓉子は説明を終えると呟いた。
 聖がインフルエンザで寝込んでいた。見舞いに行った蓉子と江利子、そしておそらく志摩子に感染したらしい。もっとも、志摩子の発現は少し遅れたようだが。
 だが、聖の体内でインフルエンザは不思議な突然変異を起こしていた。
 そのインフルエンザは普通のインフルエンザのような体調変化を伴わない。
 ただ、無性に誰かを抱きしめたくなる。
 そう、あたかもかつてのエロ薔薇さまこと佐藤聖が福沢祐巳に対していたように!
 本人の意志とは無関係に、誰かを抱きしめていないと納得できないのだ。
「こんなことになるなんて、情けないわ…」
「お姉さまは祐巳をお抱きになっているからいいじゃありませんですか」
 祥子がヒステリックに叫ぶ。
「どうして祐巳はお姉さまの方に行ってしまったの!」
「た、たまたまですよ、お姉さま。誤解です〜」
「祥子、あんまり大きな声で叫ばないで。耳が痛いよ」
 令が苦笑しながら言う。
「それに、私だって恨めしいんだからね。どうして祥子が私の所に来たのよ。おかげで由乃は……」
 恨めしそうに由乃の相手を見る。
「…なんだかおかしなことになったわね」
「うーん。まあ、仕方ないかな…」
「そうね。ところで蔦子さん。この状態でも写真は撮れるの?」
「由乃さん、誰に向かっていっているの? この武嶋蔦子さんが写真を撮らないとき、それは死んだときだけよ」
「だったら話は早いわ。この状況、たっぷり撮っちゃって」
 その言葉に真っ先に反応する一年生二人。
「何考えてるんですか由乃さま!」
「こんな…可南子さんと抱き合っている所を写真に撮られるなんて屈辱ですわ!」
「それはこちらの台詞です!! 祐巳さまさえ、祐巳さまさえ蓉子さまに取られていなければ…」
 回りの狂騒を余所に、三奈子と真美、志摩子と乃梨子はそれぞれ二人っきりの世界を展開していた。
「真美、今この瞬間、この世からインフルエンザの薬が全部無くなったらどうする?」
「え、それって…私たち、ずっとこのまま…」
「そう。真美は…嫌?」
 真っ赤になった表情を隠すように三奈子さまの意外と豊かな胸元へ顔を埋めると、真美は小さくかぶりを振る。
「…私は構いませんよ、お姉さま」
 一方、志摩子と乃梨子は無言のまま、しっかと相手の温もりを確かめ合っている。
「でも、どうして、蓉子さまはここに来たんですか? 江利子さまと二人で抱き合っていれば、被害は広がらずに済んだのに」
「広げたのは私じゃなくて志摩子だと思うけど? それに私だってどうせなら、江利子より祥子や祐巳ちゃんの方がいいもの」
 言われてみればその通り。
 令は志摩子に向き直る。
「志摩子…?」
 乃梨子の肩に顔を埋めていた志摩子がきょとんと顔を上げる。まるで、葉っぱを囓っていた兎が物音に気付いたように。
 それでも、質問の内容はちゃんと聞き取っていたらしい。
「…お姉さまが、面白いから皆さんに伝染すようにと」
 全員の顎ががくんと落ちた。
「ふっふっふ………」
 地の底から響くような笑い声。
「聖…面白いことしてくれるじゃないの…」
「お、お姉さま?」
「蓉子さま?」
 紅薔薇一族の畏怖の表情をバックに、蓉子は低く笑い続けるのだった。
「ところで、江利子さまはどこにいるの?」
「さあ?」
 
 
 祐麒は、この世の地獄を見たような気がした。
 月光先輩と日光先輩が抱き合っている。
 こちらでは小林と高田。
 向こうではアリスと柏木…ちょっとこれは絵になりそうだ。
 一体何が……。
 江利子がとりあえずの避難先として、実は聖の近所に住んでいた山辺先生のアパートを訪れていたことを祐麒は知らない。
 ちなみに江利子に言わせると、
「病気を盾に既成事実を作ってやろうかと思って」らしい。
 当たり前だが、山辺先生も感染したのだ。
 そして、登校。
 そして、この状況。
 キラリン
 六人が祐麒を見た。
 この世のものとも思えぬ絶叫を撒き散らしながら、祐麒は逃げまどうのだった。
 
 
 
あとがき
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