コタツの中 令由編
「ただいま」
返事はない。
いつもなら母の返事があるはずなのに。
「お母さん?」
いないのだろうか。
玄関をくぐる前に道場にも立ち寄ってみたけれど、そこにも誰もいる気配はなかった。
留守なのか。
だとすれば鍵が開いているのはおかしい。鍵を閉めずに出かけることなどないはずだ。
父はそういうことにはとても五月蠅いし、そもそも母が鍵締めを忘れるなどあり得ない。
「誰もいないの?」
返事はなく、令はそのまま靴を脱いだ。
やはり、台所には誰もいない。
冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。コップに一杯。
飲み終えてもう一度回りを見渡す。万が一出かけているとすれば、台所のテーブルの上に何らかのメモがあるはずだ。自分が帰ってくることはわかっているはずなのだから。
牛乳を飲み終えて、流しで洗ってからテーブルに目をやっても何もない。
新聞のチラシが置いてあるだけ。
(本当に誰もいないのかな……)
だとしたら、不用心この上ない。
テーブルの上や居間の様子からしても、何かがあって慌てて出て行ったような様子はない。何か用事ができたにしても、戸締まりや伝言を忘れてしまうほどの緊急事態ではないだろう。
と、そこで令は一つの可能性に思い当たった。
母も父もいない、何かの用事で出て行った。
鍵は締まっていない。
ということは、留守番がいると言うことだ。
多分、由乃が来ているのだろう。今日は令だけが部活の関係で帰りが遅くなってしまったのだ。由乃は先に帰っているだろうし、由乃がこちらに来ているのなら、自分の部屋に違いない。
不用心であることに違いはないのだけれど、令の顔は綻んでしまう。
「由乃?」
と言いかけて、慌てて令は口を閉じる。
(由乃を驚かせよう)
ゆっくりと、部屋へ行こうとして気付く。
居間に置かれたコタツ。居間まで死角になっていて見えなかったのだけれど、誰かいる。
令はゆっくりと足音を殺して回り込んだ。
やっぱり。
そこには由乃が眠っていた。
コタツに入って留守番をしていたのに、つい横になって眠ってしまったのだろう。
(不用心だなぁ)
由乃の横に座り、起こそうと手を伸ばす。
その手が止まった。
ふと、由乃の頬に指先を当ててみる。
温かい。当たり前なのだけれど、温かい。
くすっ
なんだか妙に楽しくなって、由乃の頬を指で押してみる。
んんん、と喉を鳴らすように呻く由乃。
その反応がまるで猫みたいで可愛くて。
ぷにぷにと突いていると、柔らかくて温かくてとてもいい気持ち。
楽しくて、少しずつ顔を近づけては突かれるたびに揺れる頬を観察している。そしてすぐに、なんだかとっても近い位置に由乃の顔が来ていることに気付いた。
さっきまで別に何も意識していなかったのに、近くにあると気付いた瞬間、胸が高鳴った。
由乃の唇に目が行ってしまう。
赤い、小さな唇。微かに開いたそれを閉じてみたいという誘惑。
見ているだけで、令はさらに近づきたいという自分の想いに向き合うことになる。
でも、こんなところで。
両親はいない。留守番を頼む位なのだからすぐに帰ってくる訳ではないとわかっている。
眠っている由乃は、あまりにも無力で無防備だった。このまま組み敷けば、全てが終わる。
危険な発想に、令は心の中で顔をしかめる。けれどそれは、否定とは違っている。
そんなことをしていいの?
心の良心は、それでも行為自体を否定しているわけではなかった。
今でいいの?
行為自体を自分は、そして恐らくは由乃もタブーとはしないだろう。いや、タブーであると知っていても、ただ「私たちには関係ない」と嘯くことができるだろう。
本当に?
令は己に問いかけていた。
二人の関係が許されるものだと思っているのは本当は自分だけではないのか?
こんな欲望を抱いていることなど、由乃はまったく知らないのではないだろうか?
由乃は自分がそんな目で彼女を見たことがあると知った時、どんな目で自分を見るのだろうか?
令の中の何かが、その想像に震えているようだった。
それは歓喜かそれとも恐れか。あるいは嘲りか。
自分は由乃を愛している。そして由乃も自分を愛してくれている。間違いはない。そう、そこに間違いは全くない。
ただ、由乃の「愛する」と自分の「愛する」は本当に同じものなのだろうか。
それを直接問うことなど、無論問題外だった。けれども、問わなければわからない。
そんな脆いものだったの? と令の中の何かが囁く。
貴方と由乃の関係は、そんなに脆くて弱い、砂上のものだったの?
貴方達には絆があったのではないの?
絆があると思っていたのは貴方だけ?
そんなことはない。令は心の中で反論していた。
では、それを確かめればいいじゃないの。
できるわけがない。間違えれば全て失う。今の関係すら。
求めて拒まれれば、全て失う。もう元には戻れない。ならば、今のままでも構いはしない。
この微笑みが自分に向けられていると確信できる今ならば、これ以上は望まなくても平気でいられる。
だけど、この微笑みさえ失えば、自分は平気ではいられないだろう。
由乃を、失いたくはない。
だから今は、これが精一杯。
令は、由乃の額に口づける。
……令ちゃんの意気地なし!
由乃は寝たふりを続けながら、心の中で毒づくのだった。