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雲の流れは早すぎて
 
 
 
 空を見上げた。
 どんよりとした空に、灰色の雲が流れている。
 ……早いな…
 私はそう呟いていた。
 どうして、こんなに早く流れていくんだろう。
 もっと、もっと……いいえ、あとほんの少し、ほんの少しだけゆっくり流れてくれないのだろうか。
 ……私は急いでいた。
 ようやく、自分をそうやって思い返す余裕が心に生まれようとしていた。
 けれど、急いでいなければうまくいったのか、と自問することはまだ恐い。自問ではなく、その結果として返って来るであろう答を知るのが。
 どちらにしろ、私たちは壊れていったのかもしれない。それを認める強さは、未だ私の中にはなかった。いや、いずれ持つことができるとも思えない類の強さだった。
 私はただ、雲の早さを嘆いているだけだった。
 自分がそれに追いつけることもない早さを。
 私を置き去りにしていく早さを。
 私と栞を引き離した早さを。
 だけど私は知っている。雲の流れの早さの理由を。
 私が、愚かだったから。
 結果として、栞を傷つけてしまった。
 自分が傷ついたことなどどうでもいい。私は栞を傷つけてしまった。それが本意でないと言うことは枝葉に過ぎない。
 私が栞に残すことができたもの。それは苦い思い出という名の傷痕だけだった。
 それなのに、傷ついたのは自分だと思いこんで。
 なんて愚か。
 なんて惨め。
 もっとゆっくりと、もっとじっくりと、もっと長く、私は栞と過ごしていたかった。だけど、それを許さなかったのは私。それを壊したのも私。それを投げ捨てたのも私。栞を遠ざけてしまったのも私。
 栞と別れなければならなかったのは、私のせいだから。
 あとは、その過ちを認める強さだけが私には必要だった。
 そしてそれが、私には足りないものだった。
 そしてそれが、唯一私に必要なものだった。
 お姉さまがいて、蓉子がいて、江利子がいて、
 だけど栞はいない。
 栞はいないのに、
 お姉さまがいて、蓉子がいて、江利子がいて。
 それを理不尽に思えてしまう自分にも吐き気を催しそうだった。
 どんよりとした空。
 私は、生まれてからこのかた、どんよりとした空しか見たことがないような錯覚に襲われていた。多分、それほど的はずれな思い出ではないはず。栞と別れてからの空は、確かにいつもどんよりとしていた。そして、灰色の雲を伴う空だった。
 例えそれが主観的な風景だとしても。人は皆、主観的な風景を受け入れていくものだから。私にとってのそれは、栞との別れ以来常に、灰色の雲とよどんだ空だった。
 
 風が吹いた。
 ような気がした。
 気のせいだろうか。
 雲が一瞬消えた。
 ような気がした。
 強い、だけど快い風が吹き抜ける。風は雲を飛ばし、一面の空を見せてくれた。
 私は久しぶりに空を見ていた。
 ああ、空はこんなになっていたんだ。雲のない空はこんなになっていたんだ。
 そして、小さくて可愛らしい太陽が生まれた。
 ちっちゃな太陽はやがて、とても眩しいものになった。
 空は青かった。どこまでも高く、どこまでも澄んでいた。そして、泣きたくなるような深さが頭上に広がっていることに私は気付いた。
「私も、同じ空を見てみたい」
 そんなこと、彼女は言っていない。けれど、この風景を知っていれば、きっと彼女はそういっただろう。
 私はそう信じている。
 私と彼女は、結局同じ空を見ることはできなかった。けれど、彼女もまた、私に空の見方を教えてくれた。
 だから、私は静に感謝していた。
 静はほんの一瞬景色の中にいたけれど、すぐにどこかへ行ってしまう。
 私は、心地よい風と温かい太陽を全身に受けて、本当の空を眺めていた。
 雲なんてどこにもない。だから、流れる早さを気にすることなんてない。
 これが私の本当の空だったんだ。こんなに青くて、澄んで、深い空が。
 
 嘘。
 それはわかっていた。
 自分ではわかっていた、つもりだった。
 太陽は万人を照らすもの。私の空のための太陽ではないのだから。
 太陽は、別のものを照らすために輝いている。太陽には、太陽の好きな人がいる。私が太陽を独占すれば、太陽は本来の輝きを失ってしまう。
 そんなことはできるわけもなかった。
 祐巳ちゃんには、祥子がいたのだから。
 奪ってしまえば、祥子も祐巳ちゃんも、そしていずれ私も不幸になる。それはわかっている。
 太陽は、私一人のものじゃない。
 けれど、それはそれで良かった。私は我慢することを覚えていた。
 強く望めば、永遠に失われる。それが私に刻まれた教訓だったから。ただ一度の経験は、私の中に決して消えない痕を残していた。
 そして風は自由に吹かせたいと思った。
 私のために吹くのでも、誰のために吹くのでもない。風は風のまま、ただ自由に吹き続ければいい。
 風が望むのなら、誰かのために吹けばいい。けれど、風に吹いて欲しいと望むことは誰にもできない。勿論、私にも。
 
 太陽はまだ輝いている。今は、それが誰のものかはどうでもいいことだった。
 祐巳ちゃんがいなくなった後も、太陽の欠片は私の中に確実に残っていた。
 私の中にも、まだ太陽を輝かせるものは残っていたらしい。
 風はときおり吹いている。
 それがいつもは別の場所で吹いていることも私は知っている。
 風をまとう少女は、黒髪でおかっぱの、物事に動じない子。私の前でも動じなかったその子のことを思い出すと、私はつい微笑んでしまう。
 志摩子には相応しく思えるから。
 そして私には、空を一緒に眺めてくれる人がいた。何をするわけでもない、ただ、空を一緒に眺めているだけの人。
 
 
 栞がいた。
 蓉子がいた。お姉さまがいた。
 志摩子がいた。
 祐巳ちゃんがいた。
 静がいた。
 加東さんがいて、乃梨子ちゃんがいる。
 
 今、雲は時々空に浮かんでいる。
 だけど私はもう、雲の早さを恐れない。
 どれほど早く雲が流れても、もう惑わされない。
 雲は空を流れるものだから。
 私の空に雲は流れ流れて、いずれは誰かの空へと流れていくのだろう。
 皆の空はいずれどこかで繋がっているのだから。
 イタリアの空も、リリアンの空も、長崎の空も。
 全ては私の空に。
 
 
 
 
 
あとがき
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