永遠が二つ
写真が好き。
クラスメートたちに聞かれれば、「何を今さら」と笑われてしまうかもしれない。
だけど、彼女たちの「好き」と蔦子の「好き」は似て異なるもの。
写真が一枚。
バレンタインの宝探しイベントの時の写真。
ショウコさんの写真。
未だに会えないけれど、顔は覚えてしまった。いつでもどこででも、後ろ姿だけでも見かければすぐに判るという自信がある。
写真を渡す約束。
声をかけて、あの日の約束を告げて、写真を渡す。
ただ、それだけのこと。
もし許可がもらえるのならば、この写真を焼き増して手元に置いておきたい。
写真の中には、永遠があるから。
多分、写真の中だけに。
決して色褪せない、朽ちない一瞬がそこに封じ込められるから。
時が過ぎても、人が変わっても、移ろうことのない、まつろうことのない一瞬。
それが、蔦子にとっての写真だから。
永遠を封じ込めたもの。
学校の先生も、生徒も、クラスメートも、友達も、さらには家族ですら、不確かな存在にいつか変わってしまうかもしれない。
時間を切り取って一瞬の凝固させたものだけが、不変のものとして残るのだから。
夏休み直前、短縮授業の午後、蔦子は祐巳さんのクラスにいた。
「祐巳さんは相変わらず、魅せてくれる」
「どこが…」
「そうやって拗ねた所も一枚」
言うより早くシャッター音。
「うん、いい写真」
「現像する前に判るの?」
「完璧とは言わないけれど、だいたいはね」
「そんなものなの?」
「まあ、細かい所なんかは、現像しないと判らないときもあるけれど、単なるいいか悪いかなら、だいたい判る」
「さすが、蔦子さん」
「写真のことなら任せてちょうだい」
そう。写真のことなら。
写真のことなら誰にも負けないから。
それ以外には、なにもないから。
「あ、すいません祐巳さま」
二年生のクラスに姿を見せる一年生。
普段ならほとんどないことでも、放課後なら不思議はない。特にこの、怖い者知らずの一年生なら。
乃梨子ちゃんが紅薔薇のつぼみへの伝言を持ってやってきた。
上級生の教室、と言っても今は蔦子と祐巳さんだけ。乃梨子ちゃんとは二人とも顔見知りで、必要以上に臆する必要はない。
「今日の会議のことなんですけれど、志摩子さんが…」
話し終えた乃梨子ちゃんの目が、ふと一枚の写真に止まる。
「あれ、笙子さん?」
「知ってるの? 乃梨子ちゃん」
「ええ。隣のクラスの内藤笙子さんだと思いますけど?」
「内藤…?」
蔦子は訳がわからない、という顔になり、そしてすぐに納得する。
「そうか…克美さまの妹だったのね…そういうことか…」
「笙子さんの隣に写っているのがお姉さまなんですか?」
「内藤克美さま。実の姉よ」
「実の…あ、なるほど。でも、これって冬服に見えるんですけれど、どうして笙子さん、冬服なんて…」
「去年のバレンタインだもの。冬服で当然よ」
「どうして去年の……そういえば笙子さんってリリアンの中等部だったんだ」
祐巳さんがきょとんとした顔で尋ねる。
「あれ、乃梨子ちゃん、親しいの?」
「いえ。瞳子から聞きました」
「ああ、そうか。瞳子ちゃんか」
「ええ。中学校の時はクラスメートだったそうで」
「ふーん」
「瞳子が、由乃さまの妹に立候補したらどうかって勧めてました。本人は断ってましたけれどね」
「なんで由乃さんの?」
「判りませんけど、瞳子によると、『見た目の釣り合いが取れる』らしいです。確かに、笙子さんは見ての通りですし、由乃さまも外見だけなら可憐な…」
言い過ぎたと気付いて慌てて口を押さえる乃梨子ちゃん。
祐巳さんは笑っている。
蔦子は唐突に立ち上がった。
「ごめんなさい、祐巳さん、乃梨子ちゃん。ちょっと用事を思い出したわ」
二人を残し、蔦子は教室を出た。
なんだろう、この不快感は。
笙子さん…いや、笙子ちゃんの正体がわかったことは嬉しい。だけどどうして不快感があるのだろう。
年齢を偽っていた笙子ちゃんに対して?
中学生だと気付かなかった自分に対して?
黄薔薇のつぼみを馬鹿にした発言の乃梨子ちゃんに対して?
そこで蔦子は、自分の考えに笑ってしまう。
あまりにも無理がある。いくらなんでも、乃梨子ちゃんのせいにするなんて。
第一、どれも間違っている。
自分はあの時、うすうす気付いていたような気がする。
笙子ちゃんが中学生だということに。
それを認めたくなかった。認めると、下級生だと認めてしまうから。
下級生だとすれば、妹の対象だから。
妹なんていらない。束縛するものは何もいらないから。妹も姉も。
自分はただ、瞬間を永遠に置き換える作業に没頭していたいから。
「どうしたの? そんなに急いで」
真美さんと擦れ違った。
「現像を急ごうと思って」
「そう。写真部も大変ね」
そのまま普通に去ろうとする真美さんを蔦子は思わず話しかけていた。
「ちょっと待って、真美さん」
「どうしたの?」
何故真美さんを引き留めるの? 考える前に口が次の言葉を出していた。
「真美さんにとって、新聞を作ることはどれほど大切なの?」
きょとんとした顔で、真美さんは立ち止まっていた。
「突然どうしたの? そんなこと聞いてくるなんて」
「…自分でもよくわからないの。だけど、突然疑問に思えてね」
「愚問ね。記事を作ること以上に楽しいことが他にあると思って?」
真美さんは不敵にニヤリと笑う。
「…と、お姉さまなら言うと思うわけ」
「それでは、真美さんの答は?」
「それはわからない」
あっさりと答える。
「勘違いしないで、新聞部の活動は楽しいし、やりがいも感じているの。だけど、大切かって言われると違うような気がする」
蔦子の視線に、真美さんは首を傾げた。
「なんていうのかな、私にとっては、新聞部の活動と言うよりも、お姉さまと同じ事をやっている自分が大切なの。自分が大切という意味ではなくて、お姉さまの物真似をしているという意味でもなくて……」
「三奈子さまと同じだからこそ、楽しい?」
「そう…。それにくわえて、新聞部だから。新聞部で、しかもお姉さまと一緒」
「でも、新聞部だからこそ、三奈子さまのロザリオをいただいたのでしょう?」
「今となっては、もうわからない」
「え?」
「三奈子さまにロザリオをもらったのと、新聞部で活動したかったのと、どちらが先かなんて、もう忘れたの。それに…」
真美さんはどうだ、といわんばかりに胸を張った。
「どちらが先だとしても、今の私には関係ないから」
「関係ないの?」
「そもそも、私のお姉さまと新聞部を切り離して考える人がいると思う?」
思わない。築山三奈子と言えば新聞部。新聞部と言えば築山三奈子。
「真美さん…」
「はい?」
「いつの間にか、三奈子さまの話に替わってる」
「え…あ…」
珍しく、赤くなる真美さん。
「新聞部の活動の話だったのに…珍しく、真美さんのお惚気を聞いてしまったというわけだ」
「つ、蔦子さん、今のは内密に…」
「貸し一つね」
「うう…」
「ありがと、参考になったわ」
「何の?」
「それは、秘密です」
蔦子は首を捻る真美さんをそのままに、歩き続けた。
私には関係のない人間だ。写真への興味と両立できる人なんていない。
だから、お姉さまもいないし、妹もいない。
笙子ちゃんを妹になんて……
蔦子は立ち止まった。
あれ?
真美さんのことは言えない。
自分も、いつの間にか話を置き換えている。
一体いつ、笙子ちゃんが自分の妹候補になっている?
入学してからまともに話をしたこともない、それどころかまだ一度も会っていないのに。
自分はそれほど意識していたのか?
釈然としない。
「会えばいいじゃない」
部長はあっさりそう言った。
「当たって砕けなさい。砕けなきゃ儲けものじゃないの」
「儲けものって…」
「砕けたら私の儲けものだけどね」
「どうして…」
「傷心の貴方を慰めて、ロザリオを押しつけるから」
「部長…まだ根に持っているんですか」
「そりゃあね、誰かが妹になってくれないから、未だに妹がいない写真部の三年は私だけ。恨みにも思うわよ」
「はっきりお断りしたはずです」
「私もね、はっきり言ったわよ? 蔦子ちゃん以外に妹にしたい子がいない、って。第一…」
新聞部部長は蔦子の頭を軽く叩いた。
「待っているのは私の勝手。本気で貴方に圧力をかける気なんて無いわよ。それに、今さら貴方が誰かの妹になるとも思えないしね」
「ええ、そのつもりです」
「でも、貴方は妹を作るような気がするの」
「どうしてそう思うんです?」
「映画って、昔は活動写真って言われていたのよ?」
「え?」
「静止したままの写真に飽き足らない人が作ったのよ。時間を止めたままでなく、動いている時間を繋ぎ止めておきたかった人たちがね」
蔦子は黙って部長を見ていた。
「だけど、写真が廃れた訳じゃない。一瞬を永遠に留める術は、形が変わることがあってもその本質が消えることがない、と私は信じてる。でも、流れる時間を流れるままに繋ぎ止める映画だって、形が変わっても廃れることはないでしょうね」
「部長?」
「前に言ってたじゃない。写真は、永遠に一瞬を留めるって。でもね、永遠を封じ込める方法は、一つとは限らないの。例えば活動写真。例えば…」
部長はロザリオを掲げた。
「絆。卒業されても、私がお姉さまの妹であったことは永遠に変わらない事実だから」
「私には、写真だけです」
「そう」
部長は逆らわなかった。
「それが貴方の歴とした意見なら、私は尊重するだけよ」
「私の意見は、替わりませんよ」
「うん。わかってる。でも一つだけ」
部長はニヤリと笑った。
「替わってしまっても、私は驚かないから」
夏休み寸前に、蔦子は笙子ちゃんに出会うこととなった。
「隠れてたんです」
何故か疑問は持たなかった。
「蔦子さまに、見つけて欲しかったのかもしれませんね」
「これ」
蔦子はぶっきらぼうに写真を渡す。
「これ…お姉ちゃん…。こんなところ、撮っていたんですか、蔦子さま」
「いい表情だったからね」
「あの、私、あれから考えたことがあって」
「なに?」
「写真を撮る側に回れば、少しは変われるかなって」
「そうかもね」
「もし良かったら、蔦子さま、教えて頂けませんか?」
「写真の撮り方? だったら、写真部に入れば」
「その方が蔦子様が教え易いなら、そうします」
なかなか、押しの強い子だった。
「私じゃなくても写真のうまい人はいるわ」
「私にとっては蔦子さまだけです」
夏休みが終わって、笙子ちゃんの写真はかなりのものになっていた。撮られる側の気持ちがわかっているから、撮りかたにも工夫ができる。
被写体の思っていることを見抜いたような写真に、蔦子は満足を覚えていた。
「笙子ちゃんは、お姉さまを作らないの?」
何の気無しを装った質問は、一週間前から機会を伺っていたものだった。
「ええ。申し込みは戴くんですけれども、お姉さまにしたいと思える人がいません」
「そう、大変ね」
「ええ。断る理由を探すのも、そろそろネタ切れなんです」
そう言って笙子ちゃんが笑う。
「誰かの妹になれば、断る必要はなくなるわよ」
自分でもおかしな事を口走っているとわかる。蔦子は心の中で苦笑していた。
「そうですね」
笑う笙子ちゃん。その話題はそこで途切れてしまう。
細川可南子。
蔦子は現像した写真を何枚も見比べながら、その名前を呟いていた。
祐巳さんの写真には必ずと言っていいほど登場している彼女。
どう考えても偶然ではあり得ない。
つきまとっている。ストーカーか。
祐巳さんに伝えるか否か、迷ったあげく伝えたのは昨日。祐巳さんはそれなりの対応を考えたようで、それはいい。
けれども、この騒動で一つ気付いてしまったことがある。
細川可南子は祐巳さんにつきまとったことで、常に写真に写っていた。
その逆はどうか。
蔦子は撮り貯めた写真を眺めている。
今まで心のどこかにひっかかっていたこと。
何故、笙子ちゃんの存在にもっと早く気付かなかったのか。
一年生を撮った写真の中に笙子ちゃんの姿はない。
東京タワーを見ない方法、それは東京タワーに入ること。
写真を撮られない方法、それは、写真を撮る者につきまとうこと。
「ええ」
悪びれず、笙子ちゃんは答えた。
「変な意味はないんです。ただ何となく、蔦子さまには見つかりたくないって…」
「どうして?」
ちくりと心が痛む。
「見つかりたくないと言うより、その他大勢の一人として撮られたくなかったんです」
「え?」
「正面から、きちんと撮ってもらえるようになるまでは、蔦子さんの写真には写りたくないなんて……思ったりしてました」
「それじゃあ、今はどうなの?」
「自分でもまだ判りません。前よりは、マシになったと思いますけど」
「そう」
「蔦子さんになら、素直に撮ってもらえる…撮ってもらえるようになりたいんです」
「いつでもいいから。待ってるわよ。永遠にでも」
「永遠ですか?」
悪戯っぽく笑う笙子ちゃん。
「待ってる間にお婆ちゃんになってしまいます」
蔦子も釣られて笑った。
「構わないわ。笑顔の可愛いお婆ちゃんになればいいもの。それに……こんな永遠も、いいかもしれないしね」
「え?」
「なんでもない、こっちの話よ」
一瞬の永遠と、流れるままの永遠。
永遠を二つも求めるなんて贅沢だ。
私は、一瞬の永遠を選んでいた。
そのはずだった……。
でも…私がこんな贅沢だったなんて。
「どうしたんです? お姉さま?」
ロザリオを揺らして、笙子がレンズの向こうで笑う。
永遠が二つ。
なんて贅沢な私。
そして、なんて幸せな私。