膝枕
由乃さんは無言でカバンを置いた。
令さまは苦笑しながら、それでも肩をすくめてそっぽを向く。
たまには、いい機会だから、由乃の方から謝るまで待ってみようと思う。由乃さんがやってくる少し前、令さまはお姉さまにそう話していた。祐巳は横で聞いていたので良く覚えている。
また、いつものように、第三者にとってはくだらないこと、けれど由乃さんにとっては大切なことで怒っているのだと、祐巳は思った。
けれども、それがとても由乃さんらしくて、そしてその由乃さんが謝ってくるのを今回こそ待つんだと頑張っている令さまが、もう既に由乃さんの様子を気にし始めているのも、令さまらしいと祐巳は思う。
ミスターリリアンにまで選ばれている令さま。令さまを遠くから眺めて憧れている生徒達に聞けば、十人が十人とも、「令さまのイメージは凛々しい」と答えるだろう。
祐巳だって、実際にお近づきになるまではずっとそうだと思っていた。
こんな風に、妹の由乃さんの一挙手一投足にすぐさま左右されてしまうような人だとは思っていなかった。もっと毅然として、妹なんてしっかりと従わせて有無を言わせない、そんな雰囲気を、みんな令さまに期待しているのだ。
けれども、それが令さまの優しさの裏返しだと言うことはすぐにわかった。
それに、なんだかんだと言っても、大切なことに関しては令さまは譲らない。由乃さんに譲ってもいい部分といけない部分はきちんとわけているし、由乃さんの方もだいたいにおいてそれは判っている。我が侭を言ってもいいときといけない時を、由乃さんもわかっているのだから。
そう。総じて二人はとってもいい姉妹。
祐巳は四人分のお茶を用意すると、由乃さんと令さまの分をわざと令さまの前に置き、自分とお姉さまの分を持って移動する。
お姉さまは祐巳の意を汲んで、既に移動している。
二人は仲良くお茶を飲み始めた。
祐巳さんは露骨なのよ。
由乃は心中で呟いた。
そりゃあ、私だって、令ちゃんと仲直りはしたいけれど。
だけどそんなふうに、さも「さあ、仲直りをしなさい」なんて言うようにセッティングされたって…。
だからって素直に「ごめんね、令ちゃん」なんて言えるわけがないじゃない。
はあ。
どうしよう。
私だって、自分が馬鹿なことやっちゃったことくらいわかってるもの。
だけど、いつもの令ちゃんだったら自分から謝ってくれて、そして今頃はもういつも通りの二人に戻っているはずなのに。
どうして令ちゃんってば今日に限って頑固になっているのよ。
私が令ちゃんと仲直りしたいと思っているのに、どうして気付いてくれないのよ。令ちゃんの馬鹿ッ!
祐巳の煎れてくれたお茶を祥子はゆっくりと味わう。
このごろようやく、というかいつの間にか、祐巳は祥子の好みに本当にピッタリなお茶を煎れるようになった。
もしかすると、祐巳の煎れるお茶に合わせて、祥子の好みが替わっただけなのかも知れないけれど。
「眠いですね…」
うつらうつらと祐巳。
今日は特に急いでやることもない。
昼下がり、祐巳ではないけれどたしかに眠気に誘われるのも仕方がない。
苦笑しながらふと見ると、由乃ちゃんが令のほうをじっと見ている。
ああ、また、由乃ちゃんが可愛い我が侭を言っているのだな。
もっとも、祥子にしてみれば可愛い我が侭なんて理解できないのだけれども。
令の話をいくら聞いても、それは単に由乃ちゃんが思い通りに傍若無人に振る舞っているとしか思えない。
令の「そこが可愛いんだけど」という言葉はまったく理解できないのだから。
祐巳なら、そんな我が侭は言わない。それは勿論、時々は逆らうようなことも言うけれど、それは祐巳のせいではなくて、人間同士がつきあっていくについては必ずある小さな衝突に過ぎないから。それと由乃ちゃんの我が侭を一緒にされては困ってしまう。
「お昼寝もいいわね、祐巳」
クスクスと笑うと、嬉しそうに祐巳も微笑む。
「ええ、お姉さま」
悪戯心を起こした祥子は、祐巳の頭を優しく持つと、手元に引き寄せる。
「お姉さま?」
真っ赤になった祐巳の体温が上がるのが、頭に触れているだけでもわかる。
「暴れないの」
やや強引に、祐巳の頭を膝の上に置く。
「たまにはね、こういう事もしたくなるものなのよ」
祥子の言葉に、祐巳の抵抗が止まる。
「それとも、祐巳は私の膝枕が不満なのかしら?」
「そんな訳ありませんっ!」
思わず力の入った返事に、苦笑する祥子。
「だったら、おとなしくなさい」
祐巳の頭を膝に抱いたまま、祥子は椅子の背もたれに体重を預ける。
膝から伝わる祐巳の体温が心地よい。
「ふぁ…なんだか私まで…。祐巳の眠気がうつったのかしら?」
膝にかかっている重みが何となく愛おしい。
目を閉じて、膝の重みを全身で受け止める。膝から全身に広がる重みも、祐巳の存在の証だと思うだけで気分が違う。
心地よい重み、温もり。
寝息。
「?」
見下ろすと、祐巳が寝息を立てている。
さっきまであんなに真っ赤になっていたのに、この子ったら、もうおとなしくなっている。
くすくす。
自然と漏る笑い。
祥子は、祐巳の頭を一つ撫でるともう一度背もたれに持たれ直した。
祐巳の肩に手を置いて、その存在を確かめるようにして目を閉じる。
祥子は、同じ屋根の下にいる令と由乃の存在をつかの間忘れていた。
祥子、私たちの存在忘れてない?
令はうっとりと目を閉じている親友の姿に、心の中で苦笑する。
あんな風に祐巳ちゃんに膝枕なんかして。
うん、羨ましいよ、祥子。
祥子と祐巳ちゃんの姿に、自分と由乃をオーバーラップさせてしまうくらいに。
祐巳ちゃんは本当にいい子だよね。
………由乃の方が可愛いけれど…ごめんね、祐巳ちゃん。
だけど、膝枕は羨ましいな。
あれ?
ふと、令は由乃の視線に気付く。
視線を合わせようとすると、慌てて見てないふりをする由乃。その視線が、ちらちらと祥子と祐巳ちゃんの方に向く。
令は、すぐにその視線の意味を理解した。
他ならぬ由乃のこと。由乃のことなら、由乃以上によく知っている。今だって、多分由乃は自分では気付いていないに違いない。
だけど、直接それを由乃に告げてはいけない。
…由乃が膝枕をしてもらいたがっているだなんて。
とってもデリケートで我が侭なお姫さまだから。由乃の騎士である令としては、ここが工夫のしどころなのだ。
おほん、と咳払い。
「…なんだか、膝がおかしいみたい…。練習中に捻ったのかな?」
うん。我ながらうまい。
「なにか押さえておくもの、ないかな」
由乃がチラリとこちらを見た。
ほら、気にしてる。
令は勝ち誇りたい気持ちを抑えて、言葉を続ける。
「何かないかな…」
令ちゃんの馬鹿。
そんなにあからさまに祥子さまと祐巳さんのほうばかり見なくてもいいじゃない。バレバレよ、令ちゃんが祥子さまを羨ましいと思ってることくらい。
なによ。そりゃあ、私は祐巳さんみたいに可愛げはないけれど……。祐巳さんみたいに誰にでも好かれるタイプじゃないけれど…。あんなに愛嬌もないけれど…。
でも、令ちゃんのことが一番好きなのは祐巳さんじゃなくて私だもん。
令ちゃんだって、わかっている癖に……。
由乃がもう一度「令ちゃんの馬鹿」と心の中で呟いたとき、令が突然小さく咳払い。
「…なんだか、膝がおかしいみたい…。練習中に捻ったのかな
?」
何を言い出すのかと由乃が呆れていると、わざとらしく顔をしかめて、今度は膝の上に置くものが欲しいと言い出す始末。
…令ちゃん、もしかして、膝枕?
多分、というより、まず間違いなく、令は由乃が膝枕をしてもらいたがっていると思っているのだ。
そして、なんとかして由乃の頭を自分の膝の上に乗せようとしているのだろう。
…でも令ちゃん、それじゃあ、ただのお馬鹿さんだよ。
令はひたすら、膝の上に置くものを探している。
…本当に令ちゃんってば……
由乃がすとん、と頭を落とす。
令は待ってましたとでもいいたげに頭を支えて膝に置く。
「何よ。令ちゃん。人の頭の下に勝手に膝なんて置かないでよ」
「…それじゃあ、どかした方がいいのかな?」
「…いいわよ。令ちゃんがそれでいいなら、私だってもう動きたくないし」
つーん、とした顔でそっぽを向こうとするけれど、やっぱりそこは令の膝の上なわけで。目の前にお腹があると、どうしても恥ずかしくて寝返ってしまう。
「じゃあ、私はこのまま我慢するよ」
「私だって、このまま我慢してる」
令の手が由乃の頬に触れても、由乃は何も言わない。
頬の柔らかさを確かめるように手のひらで触れると、そのまま令は祥子と同じように背もたれに身体を預ける。
重みと温もりの心地よさ。これだけは、絶対に譲れない。
祥子の感じる祐巳ちゃんの温もりよりも、今感じている由乃の暖かみの方が、絶対に心地よい。それだけは、例え祥子や祐巳ちゃんが相手でも譲れない。
だって、由乃が一番だから。
卑怯なんだ。
由乃はまどろみながら脳裏で愚痴る。
令ちゃんの膝の上の気持ちよさ。口げんかも何かも、すぐに忘れてしまいたくなる。なんて卑怯な膝。
だけど、令ちゃんの膝枕だから。
祐巳さんも味わえない、最高の膝枕。
きっと、祥子さまよりも、もっともっと、もーーっと心地いい膝枕。
しょうがないな……許してあげるよ…大好きな令ちゃん。
「あら?」
志摩子さんが、扉を開ける手を途中で止める。
「どうしたの? 志摩子さん?」
志摩子さんは、人差し指を唇に当てて「静かに」という仕草をしてから、部屋の中を手のひらで示す。
言われたとおり静かに覗いてみる乃梨子。
令さまと祥子さまがそれぞれ妹〜由乃さま、祐巳さま〜に膝枕をしながらうたた寝をしている。
乃梨子は首だけで振り向くと、にっこり笑って人差し指を唇に当て、頷く。
そして二人は、足音を立てないように静かに、薔薇の館を後にしたのだった。