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もういらない?
 
1「金魚」
 
 それはもはや、リリアンの昼休みの名物になりつつあった。
 二人が時間をずらして通るたびに皆はひそひそと目配せを交わし、肘でつつき合っては注意を促す。
 けれどもそれは悪意ではなくて、何か微笑ましいものを見るような、例えば、街中の川に何故か現れて愛嬌を振りまくアザラシや、急に立ち上がってトコトコ歩き出したレッサーパンダを見かけたような雰囲気。
 アザラシやレッサーパンダにもそれぞれの事情はあるのだろうけれど、とりあえず人間の目から見たそれらは可愛らしく見えている。
 その意味で、この二人にも色々と事情はあるのだろうけれど。
 それでもやっぱり周囲からは微笑ましく見えているわけで。
 蔦子と笙子が再会してから二週間。その二週間で二人の姿はもはや、セットとして皆に覚えられてしまっていた。
 
 蔦子はいつものようにカメラを持って校内を散策している。
 その後ろを少し離れてついていくのが笙子。
 蔦子は特に笙子を気にする様子はなく、笙子も蔦子についていくだけで満足そうにしている。
 生徒達曰く、
「アヒルの親子」
「雌鳥とひよこ」
「親猫子猫」
 口が悪いのになると、
「金魚と金魚の糞」
 特に悪口として言われている言葉でもないので、笙子の耳にもそれらの言葉は入ってくる。
 アヒルの子供やひよこ、子猫は可愛くていいのだけれど、金魚の糞はちょっと嫌だなぁ、と笙子は思っていた。
 だけど、意味を考えると的確だなぁと認めざるを得ないわけで。
 とにかく、笙子は蔦子についていく毎日が今のところ楽しかった。
 でも、自分だけが楽しくていいのか? とある日ふと思った。
 つきまとわれているような形になっている蔦子さまはどう思っているんだろう。
「別に嫌じゃないわよ」
 そうは言ってくれるのだけれど。
 やっぱり、喜んで欲しいとは思う。
 
 何をすればいいんだろう?
 笙子の素朴な疑問。
 自分は、蔦子さまに何ができるだろう。
 何をしたいの? と自分に問うてみても、何かしたいの、としか答えられない。
 友達に聞いてみたところで、高校一年生同士だから、あまり役に立つアドバイスは出てこない。
 蔦子さまを追いかけて入部した写真部でも、部員達の言葉は似たようなもの。
「蔦子さんは、よく言えば孤高、悪く言えば近寄りがたい…ううん、別に愛想が悪いとかそう言う意味じゃなくて、なんとなく、一人でいるのが彼女の性に合っているんじゃないかって気がするのよね」
「一人で?」
 その先輩は頷くと、笙子の心を知ってか知らずかこう続けた。
「だから、多分、蔦子さんは姉も妹も作る気がないと思うの。その気になれば、部長のロザリオを受けることもできたと思うんだけど」
 部活の繋がりで妹になって、そのまま次期部長へというケースは少なくない。
「そうなんですか」
「そう。それで前に、蔦子さんの妹になりたがった子がいてね。まあその子は、蔦子さんの妹と言うよりも、有名人の妹になりたかったようなのよね。助手にしてくれってつきまとっていたのよ。そうしたらある日、蔦子さんがその子捕まえて言ったの」
 息を呑む笙子。
 二年生は勿体をつけて一息入れると、ニヤリと笑って言った。
「『助手はもういらない。助手ごっこはもうおしまい』ってね。その子はビックリして逃げていったわ」
 ほおっ、と息をつく笙子にイタズラっぽく笑いかけると、二年生は手を振ってその場を去る。
「それじゃあ、後はよろしくね、蔦子さん」
 驚いて振り向くと、蔦子さんが立っている。
「なに? 人の噂話?」
 蔦子さんの目もイタズラっぽく輝いている。
「えーと、蔦子さまの、昔の武勇伝です」
「武勇伝?」
 わざとらしく目を剥く蔦子さんの姿に、笙子は思わず笑っていた。
「笑い顔一枚、もーらい」
 シャッター音。
「あ、いきなり…」
「笙子ちゃん、最近カメラにも平気になってきたんじゃない?」
「蔦子さまのカメラだけですっ」
 もお、と笑いながら怒ってみせる。
 笙子はすっかり、最初の質問を忘れていた。
 
「お姉ちゃん?」
 そんなこんなのある日の夜、試しに姉に聞いてみる。
 姉がこんなことに詳しくないのだろうということはちゃんとわかっているのだけれど、だけど姉はリリアンで高校生活を送ったのだから。
「なに?」
 大学生になっても、姉の克美に大きな変化はない。ただ、制服に袖を通さずに、朝、家を出るようになっただけ。そもそも一つ屋根の下で暮らしている相手が急に変化することなんてないのだろうけれど、高校生が無事大学生になったのだから、なにがしかの変化はあってもいいではないか、と笙子は思う。
 確かに変化はあった、克美との距離は以前に比べてかなり縮まったような気が笙子にはしていた。だけどそれは大学生になったこととはなんの関係もない。ただ、バレンタインの日のちょっとした、姉妹揃ってやってしまったバカなことの結果。
「上級生って、何をしたら喜んでくれるのかな?」
 机に向かって本を読んでいた克美が、ギョッとした顔で笙子を見た。
「笙子、あんたまさか、誰かのスールになったの?」
 慌てて首を振る笙子。
「ううん、まだ…」
 言ってから自分の失言に気付いて口に手をやるけれども、時に既に遅し。
「まだ…って……。申し込まれそうなの? それとも、笙子が勝手に想っているだけなの?」
「それは…」
 どっちなんだろう。自分でもよくわからない。
 蔦子さまは、ロザリオを私にくれるんだろうか? それとも、他に誰かいるのか。それとも、やっぱり一人が好きなのか。
 そんな話はしたことがない。
「わからないわよ」
「わからないってあんた……」
 克美は本を置くと、改めて笙子に向き直る。
「相手はどういう人なのよ」
「どういう人って…」
 なんて言えばいいのだろう。
 蔦子さまは……写真が大好きで、クラスメートや他の生徒を隠し撮りして喜んでいる人。
 駄目だ。これじゃあただの危ない人だ。
 だけど優しくて、思いやりがあって、笙子のことをわかってくれて、凛々しくて、格好良くて、聡明で、才色兼備な人。
「あ、あのね…」
 でも、どんな説明をしても違うような気がする。
 蔦子さまは蔦子さま、それ以外の誰でもない。どんな言葉をどれほど費やしても、それは違う人になってしまうような気がする。
 言いあぐねる笙子を、克美は不審の眼差しで見つめる。
「ちょっと、まさか貴方、黄薔薇のつぼみなんて言わないでしょうね?」
「え?」と笙子は目をパチクリ。
 ああ、そういえば、姉は由乃さまのお姉さまのお姉さま、元黄薔薇さまの鳥居江利子さまと同級生だったんだな、と思い出す。
「ううん。それは違うけれど」
 確かに、それも最初は考えていたのだけれど、というか、山百合会に参加しようと思ったら、空いている席は由乃さまか祐巳さまの妹しかなかったのだけれど。
 でも、違う。由乃さまの妹ではない。
 そういえば、姉には茶話会に参加したことをまだ話していない。茶話会の席では姉の話題も出たというのに。
 今となっては、山百合会に接近したという事実がなんだか恥ずかしい。別に変な自意識やそういう問題ではないのだけれど、蔦子さまと出会ってからの自分を思うと、その時の自分が何となく恥ずかしく思えてくるのだ。
「あ、山百合会の人じゃないの」
 黄薔薇と来れば、次は紅薔薇白薔薇。実際は白薔薇のつぼみは同じ一年の乃梨子さんだから、その妹になるなんてあり得ないのだけれど、姉がそんなことを知っているとも思えない。
「ふーん。クラブの先輩? そういえば写真部に入ったって言ってたわよね」
 写真。そうだ。あの写真。
「ちょっと待ってね、お姉ちゃん」
 すぐに部屋に戻ると、ベッドのヘッドボードの上に常時飾っている写真立てを手に取る。
「お姉ちゃん、これを見てよ」
「どうしたのよ、慌てて」
 笙子の差し出した写真立てに目を留める克美。
「…嘘」
 驚いたようにぽかんと開く口。
「これ、笙子なの? こんな写真うつりのいい笙子なんて初めて見たわ」
「私だって、こんなに優しい顔のお姉ちゃんなんて、滅多に見たことないよ」
 言われて初めて、克美はそこに写っているのがバレンタインの時の自分と笙子であることに気付いたようだった。
「え? これって、バレンタインの時の…?」
「こんな素敵な写真を撮る人を、私はどうやって喜ばせることができると思う?」
 克美は驚いた表情を戻そうともせず、笙子と写真を交互に見比べる。
 やがてその顔に、少しずつ理解の色が…。
「…まさか…あんたの言う上級生って…武嶋蔦子さん?」
「あ、やっぱりお姉ちゃんでも知ってる。蔦子さんって有名人なんだ」
「有名人って…ああいうのは悪名って言うのよ」
 言葉はきついけれど、克美の口調に刺はない。現にこんないい写真を見せられてしまえば、撮った人間に悪意を覚えることはできない。
「だけどあの子は、確か…誰にもロザリオをもらわない、誰にもロザリオを渡さない、そういうタイプの人だと思っていたけれど…」
 そこまで言って克美は、笙子の視線に込められた非難に気付いて苦笑する。
「私がそんなことに詳しくないのはわかってるわよ。だから今のは、気にしなくていいわ。蔦子さんに関しては、私よりあんたの方が詳しいんだろうしね。それよりこの写真、私にも焼き増しもらえないかしら?」
「うん。それは大丈夫だと思う。写っている人が頼むのなら、蔦子さんは焼き増してくれると思うから」
「じゃあ、お願い」
「わかった。明日にでも話してみるね」
 写真立てを姉の手から取り戻すと、笙子は何事もなかったかのように部屋へ戻っていく。
 まるで、写真立てを見せることだけが最初の目的だったかのように。
 克美は、「最初の疑問はどこに行ったのよ」と聞こうとしてやめた。きっと笙子の中で何かが消化されたのだろうから。
「それにしても…」
 克美は、読んでいた本の続きを読む気にもなれず、椅子から降りるとベッドの上に身を投げ出した。
「……笙子が…私以外を姉って呼ぶようになるんだ」
 リリアンに入った日からわかっていたことだけど。
 自分と違って笙子は人当たりもいいし、きっとモテるだろうとは思っていたけれど。
「……スールだもんね」
 わかっていたけれど。
 わかっているけれど。
 なんだか腹立たしい。
 そして、ちょっぴり心配。
「武嶋蔦子か…」
 克美は突然身を起こすと、部屋から出て台所の横の電話へと向かう。
「もしもし。夜分失礼します。内藤と申しますが……」
 
 
 定番というか、工夫がない。オーソドックスは知性の墓場だというのは誰の言葉だっただろうか。
 それでも定番というのは大多数の支持があってこそ成立するものだから。そもそも多くが嫌がるような定番というのは矛盾しているだろう。
 でもとりあえずこれでいい。
 お昼休みまで待って、二年松組へ。
「ごきげんよう、蔦子さま」
「ごきげんよう、笙子ちゃん」
 なんだか様子がおかしい。
 いつもは毅然とした凛々しい姿に見えるのだけれども、今日は何故か冷たく見える。これは、笙子の知っている蔦子さまじゃない。
「あの、蔦子さま…」
 お弁当、と言いかけた笙子の言葉が途切れる。
「あのね、笙子ちゃん。ちょっと来てくれるかな」
 蔦子さまに導かれるまま、笙子は廊下に出る。
 校舎の隅、使っていない特別教室の前、お昼休みには誰もいない場所。
「あの…蔦子さま?」
 笙子は、両肩に蔦子さまの手が置かれるのを感じていた。
「笙子ちゃん、今まで誤魔化していたけれど、今日こそハッキリ言うわ」
「はい?」
 なんだろう。こんな口調の蔦子さまは初めて。
「金魚の糞は、もういらないの」
「え?」
「だからね、金魚の糞はもうおしまいなの」
 笙子の初めて見る表情で、蔦子さまは静かにそう告げた。
 何故か視界がぼやけた。
 ぼやけた視界の向こうで、慌てた蔦子さまが肩を掴んでいた手を離す。
「笙子ちゃん?」
「ごめんなさい!」
 我知らずのうちに、笙子はそう叫んでいた。
 ぼやけた視界の中で、蔦子さまの姿が右へと流れる。いや、笙子が振り向いていた。
「笙子ちゃん?」
「ごめんなさい!」
 他に答える言葉はなかった。
 今、蔦子さまに向ける言葉は他にない。
 金魚の糞はもうおしまい。これでおしまい。
 姉の言葉をと部の先輩の言葉を思い出す。
「助手はもういらない。助手ごっこはもうおしまい」
「誰のロザリオももらわない、誰にもロザリオを渡さない」
 そうだった。そうだったんだ。
 背後から呼び止める蔦子さまの声も無視して、笙子はその場を後にした。
 気がつくと中庭の裏手。古ぼけたベンチと、欠けた植木鉢の並べられたところにたどり着く。
 裏手とはいえ昼休み。人はぽつりぽつりといる。
 ふと、笙子はそれを見つけた。
 小さな物置と校舎の壁との隙間には、ちょうど人が入れるほどの隙間があって、その奥にはベンチが置かれている。奥まった場所にある癖に、吹き抜けのようになっていて日当たりは悪くない。隙間の入り口さえ何とかすれば、外側からは誰がいるかわからないだろう。
 隠れ家…そんな言葉がしっくり来るよう秘密めいた空間。
 吸い寄せられるように、笙子はふらふらとその隙間に入り、ベンチに座った。
 顔を上げると、何人かがこちらを見ていた。入り口から中が見えるのは仕方がない。まさかドアなどがついてるわけもないし、見ないでくれという権利もない。
 笙子はなんとか外側からは見えないように、身体をねじ曲げるようにして顔を背けた。
 涙が出そう。
 思い出すだけでこみ上げてくる。
 ひーん、と声を上げて泣きたくなってくる。
 勘違いしていた。自分はまとわりつきすぎたのだ。嫌われてしまった。
「蔦子さん……」
 こんなところで泣き出せば、外側にいる他の生徒達が気付くだろう。声を殺しても、ここに座っている笙子の姿はハッキリと見える。
 気配がした。
 少し顔を上げると、隙間の入り口に誰かが立っている。
 この位置からでは逆光になって顔は見えないが長身。そのおかげで、笙子の姿は外側からは誰にも見えない。
「あ…」
「私はここに勝手に立っているだけだから」
 そう言うと、笙子に背中を向ける影。
「大丈夫。こう見えても口は堅いつもりよ」
 笙子は泣いた。誰だかわからないけれど、影の人に心の中で頭を下げて。
 
 昼休みが終わってしまう前に、笙子は泣きやんだ。
「ありがとう…」
「気にしないで。そこはそういう場所だから。だけど昼休みは駄目よ、人が多くてすぐ見つかってしまうから。放課後だと誰もいないのだけれどね。特に天気のいい日は、皆、外でお弁当を食べようとするから」
 お弁当、そう言われて笙子は思い出した。蔦子さまのために作ったお弁当を握りしめたままなのだ。
 それに、自分の分のお弁当もまだ持っている。
 見ると、長身の生徒の手には、パンの袋。
「お昼、まだなんですか?」
「ええ、ここで食べるつもりだったのだけれど」
「良かったら、一緒に食べませんか」
「いいの? それ、誰かのために作ったのではないの?」
 笙子は寂しく笑う。
「もう、いいんです。私一人じゃ食べきれないし」
「そう、それじゃあ、少し奥に詰めてくれる? 私もそこに座るから」
 言われたとおり少し奥に詰めて、相手を迎えようとする。そこでようやく、笙子は挨拶すらしていないことに気付いた。
「ごきげんよう。私、一年桃組の内藤笙子です」
「ごきげんよう。私は…」
 そこで笙子は初めてハッキリと相手の顔を見た。知っている顔だった。
 一年の間では有名な人。
「一年椿組の細川可南子よ」
 
 
 
なかがき
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