もういらない?
2「忠告」
蔦子は閉口していた。
笙子にではない。
それなら、直接言えば済む。
笙子が昼休みと放課後につきまとうのは別に迷惑ではない。それよりも、正直に言ってしまえば心地よい。
人にまとわりつかれるのがこんなに心地よいことだということに、蔦子は困惑していた。
そして、そんな自分たちを見る周りの視線にも。
「蔦子さん、新しい渾名ができたって知ってた?」
真美がニコニコとやってくる。今の新聞部と写真部は、いや、山口真美と武嶋蔦子は二人揃って恐怖の取材コンビとして、リリアンでは勇名を馳せている。
真美のメモと蔦子のカメラは、時には不届き者を糾弾する刃として、時には真面目な人をスッ転ばせるバナナの皮として、見事に機能しているのだ。
さらに同じクラス、と言うこともあって真美と蔦子は結構一緒にいることが多い。
普段ならここに祐巳と由乃も加わるのだが、生憎今は二人は山百合会の用事の真っ最中。
「新しい渾名?」
渾名と言えば、カメラちゃん。
「金魚」
「金魚?」
咄嗟に聞き直してから、蔦子は渾名の由来にすぐに思い至った。
「あ…もしかして、金魚の糞?」
「そ。いつも笙子ちゃんくっつけて歩いているから」
クスクスと笑う真美。
「で、蔦子さんとしてはロザリオをあげてスールになるの? それとも、いつまでも金魚とその分身でいるの?」
「なによ、それ取材?」
「ううん、クラスメートとしての純粋な好奇心」
そして一言、
「取材もちょっぴり」
「……今の状態も嫌いじゃないのよ」
「笙子ちゃんがつきまとうのが楽しい?」
「ええ」
「笙子ちゃんがじゃれてくるのが楽しい?」
「そんな、じゃれついてなんて来ないわよ」
「ものの例え、ものの例え。字面通りとらないで。でも…」
真美が心底おかしそうにニッコリと笑う。
「今の言い方だと、じゃれついて欲しそうよね」
「違うわよ!」
やや頬を染めて否定する蔦子に、真美の笑みがさらに深まる。この辺り、どことなくお姉さま譲りの真美だった。
「難攻不落の武嶋蔦子さんも落ちる時が来たのね」
「難攻不落?」
「お姉さまに聞いたのだけれど、蔦子さんって結構狙われていたらしいのよ。でも蔦子さんはクールすぎて、自分が狙われていたことにも気付いていないわ」
「知らないわよ、そんなの。肝心の相手に言い出すこともできないような人の妹になんかなりたくもないわよ。勿論、私が多少名が知られているって事を理由に妹になりたがる一年生もゴメンね」
「うん、それは私も同感。でも、意中の相手に何も言えないっていうのは今の蔦子さんも同じだと思うけど?」
う、と息を呑む蔦子。真美の言葉は確かに痛いところをついていた。
蔦子はハッキリした行動が好きだ。けれどその蔦子が、笙子に対しては煮え切らない態度を続けている。
自分らしくない、のは自分でもわかっている。けれども、今のままでいることが楽しいのもまた本当のことだから。
「笙子ちゃん可愛いから、狙っている二年生は少なくないわよ。今まではあまり目立ったことをしていないから知らなかったけれども、今じゃ山百合会を除けば学園一の有名人である武嶋蔦子さんと四六時中一緒にいるのだもの、目立っているわよ、彼女」
「真美さんは私に、とっととロザリオを渡して決めてしまえって言いたいわけだ」
「蔦子さんが、笙子ちゃんを取られてもいいのなら話は別だけれども?」
真美の質問は、相変わらず痛いところを突いてくる。
「それは卑怯な質問だと思う」
「今のが卑怯に聞こえるっていうことは、蔦子さんが笙子ちゃんを妹にしたいっていうことじゃないの?」
「う…」
「まさか、プロポーズの言葉に悩んでる?」
「プロポーズ!?」
もしかして遊ばれていないか? 蔦子は真美を軽く睨みつける。
「あははは。言葉の綾。ロザリオを渡す時の言葉のこと」
「…そんなの考えたこともないし、そもそももらった試しもないから」
「いいじゃない。素直に、金魚の糞呼ばわりはもう嫌だから正式にスールにしたいって言えば。ごちゃごちゃ言うより、ストレートにそういった方が蔦子さんらしいと思うわよ」
「うん…」
「こんなに煮え切らない蔦子さんも珍しい」
「うう…」
真美に言われるまでもなく、蔦子は自分でも持て余し気味なのだ、今の自分を。
「友達として忠告よ。ハッキリ言いなさい」
「どんな風に言えばいいのか…」
「それは笙子ちゃんが蔦子さんのことをどう思っているかによるわよね」
「そんなのわかるわけ…」
「笙子ちゃん曰く…」
真美は一冊の小さなノートを開く。
「蔦子さまは凛々しくて、聡明で…」
「なによ、それ!」
ノートに伸びてくる蔦子の手を避ける真美。
「日出実の取材ノートから写させてもらったのよ。笙子ちゃんに蔦子さんをどう思っているかインタビューしてみたんだって」
「…凛々しくって……」
「それが正しいかどうかは置いて、少なくとも笙子ちゃんにはそう見えているって事ね」
「あ、置いちゃうんだ」
「ふふふ。でも、蔦子さんは凛々しいか凛々しくないか、と言われれば、凛々しいと思うけれど」
「そうかしら?」
「写真に対する真摯な態度とかはね、充分凛々しいと思うわよ」
少し、蔦子は宙を仰いだ。
何かを考えている様子に、真美も何も言わずに待っている。
「…でも、だからって凛々しくロザリオを渡すってどういう事?」
どうやら想像してみた様子。
真美も首を傾げて考えてみる。
「凛々しい、とか聡明って言えば、やっぱり最初に思いつくのは薔薇さま方かしら?」
「黄薔薇さまと紅薔薇さまね…」
こういう話になると、自然と同学年の白薔薇さまは除外されてしまう。
「笙子ちゃんって、茶話会に来ていたわよね。ということは、山百合会の雰囲気は嫌いじゃないわけだ」
「それで?」
「紅薔薇さまや黄薔薇さまの真似をしてみたら?」
「薔薇さま方の真似なんて無理。逆立ちしたって無理よ」
「そう言わずに考えてみれば? たとえば黄薔薇さまは?」
「ミスターリリアンじゃないの。無理よ」
「じゃあ残るは紅薔薇さまだけど…ミスターリリアンよりは手本にしやすいんじゃない?」
「上っ面だけね」
「雰囲気雰囲気」
「無責任なこと言わないでよ」
「別に、祥子さまの真似をしろって事じゃなくて、お手本にしてみたら、ていう程度の事よ」
確かに、「真似」と「手本」は違う。手本にしてみようと言うのならば、確かに考えてみるのもいいかも知れない。
蔦子が冷静にそう考えたのは、家に戻ってからだった。
紅薔薇さま、といえば、被写体としての人気もピカイチ。自然と蔦子が見る機会も多い。
鏡の前で表情を作ってみる。
(凛々しいって…どんな感じなのかな?)
紅薔薇さまの普段の表情を思い出しながら、百面相。
なんとなく、こんな感じかなと思える表情を作ってみた。
あと、どんな言葉を選ぶか。
今までスールの問題を敢えて無視していたことは謝るべき事なのかも知れない。もしかしたら、笙子ちゃんは焦れていたのかも知れない。
金魚の糞なんて呼ばせない。その思いは確かだから。
もう誰にも笙子ちゃんを金魚の糞なんて呼ばせない。それだけは確かにしておきたいと思う。
金魚の糞なんて呼び名はいらない。
金魚の糞はもうおしまい。笙子ちゃんさえ構わないなら、きちんとロザリオを渡したい。
ロザリオの準備はまただけれども、想いだけは先に伝えたって構わないはずだった。
手の中で小さなカメラが転がっている。
これは、小学生の時初めて父親に買ってもらったオモチャのようなカメラ。今使っているカメラから考えると、本当に子供の玩具としか言えないようなちゃちで安いモノだ。だけど、これは蔦子にとってはライナスの毛布。
考え事がある時は、つい手に取ってしまう。
今使っているカメラよりも、大切な品。
蔦子は自分の中でそれなりの決意を固めるために、しばらく手の中でカメラを弄んでいた。
カメラの動きが止まる。
蔦子は畳んである布きれを一枚取り出して、カメラを手際よく、しかし丁寧に拭いた。そして、もと置いてあった棚の上に戻す。
「うん。決めた……、そうしよう」
いつもの調子なら、笙子が来るのはお昼休み。
休み時間ごとに、蔦子は何かをブツブツと呪文のように呟いている。
それをおかしそうに見ているのは真美。
「蔦子さん、練習?」
「あ…見てたの?」
「嫌でも目立つわよ。休み時間ごとに何事か呟いているなんて、危ない人かと思われるわよ」
「ひどい。真美さんの忠告に従っているのに」
ムーッと横目で睨む蔦子と、笑う真美。
「それじゃあ、決めたのね?」
「ええ。覚悟を決めたわ。このまま宙ぶらりんじゃ、お互いに良くないもの」
「うん。横で見てるとね、何となく歯がゆいのよ。他人事ながら」
「…まあ…急転直下で決まった真美さんの所とは違うと思うけれど」
「日出実は関係ないじゃない」
「真美さん、自分に妹ができたら、急に強気になったじゃない。やっぱり余裕ができるのね」
「ええ。次は祐巳さん由乃さんよ」
「仲人大好きなおばちゃんみたいよ、真美さん…」
そしてお昼休み。蔦子の予想通りに笙子が姿を見せる。
「ごきげんよう、蔦子さま」
蔦子は、できる限りのきりっとした顔で応じる。
「ごきげんよう、笙子ちゃん」
真美は少し離れたところから面白そうに見ている。ふと、蔦子と目が合う。
蔦子は立ち上がると、笙子の手を取った。
「あのね、笙子ちゃん、ちょっと来てくれるかな」
忠告はありがたくちょうだいしたけれど、だからといって一部始終を見せつける気はないし観察されるのも御免だ。
校舎の隅、使われていない特別教室の前、ここならば真美が隠れるところはない。
「あの…蔦子さま?」
笙子は何故こんなとこに来たのかわからない。当然と言えば当然だが、蔦子はこのまま言ってしまうつもりになっていた。
「笙子ちゃん、今まで誤魔化していたけれど、今日こそハッキリ言うわ」
「はい?」
姉妹になるや否や、今まで敢えて口をつぐんでいたけれど、もうそれは止める。
金魚の糞なんて誰にも言わせない。
できるだけ、冷静な口調で。理知的に聞こえるように。
「金魚の糞はもういらないの」
「え?」
「だからね、金魚の糞はもうおしまいなの」
だから、もう、金魚の糞なんて呼ばれる必要はないの。
笙子の目が潤み始めたのを見て、蔦子も息を呑んだ。
(…こんなに感動してくれるの?)
(…ああ、どうしてもっと早く言ってあげることができなかったんだろう)
けれど、いつまでも浸っている場合じゃない。
「笙子ちゃん?」
「ごめんなさい!」
笙子の言葉に、蔦子は別の意味で息を呑む。
何故笙子ちゃんが謝るの?
「笙子ちゃん?」
「ごめんなさい!」
突然、振り向くと走り始める笙子。
「笙子ちゃん!」
三度目の呼びかけも虚しく、笙子は走り去っていく。
「どうして!」
理由がわかれば、すぐに追いかけることもできたかも知れない。けれど、蔦子には笙子が走り去る理由がわからなかった。呼び止めるべき言葉も見つからない。
有り体に言えば、驚きが先に立って何もできない状態だったのだ。
追いかけることもできず、混乱した頭で蔦子は今のやりとりを脳裏で再開していた。
……。
…もし、笙子ちゃんが今の言葉を全て語義通りに受け取っていたら?
蔦子は、今の言葉の後に「だからきちんとした姉妹の関係を気付きたい」と言う意味を繋げるつもりだった。
けれども、笙子がそれに気付かなかったら。今のはただの、相手を拒否する言葉になってしまう。
「蔦子さん?」
驚いた顔で真美が姿を見せた。
「今、走っていく笙子さんと擦れ違ったけれど…」
蔦子は忠告をくれた相手を見た。
責任転嫁だとはわかっているけれど、今この瞬間、真美の顔を見るのは辛かった。
忠告が間違っていたとしても、それをまともに推敲もせず、馬鹿正直に採用したのは自分なのだ。
アドバイスが裏目に出たとしても、相手を恨むのは筋違い以外の何者でもない。
でも、蔦子は今起こったことを正確に、そして自分の推測も交えて語っていた。
「あ…」
さすがに真美にも、どこが誤っていたかはすぐにわかったようだった。
「蔦子さん…」
「真美さんのせいじゃないのはわかっている。でもゴメン…。しばらくは一人にして」