もういらない?
3「翌日」
「結構、自信作なのよ」
笙子の差し出したおかずを、可南子は受け取ろうとして一瞬戸惑う。
パンのつもりだったので、受け皿どころか箸もない。
「あ、ごめんなさい」
笙子はお弁当の蓋におかずを載せると、新しい割り箸を一膳取り出した。
「はい。どうぞ」
「それじゃあ、遠慮無く…」
可南子は卵焼きを口に運んだ。
「どう?」
「うん。美味しい」
「よかった。せっかく作ったお弁当、無駄にするなんて勿体ないもの」
「でも、本当に私が食べてもいいの?」
可南子はもう一度念を押した。
「いいんです。もう、あげる相手がいないし、それに可南子さんにお礼したいし」
「お礼なんて…ただ、壁になってみただけよ」
「それが嬉しかったの」
「誰だって、見られたくない瞬間はあるわよ。それだけのことじゃない」
笙子は自分の分の玉子焼きを口に運んだ。
「だったら私は運が良かったのよ。その瞬間に、可南子さんがいてくれたんだから」
「ごめんなさい」
今の真美には他の言葉はなかった。
「いいから」
蔦子は笑っていった。その笑いがどこか空々しいと真美は感じていたとしても、あながち間違いではあるまい。
「でも、…そうだ、私が笙子ちゃんに説明するわ、誤解だって」
「もういいって言ってるのよ!」
声を荒げる蔦子に、真美は凍ったように立ち止まる。
「…蔦子さん…」
「ごめん、真美さん。でも、もういいの。笙子ちゃんをここまで引きずった私が悪かったのよ。やっぱり私は妹なんて持つべきじゃない。そんな資格なんてないもの」
ニッコリと、けれども痛々しい笑いを貼りつかせ、蔦子はその場を去ろうとした。
「私のせいなのよ…蔦子さん」
「そんなことありません」
冷たい声に、今度は蔦子が立ち止まる。
いつの間にか、真美の後ろに立っている一年生。
高知日出実、真美の妹だ。
「お姉さまのせいなわけ、ありません」
「日出実?」
うろたえる真美。
「今さらそんなことを言うのなら、せめて茶話会の日に、いいえ、その翌日にでも翌々日にでも、早い内にロザリオを渡していれば良かったんです」
「日出実!」
「それを出来もしなかったのに、今頃になってそんなこと言って…自業自得じゃないんですか?」
「日出実っ!」
怒り、というより脅えに近い表情で妹に向かう真美を、蔦子が止める。
「いいのよ、真美さん。日出実ちゃんの言うこと、いちいちその通りだもの」
「でもっ」
「自業自得。その通りよ。私が自分で撒いた種、ましてや、真美さんのせいなんかでは決してないわ」
淡々と告げる蔦子の言葉に、真美はいたたまれず日出実に目をやる。
「日出実、貴方、言っていいことと悪いことがあるわよ」
「私はただ…」
日出実は真美の言葉に狼狽していた。
「お姉さまが責められているのを見ると…」
「いいんじゃないの?」
第三者の声に、三人の視線が集まった。
「真美、ちょっと勘違いしてるわよ。日出実ちゃんは蔦子さんを誹っている訳じゃないわ。ただ、最愛のお姉さまを庇っているだけの事よ」
「お姉さま?」
ハーイ、と手をあげながら三奈子が姿を現していた。
「姉妹なんて、そんな物じゃない。理不尽、非論理、無理、不条理、無茶、ぜーんぶ飲み込んで、それでもお姉さまを庇ってしまう。それでいいんじゃない?」
日出実が頬を染めて俯いた。
「それでも、図星だからってそう簡単に照れ始めちゃまだまだ青いわよ、日出実ちゃん」
いひひひひ、とワザとらしく笑うと、もう一度真美に向き直る。
「真美だって、一体どれだけ私のフォローしてくれたかしら?」
「あ、あれは、新聞部として…」
フッと鼻で笑い、肩をすくめる三奈子。
「まあ、図星を指されると慌てる所は日出実ちゃんとそっくり。ロザリオ渡して半年も経たないのにそんなに似たもの姉妹なんて…三奈子、妬けちゃう」
呆気にとられる三人。それでも一番慣れている真美がやはり一番早く立ち直り、
「な、何しに来たんですか! お姉さま」
「別に、真美にも日出実ちゃんにも用事はないのよ。私が用事があるのは…」
再び手をあげて、至近距離の蔦子に挨拶。
「カメラちゃん、元気してる?」
あまりと言えばあまりの挨拶に、却って毒気を抜かれた表情の蔦子。
「あ、あの…はい、ごきげんよう」
「貴方に報告しておきたいことがあってね」
「報告?」
「そう、報告」
そして三奈子は話し始めた。
昨夜、三奈子の元にかかってきた電話………
「ごきげんよう。三奈子」
「ごきげんよう…って、あれ? どうしたんですか? 部長」
「あのね…部長って、私は単なる元部長よ」
「あ、そうですね、それじゃあお姉さま。ところで、どうしたんですか? 私に電話なんて…」
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「はあ」
「覚えているかしら、私のクラスメートだった人だけれども…内藤克美さん」
「内藤……克美……」
頭の中のファイルを手繰るとすぐに出てきた。
「ああ、ロサ・フェティ…先代黄薔薇さま鳥居江利子さまのライヴァル、内藤克美さまですね?」
「……ライヴァルなんて形容していたのはリリアン広しといえでも三奈子だけよ」
「えー。でもその方が面白いじゃないですか。ワクワクして」
「……貴方、本当に変わってないわね。真美ちゃんが苦労してそうな気がするわ」
「そんなことありません。真美はいつも私がお姉さまで良かったって」
「溜息混じりの諦め口調で言ってるのよね?」
「はいっ」
しばらく哄笑の二人。
「それで、本題に入るけれど?」
「…内藤克美さまということは、もしかして、武嶋蔦子さんの身辺調査依頼とか?」
「あら、さすがね。編集長の座は譲ってもアンテナは畳んでいないのね」
「勿論です」
「それで、どうなの?」
「武嶋蔦子さん、私は大嫌いです」
「あら。そういう人なの?」
「自分ルールに合わない相手は、上級生であろうと平気で切り捨てる子ですよ。新聞部も一度煮え湯を飲まされています。覚えていませんか? 紅薔薇のつぼみ事件」
「福沢祐巳…だったかしら?」
「ええ。あの時突撃取材を見事に妨害してくれましたのは、武嶋蔦子ですわ」
「…ナツメさんの事件ね。それで嫌いなの?」
「それだけではありませんけれどね。どうも馬が合わないと言うかタイミングが悪いというか…」
「そう。三奈子は武嶋蔦子が嫌いと。それで人物は?」
「…私は武嶋蔦子が嫌いです。けれども、真美に何かあって、どうしても二年生の力を借りなければならないのなら、私は真っ先にあの子に頼むと思います。他の誰にでもなく」
「ん、それだけ聞けば充分よ。克美さんには私から言っておくわ」
と、そこまで話して、三奈子は蔦子の顔をじっと見た。
「武嶋蔦子さん。貴方は自分の撮った写真には最後まで責任を持つのよね?」
「当たり前です」
反射的に答える蔦子。三奈子から聞かされた話に多少混乱気味だけれど、写真の話とあっては答えないわけにはいかない。
「どうして? そんなに自分の目に自信があるの?」
「当たり前です。私は、自分の目で見て、これだと思った物を写真に撮ります。それは…たまには失敗もあるかもしれません。けれども、私は自分の目を信じています。だから写真を撮り続けているんです」
「じゃあ信じなさいよ。笙子ちゃんを見ている自分の目を」
三奈子の手が蔦子の肩を掴む。
「貴方は写真に自信がある。その気持ちはわかる。私だって自分の記事には自信があるもの。だったら、写真を見る目で笙子ちゃんを見てあげなさいよ。貴方の見た笙子ちゃんは、貴方の妹になりたくない笙子ちゃんだったの? たった一言で壊れてしまうような、そんな脆い関係を築いていた笙子ちゃんだったの?」
「三奈子さま…」
どん、と突き放して、三奈子は自慢気に胸を反らした。
「私は記事を見る目で妹を見て、真美を選んだの。だから、私の自慢の妹よ」
そして手を伸ばし、笙子の走っていった方角を示す。
「さあ、行きなさい。カメラマンは被写体を追うものでしょう?」
「はいっ!」
うってかわって吹っ切れたような、明るい表情で走り始めた蔦子を見送る新聞部姉妹。
「お姉さま、じっと見てたんですね」
そう。状況を把握していたということは、最初からどこかで見ていたことになる。
「電話が気になってね、朝から笙子ちゃんを見張っていたのよ」
悪びれる様子もなく、三奈子は素直に答えた。真美は溜息をつき、
「それに…記事を見る目で私を選んだって…お姉さま、捏造記事ばかりじゃないですか…、なんか複雑なんですけれど」
「私は私の記事が好きよ? 真美と同じくらいに」
う、と言葉に詰まり、真美は頬を真っ赤に染める。
その横では、日出実が恨めしそうに三奈子と真美を見比べていた。
玉子焼きは良かったけれど、焼き魚は失敗だった。
「……味付けが……」
え、と慌てて食べる笙子。その表情が変わる。
「う……これは失敗作です…」
「…そうね、多分…」
可南子は味付けの失敗した原因を推測して語る。
「どうしてわかるの?」
思い当たる節があったのか、笙子は目を瞠っていた。
「料理には慣れているから」
「ふーん。よくお料理してるんだ」
「ウチは母一人で働いているから、自分の食べる物は自分で作らないとね」
「あ、ごめんなさい」
「謝るような事じゃないわ。父も母も別れて不幸になった訳じゃないもの。却って別れて幸福になったかも…あ、私だって別に不幸って訳じゃないわよ。少し前までは勝手に勘違いしていたけれどね」
話題が家族のことに移り、笙子はつい姉のことを話していた。
そしてそのまま、笙子はこの昼休みに起こったことを洗いざらい話してしまう。
「もう一度、蔦子さまと話してみたら?」
「でも…」
「私みたいに勘違いで恨んだり悲しんだりするのは馬鹿馬鹿しいわよ?」
「可南子さん、何かあったの?」
「楽しい話じゃないわ。だけど、きちんと話をせずに勝手に誤解し続けるほど馬鹿馬鹿しいことはない、それだけは骨身に染みたの。だから、例え誰が相手でも私はきちんと話をしたいと思う。それに…」
笙子は考えていた顔を上げる。可南子が微笑んでいた。
「蔦子さまは、祐巳さまのお友達よ。それだけで信頼に値するんだから」
「可南子さん…。祐巳さまのことそんなに信じているの?」
「ええ」
「どうしてそんなに信用できるの?」
「祐巳さまを見ていた自分を疑いたくないから」
「え?」
「祐巳さまに心酔していた自分を裏切りたくない。盲信していた自分は馬鹿だと思うけれど、盲信と信頼は違うものでしょう?」
可南子は割り箸を袋に戻すと、パンの袋と一緒にきれいに折り畳んでポケットに入れる。
「笙子さんだって、蔦子さまのことを信じていたのでしょう? その時の自分の想いは嘘だったの? それとも、その想いすら捨てられるほど酷いことをされたの?」
笙子が答えに窮していると、午後の授業の予鈴が鳴り響いた。
「急ぎましょう。教室までは結構遠いわよ」
「いい人みたいね」
姉の突然の言葉に、笙子は首を傾げる。
結局、もう一度蔦子さまに会う決心が付かず、放課後になるとすぐに帰宅して、姉の姿を見た瞬間にこれだ。
「何の話?」
「武嶋蔦子さん」
「え?」
「三年の時のクラスメートが新聞部の元部長だったのよ。だからちょっと聞いてみたの。知っていれば儲けものぐらいのつもりだったけれど、さすが新聞部ね」
「あ…あの…」
嬉しそうな姉の様子に、笙子は二の句をためらう。
「どうしたの? あれ?」
涙を浮かべる妹に慌てる克美。
「ちょっと、笙子?」
「お姉ちゃん……私、馬鹿なことしちゃった……」
泣かせて、慰めて、涙を拭いて、ようやく話を聞き終えたところで、克美は笙子を抱きしめていた。
「御免ね。笙子」
「え?」
「笙子は私の身代わりだよね? 私ができなかったこと、やりたくてもできなかったこと、全部やってくれるんだ」
「お姉ちゃん?」
「いいじゃない。馬鹿なことでも。謝ればいいよ。謝って許してくれないような人なら、そんな人のスールになんてならなくてもいいよ。笙子なら、もっといいお姉さまが見つかるわよ」
笙子は無言で姉の胸に顔を埋めていた。
「もし笙子がふられたら、私がロザリオあげるから」
朝の通学路。
門をくぐって銀杏並木。そしてマリア像。
その人が立っていた。
いつものようにカメラをぶら下げて。
「ごきげんよう」
笙子は答える。
「ごきげんよう」
蔦子はゆっくりと、笙子に近づいた。
「笙子ちゃん。この前のお話の続き、いいかしら?」
「はい」
蔦子は一呼吸おいた。
「金魚の糞はもうおしまいなの」
頷く笙子。
「金魚の糞なんて誰にも言わせない。今日からは、武嶋蔦子のプティスールて言わせたいの」
当たり前のように、予期していたかのように、笙子は自然と答えていた。
「はい。お姉さま」