消えたモノ
まず最初に確認しておきたい。
私こと二条乃梨子は、ごくごく普通の女子高校生であり、決していわゆる性倒錯者などではない。ましてや、変態と呼ばれるべき性癖も持っていない。
どこかのノッポのように上級生をストーカーする趣味もなければ、どこかのドリルのように上級生の同性愛カップルを破局寸前まで追いつめる趣味もない。
ごくごく平凡な、極めて平均的な女子高生なのだ。
だから、これはあくまでも、偶然の事故。
決して、狙い通りに事が運んだというものではない。
絶対に、違うのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
乃梨子は、薔薇の館に教科書を起きっぱなしにしていることを思い出して、休み時間に急いで取りに行った。昨日、瞳子に問題の解法を教えていて忘れてしまったらしい。
薔薇さまとつぼみ、その妹はそれぞれ合い鍵を渡されているので出入りは自由にできる。
鍵を開けようとすると、鍵が開いていた。どうやら先客がいた様子。
乃梨子は、珍しいことにふと悪戯心を起こして、忍び足で階段を上がっていった。
扉の隙間から中を覗くと…
その瞬間、乃梨子は自分の目を疑った。
さらに、自らの正気、そして生を疑った。
もしかしたら、幻覚を見ているのかも知れない。
いや、こんな美しい幻覚がこの世に存在していいのか。
そうだ、これは天上の天使の姿に違いない。
乃梨子は確信に近い思いで呟いた。
…私は気付かない内に死んでしまったのだ。そしてリリアンの生徒として天国に召されたに違いない。
なぜなら乃梨子の視界には、一糸まとわぬ天使がいたから。
…志摩子さん……。
志摩子が水着に着替えている最中だった。
…どうして?
そんな疑問も湧かないくらい、乃梨子は扉の隙間から見える姿に釘付けになっていた。
勿論、乃梨子にその趣味はない。(多分)
ないが、志摩子の一糸まとわぬ姿というのはあまりにも芸術的だった。
…劣情を催すとかそう言う類の下世話なものじゃなくて。
…志摩子さんハァハァ…。
…いや、そうじゃなくて。
………
一人ツッコミ一人ボケ、とにかく乃梨子の頭の中がパニック状態に。
志摩子さんの水着姿。
乃梨子は、携帯を持ち歩かないことを生まれて初めて猛烈に後悔していた。
いや、正確には携帯ではないだろう。乃梨子が心底必要としていたのは、携帯に付属しているデジタルカメラ機能。
志摩子のヌードを撮るつもりだろうと言えば乃梨子は激怒しただろう。
そしてこう答える。
…そんなゲスの勘ぐりは止めて欲しい。私はただ、目前に美しいモノが現れたときに人間なら誰でもするであろう反応〜後世への記録を残したい〜という思いに駆られただけなの。
その代わり、乃梨子はその姿を脳裏に焼き付けた。
絶対に、何があっても、忘れないように。いつでも思い出せるように。
本人には、不純な目的は一切無い。
脳裏に呟く。
……美しいものが嫌いな人がいて?
…つまり、そういうこと。
水着を着た志摩子さんは、その上から制服を着ける。
…あ、そうか。志摩子さんのクラスは今日水泳があるんだ。きっと、直前の休み時間に用事があって着替える暇がないんだろう。だから、今の内に着替えて、制服を着ておくんだ。
着替え終わった志摩子は、乃梨子の隠れている扉に向かう。
乃梨子は慌てて離れ、別の場所に隠れる。
別に後ろめたいことがあった訳じゃない、と本人は思っているが、それでも何故か本能的に隠れてしまう。
…覗いていたのがばれても志摩子さんは許してくれると思うけれど。
…この顔はちょっと見られたくない。
…うん、だらしなく鼻血を垂らしている所なんて…。
乃梨子は志摩子の足音が去っていくのを待って、物陰から出る。
そして鼻にティッシュを詰めながら、部屋に入る。
…志摩子さんの匂い。
…あ、いや、そうじゃなくて。
…志摩子さんの香り。
…だから違うって。
…志摩子さんの馥郁たる…
…いや、だから…
…志摩子さんの芳しき…
…あ、駄目。思考が麻痺する。
…駄目。これ以上ここにいると、フリーズする。駄目になる。いや、もう充分駄目かも知れないけれど。
乃梨子は、延々と続く自己問答を繰り返しながら、残った理性を総動員して部屋から出ようとした。
出ようとした。
そう、出ようとした。
…何かが視界の隅に。
白いもの。
なんだか白い布きれのようなモノ。
…これは…
…まさか……いや、いくらなんでも……
…そんな…まさか……
…志摩子さんの………下着?
志摩子は、下着を床に落としたまま気付かずに出て行ってしまったらしい。
放っておく訳にもいかない。もし、このまま志摩子が気付かなかったら…。
もし、祐巳や由乃がやってきてこの下着を見つけたら…。
志摩子に恥をかかせるわけにはいかない。ここは、妹である乃梨子が完璧にフォローしなければならない。
そう、そうだ。
乃梨子は決意した。
とりあえず拾う。でも、これをどこに…。
ポケットに入れておいてもいいけれど、ハンカチを出したりする拍子に落としたら大変なことになる。それこそ、ここで見つかったときの騒ぎの比ではない。
絶対に落とさないところ……。
…いや、駄目だ。志摩子さんが気付かないわけがない、もし戻ってきて下着がないことに気付いたら……。
……………
そうだ、これしかない。
……………
約一時間後、ようやく正気に返った乃梨子は、心の中で青ざめていた。
…どうしよう………。
目の前では、先生が国語の文法を解説している。だけど、乃梨子の心は既にここにはない。それどころではないほど動揺しているのだ。
…どうして…
どうして自分は下着を履いているんだろう。
…志摩子さんの下着を。
乃梨子は薔薇の館で考えた。
志摩子さんが戻ってきたときのために、代わりの下着を置いておけばいい。そう、自分の下着を置いていけばいい。
…なんて馬鹿なことを…
志摩子さんの生着替えを目撃したことでテンションが制御できないほどに、異常に上がっていたのだ。
それで片づけていいのかという疑問が残るけれど、とりあえず乃梨子はそう結論づけた。
…これではまるで変態…。
…いや、違う。断じて違う。私、二条乃梨子は決して変態などではない…
…志摩子さんの下着が今、私の下半身に……
はふぅ、と思わず和んでしまう自分を慌てて引き留める乃梨子の理性。
和んでどうする。
でも、でも…この心地よさは一体。
下半身からわき上がる、微かな背徳感にも似たこの心地よさと罪悪感を伴った不思議な陶酔。
普通、それを変態という。
…違ーーーーーう!!!!!
セルフツッコミを断固否定しながら、乃梨子は立ち上がった。
「どうしたの、二条さん」
授業中に突然立ち上がった乃梨子に、教室中の注目が集まる。
「どうかしましたの? 乃梨子さん」
小さな声で囁く瞳子に、乃梨子は同じく小さく答える。
「…ちょ、ちょっと…」
静まりかえった教室で、乃梨子は素早く答えた。
「すいません。腹痛が…教室を出てもよろしいですか?」
腹痛でも、トイレに行きたいとは決して言わない。それが乙女の嗜み。先生も良くそれをわかっている。
「一人で大丈夫?」
本当に体調が悪くて保健室へ行くのなら付き添いが必要だというわけで、教師が聞くのは付き添いの不要必要だけ。
「はい、大丈夫です」
許可をもらい、席を外そうとする乃梨子に囁く瞳子。
「まさか、薔薇の館ですの?」
的中している瞳子の予想を無視すると、乃梨子はそそくさと教室を出た。
重大なことを思い出したのだ。
というか、正気に戻ったのだ。
下着を元通りにして置かなければならない。志摩子さんが気付く前に。
「……乃梨子…貴方、私の下着を持って行ってしまったの?」
「あの…志摩子さん…」
「私の下着が欲しかったの?」
「ごめんなさい…」
「はぁ…そうならそうと言ってくれれば」
「え?」
「乃梨子なら、構わないのよ」
「え!」
「乃梨子になら、いくらだって……」
スカートを持ち上げる志摩子。
「あ…あ…」
はふぅ。
とりあえず乃梨子は妄想を断ち切った。
…そんなわけがない。そんなわけがないじゃない。何を考えているの、乃梨子!
自分を叱咤しながら、そして妄想をしっかりと脳のメモリに刻みながら、薔薇の館の扉を開ける。
ない。
下着がない。
置いたはずの乃梨子の下着がない。
「え?」
テーブルの下を覗いてみても、下着はない。
確かに、ここにあるはず。ここで、乃梨子は下着を脱いで志摩子のものと交換したのだから。
何度見ても、ない。
志摩子さんは今が体育の授業中のはず。だからここに戻ってきているわけがない。つまり、第三者が持っていった。
一体誰が……。
乃梨子は考えた。そもそも、自分が最初にここに来て志摩子の着替えを見つけたのは、昨日の忘れ物を取りに来たためだ。
昨日の忘れ物…瞳子に勉強を教えて…
瞳子!?
瞳子も同じ理由でここに来ていたとしたら?
それが、乃梨子が館を出た直後だとしたら?
そう言えば、教室を出るときに瞳子は確かに言った。
「薔薇の館ですの?」
何故、瞳子がそれを察したのか。
それはただ単に乃梨子が山百合会の関係者だからなのだが、今の乃梨子にはそれが思いつけない。
「まさか瞳子…」
瞳子が下着を発見して持って行ってしまった……。
でも、何故?
何故、乃梨子の下着を瞳子が…。
まさか…。
一つの可能性に思い当たり慄然となる乃梨子。
そういえばリリアン入学当初、何かと乃梨子につきまとって世話をしようとしていたのは瞳子。
首を振る乃梨子。
い、いや、あり得ない。第一、あの直後に現れたのなら乃梨子が気付かないわけがない。確かに瞳子は足音を消して歩くのが得意だが、別に隠れて歩いているわけではない。
…隠れて歩く?
そう言えば、一人いた。隠れるのが、というか人をつけ回すのが異常にうまいクラスメートが。
細川可南子。
しかし、可南子が乃梨子をつけ回す理由は瞳子以上にない。
可南子が乃梨子の下着に用事のあるわけがない。それはどう曲解しても無理がある。
だが待て…。
そこにあったのが乃梨子の下着だと知っているのは乃梨子だけ。志摩子がそこで着替えていたことを知っている者にとっては、それは志摩子の下着に見えるだろう。
では、志摩子の下着を欲しがる者。
……自分
セルフツッコミを首を振って忘れながら、乃梨子は考えた。
美しい、リリアン一、いや、日本一、東洋一、世界一美しい志摩子さんのことだから、その下着を欲しがる者など枚挙にいとまがないだろう。
だが、薔薇の館にまで進入してくる大胆な者となればおのずと絞られてくる。
やはり、アレしかいない。
天使を誑かす大悪魔。
志摩子さんを騙している大罪人。
エロ薔薇さま。
白薔薇系列の汚点。
被害者多数の女たらし。
その名は佐藤聖。
そう、彼女ならば、いつここに来るのも自由だ。
リリアン女子大在籍、かつ元白薔薇さまの名を悪用して校舎内はフリーパス。高校の時間割に関係なく薔薇の館に出入りできる。
そのうえ、彼女のことだからプールの時間は把握済みに違いない。
決まった。犯人は彼女以外にない。
しかし、犯人がわかったところで今のところはどうしようもない。まさか今すぐ追いかけて大学まで行くわけにも行かないし、放課後は山百合会で集まることになっている。
…まあいいわ。どうせ聖さまが持っているのは私の下着。正真正銘志摩子さんの下着は私が持っている、というか穿いている!! 佐藤聖、恐るるに足らず!!
乃梨子は意気揚々と、薔薇の館を出て行った。
放課後…
乃梨子は志摩子の隣で書類をチェックしていた。
志摩子の様子に変わったところはない。しかし、乃梨子の知る限り、今の志摩子は下着無しの状態…。
その下着は今、乃梨子が……。
…今、志摩子さんの制服の下は………産まれたままの姿。
…その下着を付けているのは私……
誰が聞いても変態としか言わないような思考。本人だけがそうは思っていない。
妖しい思考を必死で押しとどめながら、乃梨子は書類のチェックを続けていた。
「あ」
ころん、と消しゴムが落ちる。
身体をかがめて拾う乃梨子。ふと顔を上げると、志摩子さんの腰が目の前にある。
志摩子さんの柳腰が目の前に。
制服の生地の向こうにあるのは、志摩子さんの生肌…
妖しい思考、大増発。
さらに抑えて、ひたすら抑えて乃梨子は消しゴムを手に取った。
でも目の前には志摩子さん。布一枚の向こうには志摩子さんの…
駄目だ。これではもう完全に変態だ。申し開きも立たない。言い訳もできない。
でも、目の前に志摩子さんがいる。その現実から気を逸らすこともできない。
悩んでいる間、身体の動きは止まっていた。
「どうかしたの? 乃梨子」
訝しげに尋ねる志摩子。それはそうだろう。落とした消しゴムを拾いに行ったと思っていたら、身体を屈めたまま動かない。
何があったのか疑問に思うのが当然だ。
志摩子は声をかけると、席を立ち上がろうして腰を捻った。
「あ、なんでも…」
ない、と言いかけて乃梨子は慌てて顔を上げようとした。
ぽむ
と、慌てて前のめりになった乃梨子の顔が志摩子に当たる。
それもちょうど、腰を捻った志摩子がこちらに背を向けたときに。
要は、お尻に。
時間が止まった。
驚いた志摩子は硬直し、乃梨子も動けない。
祐巳や由乃から見えているのは、志摩子のお尻に顔をくっつけた乃梨子の姿。
唖然呆然愕然必然。とにかく全員の注目が一カ所に集まった。
志摩子のお尻に。
「あ…」
「の、乃梨子ちゃん、大胆すぎるわ、それは…」
絶句する祐巳と、妙なことを口走る由乃。
「あ、あのね、由乃さん、祐巳さん…」
そう、苦笑して乃梨子を見下ろした志摩子までが絶句する。
ゆっくりと、崩れ落ちていく乃梨子。
そして、(鼻血の)血だまりの中に倒れていく。
「乃梨子ーーー!!」
「乃梨子ちゃんっ!?」
気絶した乃梨子が気がつくと、そこは薔薇の館に近い温室のベンチ。
乃梨子は、志摩子の膝枕で横になっている。
「あ、志摩子さん…」
「動いちゃ駄目よ、乃梨子。のぼせたみたいだから、じっとしていてね」
のぼせて鼻血を噴いたと思われたらしい。勿論、今さら違うとは言えない。まさか志摩子さんのあられもない姿を想像してしまったなんて言えるわけがない。
「あ、あの…」
「いいから、じっとしていてね」
ニッコリ微笑みながら、志摩子は乃梨子の額を抑える。
後頭部に伝わる温もりが、乃梨子を落ち着かせていた。
後頭部に伝わる、志摩子の膝の温もり。そして乃梨子に向けられる温かく優しい微笑み。
…ごめんなさい、志摩子さん。
自分のさっきまでの興奮がはしたなく、もうしわけなく思われ、乃梨子は涙が出そうになるのを堪えた。
「どうしたの? 乃梨子?」
その様子が志摩子に気付かれないわけもなく、乃梨子は自分の行為を恥じた。
「ごめんなさい…志摩子さん」
乃梨子は全てを白状した。自分でもなんでそんなことをしたのかわからない事も含めて。
言いながら、乃梨子はそっと起きあがり、ベンチから立ち上がる。
「こんなのいけないことだってわかってたのに…」
泣きそう。
「私、志摩子さんのことだと、自分でもよくわからなくなっちゃうから…」
「良かった」
「え?」
志摩子の言葉に、乃梨子は目を見開いた。
「私、下着を忘れたことに気付いてすぐに戻ったのよ。そうしたら、私のものではない下着があるんですもの…驚いたわ」
「え…」
つまり、乃梨子が館を出た直後に志摩子自身が戻ってきていたのだ。ということは、乃梨子の下着を最初に発見したのは志摩子ということになる。
「だけど、何故だかわかったの。これは乃梨子のものだって…だって、乃梨子の匂いがしたから」
この発言にツッコむ余裕は今の乃梨子にはない。
それよりも、志摩子が自分を認識したという事実に前にその他諸々は雲散霧消している。
「志摩子さん……」
「だから、私…ね?」
スカートをほんの少し持ち上げる志摩子。
乃梨子は見た。
自分の下着。
「…!?」
「代わりに、穿いているの」
乃梨子は自分の鼻を押さえた。
が、時既に遅し。
生暖かいどろりとしたものが両手を覆うのがわかる。
そのまま意識は遠ざかり………
その日、救急車が一台リリアンの中庭から一生徒を運び去った。
出血多量(鼻血)により生死の境を彷徨った生徒の名は、二条乃梨子という………。