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両手を預けて
 
 
 
「祐巳さん?」
 私は、祐巳さんの名前を呼びながら管理人室へ入った。
 祐巳さんはいない。
「祐巳さん?」
 今日私をここに呼んだのは祐巳さんなのに。祐巳さんは、約束を違えるようなことは絶対にしない人だ。私をここに呼んだのだから、祐巳さんが待っていないわけがない。
「祐巳さん?」
 三度目の呼びかけで、ようやく反応が返ってきた。
「ああ、ちょっと待ってね」
 老いてはいるが、達者な声。
 祐巳さんが、奥のドアを開けて姿を見せた。
「おやおや、もう来てたのかい? 約束の時間までまだあるじゃないか」
「人と約束したら早めに着いた方がいいって教えてくれたのは、祐巳さんじゃない」
「そうだったかな?」
「そうだよ。あ、祐巳さん、もしかしてボケた?」
 いつもなら、ここで祐巳さんが「バカ言ってるんじゃないよ」と私を一喝して終わるところだった。
 だけど、その日の祐巳さんはなんだかおかしかった。
「ああー、そうかも知れないね」
「…祐巳さん?」
 祐巳さんは、私の曾お爺ちゃんの一つ上の姉。祐麒曾お爺ちゃんはもういないけれど、祐巳さんは元気。
 私は何故か、小さいときから祐巳さんと気が合っている。祐巳さんと呼んでいるのも、祐巳さん本人のたっての希望なのだ。
 その祐巳さんが気弱に見えて、なんだか私は泣きたくなった。
「祐巳さん。そんなの似合わないよ」
「私だって、もうこんなお婆ちゃんだもの」
「それはそうだけど…」
「まあ、いいよ。ところで、身の振り方は決めたのかい?」
 私はリリアン学園中等部の三年生。来年からはごく普通のリリアン生と同じく、高等部へ進学する予定だ。けれども、祐巳さんが聞きたいのはそういうことではない。
「私は別にいいと思うんだけれども、お母さんとお父さんが悩んでる」
「そうかい。まあ無理強いはできないけれどね」
 祐巳さんは、私にこのリリアン学園寮に入って欲しいらしい。
 家は近いから別に寮に入る必要はないのだけれども、祐巳さんは、是非私に見せたいものがあるというのだ。
 それは、滅多に起こらない現象なので、寮に入らないと見ることができないに違いない、と祐巳さんは言っている。
 ちなみに、それがどんな現象なのかはまだ教えてくれない。なんだかわからないけれど、とにかく見せたいらしいのだ。
 私は取り立てて家を離れたいとは思っていないけれど、祐巳さんのことが好きだから祐巳さんとここで暮らす(名目上は私は寮生ではなく、寮の管理人補助となるらしい)のは嫌ではない。むしろ歓迎している。
「いつかここに戻ってくるところを見せたいんだけどね」
 祐巳さんは、管理人室の奥のドアを開けて中を見せてくれた。
 中は何の変哲もない、というより何故か他の部分に比べて極端に古い部屋だった。
 
 調べてみるとリリアンの学生寮は、昔「薔薇の館」と呼ばれていた建物を取り壊して作られたらしい。
 今でも高等部に「薔薇の館」は存在しているが、それは寮ができたあとに新しく建てられた新館だと言うことらしい。
 寮も新館も、小笠原家の寄付で建てられたと記録されている。
 私は中学校の新聞部に頼み込み、高等部の学内新聞、リリアンかわら版のバックナンバーに目を通した。
 やはり。
 祐巳さんのお姉さまが小笠原祥子。
 新館は、祐巳さんの卒業直前に急ピッチで建てられたと書かれている。新館完成と同時に旧「薔薇の館」は立ち入り禁止となり、数年後解体され、跡地に寮ができたらしい。
 私は驚いた。かわら版の記事、日付からすると祐巳さんが二年生の時の十一月、「薔薇の館で茶話会」と言う記事には薔薇の館の二階広間の写真が掲載されている。その風景に私は見覚えがあった。
 寮の管理人室の奥、そこから繋がった扉の向こうの風景がそこにあった。
 つまり、旧「薔薇の館」の一部は取り壊されることなく、寮の中に保存されていると言うことだ。
 何故?
 そして今、寮の管理人は祐巳さん。
 何か関係があるのだろうか?
 そのままバックナンバーを調べていた私は、中の数部がなくなっていることに気付いた。
 茶話会の後、祐巳さんが三年生になって正式に「紅薔薇さま」となるまでの間に、かわら版が存在していない。
 発行ナンバーを見る限り、発行はされているようだった。
 新聞部に聞いてみると、そこになければもうわからないと言う。
 
 高等部に入ると、私は素直に祐巳さんのところで暮らし始めた。
 そして、クラブにも入らず、暇さえあれば当時の秘密を調査していた。
 祐巳さんは何か知っているようだが、敢えて何も言わなかった。私が聞いたときも、ただ「忘れてしまった」「いずれわかるよ」と繰り返すだけ。
 執念の成果なのか、それとも偶然なのか、私は面白いものを見つけることができた。
 新聞部の倉庫の奥から出てきたというそれは、当時の新聞部員が個人的にかわら版をファイリングしていたものだった。こんなこともあろうかと、常日頃から新聞部員達に便宜を図っていた私は、それを貸してもらうことに成功した。
 表紙には持ち主の名前が印されている。
「山口真美」
 確か、山口真美というのは祐巳さんと同級生だった人。
 私は期待に胸を膨らませてファイルを開いた。
 
 嫌なものを見てしまった。
 破棄されていた記事は、破棄されるに足る内容だったかも知れない。
 リリアン生、謎の失跡。
 記事によると、二人の一年生が昼日中の薔薇の館で忽然と姿を消したとされている。
「細川可南子 松平瞳子」
 私は街の図書館で当時の新聞のバックナンバーを調べることにした。
 新聞によると、当時はこの事件がかなりスキャンダラスなものとして扱われたらしい。
 私が見た嫌なものは、リリアンかわら版ではなくそれだった。
 インターネットで調べてみると、検索結果が結構出てきた。
 俗悪な、限りなく中傷に近い憶測記事。イエロージャーナリズムというものは、時代には関係ないらしい。
 しかも、消えた二人は、祐巳さんの妹の座を争っていた二人だという。その二人が事もあろうに「薔薇の館」で消えたのだ。たしかに興味は引きそうな事件だったのだろう。
 
 でも、それじゃあ祐巳さんは二人の消えた場所に居続けていると言うことになる。
 何故だろう。
 
 疑問は、その後しばらくしてから解消された。
 夏休み直前、テストを終えて特にやることのなかった私は、寮で与えられている自分の部屋で寝転がって本を読んでいた。
 その時、祐巳さんに呼び出されたのだ。
 呼び出された私が見たものは…………
 そして祐巳さんは、それを見ながら私に語ってくれた……
 
 
 なんと言うことはなかった。ただ、たまたま純粋に手が足りなかった。そして、すぐに呼べるのが瞳子と可南子しかいなかった。
 だから、祐巳は二人を呼んだ。そこには何の作為もなかった。
 三人で作業をしていた。
 途中で祐巳はトイレのために席を外した。
 館に戻り、階段を上がろうとしたところで何かが揺れた。
 ごくごく、小さな地震。棚に置いた荷物さえ倒れないような小さな地震。
 揺れ終わった、と思った瞬間、血も凍るような悲鳴が聞こえてきた。
 瞳子の声だった。
 急いで二階に上がった祐巳が見たものは、身体半分が空に消えた可南子の姿と、現実に残っている左手を懸命に引っ張っている瞳子の姿だった。
 祐巳がたじろいだ瞬間、可南子の姿が、そしてそれに引きずられるように瞳子の姿が消えた。
 三十分後、泣き叫ぶ祐巳を祥子がなだめていた。
 錯乱しかけた祐巳の説明を、祥子は信じた。令も、由乃も、志摩子も、乃梨子も。
 けれど、信じたところで何ができただろう。
 それは紛れもない超常現象だった。
 昔から、「神隠し」と呼ばれていた現象を祐巳は目の当たりにしていたのかも知れない。
 別の表現でもいい。
 次元の隙間。平行宇宙への入り口。時空の歪み。
 ただ、どんな表現を使おうとも、確かなことは二つあった。
 一つは、可南子と瞳子が消えたこと。
 二つ目は、祐巳の証言には何の意味もないこと。
 三日も経たないうちに、祥子は祐巳に見たままのことを他人に告げることを禁止した。祐巳自身も、それには異を唱えなかった。
 良いニュースも二つだけ。
 一つは、瞳子の親戚である祥子や柏木が祐巳を無条件に信じ、瞳子の両親に祐巳を会わせずに自分たちで話をしたこと。
 もう一つは、可南子の父と母(夕子)も、祐巳の言葉を信じたこと。
 法的、そして実際にも、祐巳に罪はなかった。
 ただし、それ以外の全てにとっては、祐巳は有罪と見えるしかなかった。
 祐巳にとって幸運なのは、祥子が祐巳を守るだけの力を、限りがあるにしろ、小笠原家から引き出せること。
 そして不運なのは、二人の消失は誰以上に祐巳自身に衝撃を与えていたこと。
 祥子は卒業後も祐巳を守ることに尽力した。
 祐巳の精神的衝撃を山百合会の誰もが理解した。
 だからこそ、理解していたからこそ、その「発見」が最初の内には祐巳以外には知られなかったのだ。
「昨日、瞳子ちゃんと可南子ちゃんを見たの」
 疲れている。
 由乃は最初そう思った。
 祐巳は疲れている。責任感が幻覚を見せたのだろう、と。
 だから、ただ相槌をうった。
 志摩子も同じだった。乃梨子も。
 けれども、一人だけが、まったく違う反応を見せた。
 有馬菜々だけが。
 菜々には、祐巳の想いはわからない、これは菜々が冷たいという意味ではない。ただ純粋に、菜々は知らないのだ。
 可南子を知らない、瞳子を知らない。(いや、瞳子に関しては中学時代に名前くらいは聞いていたかも知れないが)
 そして、二人に関する祐巳の想いも目の当たりにはしていない。
 だからこそ、菜々は冷静に祐巳の言葉を聞くことができた。
 もし、本当に祐巳に二人が見えるとすれば?
 二人が何かの超常現象の犠牲者だとすれば?
 二人がどこかに今も生きているとするならば?
 そして数ヶ月後、菜々も見たのだ。
 背の高い少女と、縦ロールの髪型の少女を。
 これで祐巳の見たものは証明された。
 だが、それも何の助けにもならない。
 見えただけ。
 何故見えたのか、わからない。
 そもそも何故消えたのか、わからない。
 ただ見えるだけでは、手の打ちようはないに等しい。
 それでも、祐巳は喜んでいた。
 二人は生きている。どうしてだかわからないけれど見ることができる。
 菜々は首を傾げ、由乃に忠告した。
「祐巳さまをそれとなく見張った方がいいと思います」
「どうして?」
「今は、二人を見つけたことで一杯になって、他のことに目が行っていないだけだと思うんです」
「どういうこと?」
「私が見た二人は、怖いほどひきつった表情でした」
 時が経ち、二人の姿を見たことのある人間は増えていった。といっても、場所が薔薇の館の一室に限られているので、一定以上は増えようもないのだが。
 二人の表情は引きつっていた。恐怖のためだろうか。
 それを見たとき、乃梨子は衝撃で嘔吐した。
 一連の出来事が、祥子に「薔薇の館」新館を思いつかせたのだ。
 祐巳はしかし、旧館を残すことを祥子に頼んだ。二人の居場所がなくなることを恐れたのだ。
 逆に祥子は、二人が「薔薇の館のあった」「何もない空間」に現れる可能性を考え、祐巳の頼みを受け入れた。
 そして祐巳は告げたのだ。
 自分が二人のためにいつまでもここにいたい。しかし、いつまでもリリアンにいるわけにはいかない。仮に教師として戻ったとしても、一日中、旧館にいるわけにはいかない。
 だから、日のほとんどを旧館近くにいても問題がないようにしたい。
 出た結論が、寮だった。
 祐巳は寮母に必要となるであろう勉強を進めた。そして祥子は祖父の筋からリリアンに働きかけ、学生寮が必要であると計画させた。
 
 
 私は泣いていた。
「…きれい」
 二人の少女の姿が、何もない部屋の中心にぼうっと浮かんでいる。
 慈しむように、かばい合うように、二人は抱きしめ合っている。
 目を閉じた二人は何も見ていない。けれど、二人の頬には紛れもない涙の跡があった。
「私がここに来て、二十年ほどしてからかな、二人がこの姿に落ち着いたの」
 それまで二人は、泣いたり、罵り合っているように見えて、とても辛かった。
 そう、祐巳さんは言う。
「可南子ちゃん、瞳子ちゃん、私はここにいるよ」
 祐巳さんは古い、けれどきれいに磨かれたロザリオを掲げていた。
「ごめんね。二人にはロザリオをあげられなかったけれど、私は他の誰にもロザリオをあげなかったよ」
「可南子ちゃん、瞳子ちゃん……」
 二人の姿が薄くなり、消えていく。
 祐巳さんは、涙を流しながら笑っていた。誇らしげに。
 
 高等部の三年間、私は寮で暮らしていた。
 そして、大学はリリアンを選び、時々、というよりもほとんど毎日、寮に顔を出している。
 可南子さんと瞳子さんの姿を、あれから何度も見た。
 微妙に位置がずれているが、私の知る二人の姿はいつも一緒だった。
 時々、祐巳さんと私の他に、一緒に二人を見る人がいた。
 いちいち紹介はされなかったけれど、祐巳さんが相手に呼びかける言葉で推測はできた。
 乃梨子ちゃん、とか、次子ちゃん、とか。
 
 そしてある日、訪れた私を祐巳さんは満面の笑みで出迎えた。
「どうしたの、祐巳さん」
「昨日、夢を見たの」
 そう言って笑う祐巳さんの表情に私はハッとした。一瞬、私よりも年下の、紅薔薇のつぼみの祐巳さんがいるような気がしたから。
「瞳子ちゃんと可南子ちゃんが迎えに来てくれる夢を見たのよ」
 何も言えなかった。否、言えるわけがない。
 そして私は悟った。
 祐巳さんは、それを待つためにここにいたのだと。
 祐巳さんは、瞳子ちゃんと可南子ちゃんを今まで待っていたのだと。
 祐巳さんは私の表情に気付いたのかも知れない。
「今までありがとうね」
 そして、私の名前を呼ぶと、強く抱きしめてくれた。
 私は泣いていた。
 何も言えない。ただ、泣くだけだった。
 
 
 偶然、と言うものがこの世にはある。
 だけど、偶然と思いたくないものもたくさんある。
 祐巳さんはある日突然いなくなった。死んだわけではない。忽然と消えたのだ。
 そして、祐巳さんがいなくなってから、寮では何も目撃されていない。
 祐巳さんがいなくなってから、私は不思議な夢を見る。
 背の高い少女と縦ロールの髪型の少女に挟まれて、タヌキ顔の可愛い女の子がニコニコと笑っている姿。
 両手をそれぞれの女の子に預けて、ニコニコと笑っている姿を。
 私はその夢を見るたびに、泣きたいくらいに羨ましくて、泣きたいくらいに幸せな気分になれる。
 
                       
 
 
あとがき
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