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雨降って…
 
 
「おじちゃん、またね〜」
「はい、またねぇ」
 …っておじちゃんはないだろ、おじちゃんは。
 賢文は心密かに愚痴っていた。
 …いや、確かに俺は三十路だよ。三十路だけどな。未婚だ、独身だ、ついでに彼女もいないってんだ、チキショー。
 …いやいや、修行中の身に女色は禁物。そうそう、ついこの前だって、「賢文さんは、若いのに女に動じない。いゃあ立派なもんだ」って褒められたじゃないか。
 …よし、オッケー。大丈夫。
 落ち着いた。
「また明日ねぇ」
 賢文はにこやかに手を振る。そう、この程度で落ち着きを失ってどうする。それこそ未熟な証拠ではないか。
「あら、こんにちは」
「こんにちは」
 つい反射的に受け答えてから賢文は気付く。
 この人は……
 …山辺さんの所のお子さんを迎えに来ている女子大生!
 …山辺さんとの関係は知らないが、まあ妹か…いや、でも名字が違うし似てないよなぁ。
 …似てないのは、俺と志摩子の例もあるからわからないけれど、名字が違うって事は従姉妹かなぁ……。
 …それにしても美人だ。
 …いや、いや、いや! 美人だって事に惑わされるわけにはいかない。別に惑わされている訳じゃないけれど。
 勿論、これは他でもない鳥居江利子である。しかし、江利子は山辺の娘を迎えに来る幼稚園を手伝っている男が、まさか志摩子の兄だとは知らないし、賢文のほうもこの美人がまさか妹の先輩、リリアンの元黄薔薇さまだとは知るよしもない。
 当然、賢文にとっての江利子は、園児をたまに迎えに来る美人。と言う認識しかない。
 …そうだ、美人がなんだ。この程度の美人がどうしたって言うんだ。
 …そう、そうだ、思い浮かべろ、賢文! お前はもっと美人な女の子を知っている! この人なんか比べ者にならない愛らしい美少女を!!
 自分を奮い立たせ、賢文は一つの画像を脳裏に浮かべようとしていた。
 …………
 ………
 ……
 …
 …うん。やっぱり、いつ思い浮かべても志摩子は可愛いなぁ…。
 ……
 危ないです、お兄さん。
 
 ぽつん
「おや?」
 賢文が空を見上げると、大粒の雨。
「ありゃ、とにかく中に」
 江利子と山辺娘を園舎内に招き入れる。
 園長も入ってくると、傘を探し始めた。
 まだ他にも、帰りきっていない園児や迎えの者達がいるのだ。
こんな時のために準備してある置き傘を、次々と渡していく。
 賢文と、そして江利子も園長を手伝い始めた。
 数分もすると、傘は品切れ。
「ふぅ、やれやれ」
 園長は肩を叩くと、そこでようやく江利子達に気付いたようにきょとんとした顔になる。
「ありゃ、もう傘は品切れだよ」
「あら」
 江利子は空を見上げた。
 急に降り出した雨だが、しばらく止みそうにもない空模様だ。
「この季節の天気は変わりやすいからね。仕方ない、賢文さん」
「車を出すのは構いませんけど、もう少し後でもいいですか?」
「いえ、私の都合ではなくて山辺さんを送ってもらおうと思ったのですけれど」
「あ、私は少しぐらい後でも構いませんけれど」
「いいんですか? お急ぎなら俺のほうこそ構いませんけれど」
「ああ」
 園長がポンと膝を叩いた。
「賢文さん、またケーキの試作ね? だったらちょうどいいわ、一緒に食べてもらいましょうよ」
「ああ、そりゃいい。どうぞどうぞ」
 賢文は江利子達を台所に案内する。
 江利子は、目の前のごつい男が焼いたというケーキに目を瞠った。
 令並みかもしれない。そう思ってしまうほどの見事な出来と味だった。
「美味しい」
「そうでしょうそうでしょう。こう見えても、ケーキ屋になるかもしれないところまで行ったんですからね」
 嬉しそうな賢文の姿に、思わず江利子は笑ってしまった。
「本職は何をなさっているんですか?」
「修行中の身ですよ」
 合掌してみせる賢文。
「お坊さま?」
「正解」
 そういえば、この幼稚園はお寺が経営しているんだった。と江利子は思い出した。
 ふと、江利子はお寺の娘だった後輩を思い出す。
 親友の妹だった子。
 目の前の男とは、似ても似つかない。江利子は自然に出てくる笑みを噛み殺した。
「なるほど、ケーキを焼いて幼稚園で働いているお坊さん」
「う、そういわれると困りますけど、ま、これも修行の一貫と言うことで」
 少しして、ケーキのお礼を言って立ち上がる江利子。
「小降りになってきたし、ハンカチでも被って急いで帰ります」
「送りますよ。車に乗って下さい」
「そう? それじゃあ、お言葉に甘えて」
 
 数日後のリリアン。
「ごきげんよう。令さん」
 自分を待っていたらしい三奈子に軽く会釈する令。
「ごきげんよう、三奈子さん。悪いけど、取材なら今は時間がないから」
「違うわよ。ちょっとね、貴方の耳に入れておきたいことがあって」
 ただならぬ三奈子の様子に令は足を止める。三奈子と山百合会の間にはいろいろあったが、それでも三奈子が好きこのんで他人を貶めるような性格でないことはわかっている。ただちょっと、後先考えずに突っ走ってしまうことがあるだけ。
 だけど、正直に言うと令は個人的には三奈子を好きではない。イエローローズ騒動のことを思えばそれも当たり前と言えば当たり前の話なのだが、それでもきちんと礼儀はこなす辺りは流石と言えば流石だった。
「私に?」
「そう。山百合会ではなくて、支倉令個人によ。正確には、鳥居江利子さまの妹だった貴方に」
「お姉さまがどうかしたの? 卒業した人まで追いかけているわけ? 新聞部は」
「ちょっと待ってよ。今日は新聞部としてきた訳じゃないの。友人として、貴方に忠告に来たのよ」
 いつの間に友人になっていたのだろう。
 とりあえず令はその言葉を飲み込んだ。
「お姉さまのことに関して、三奈子さんに忠告してもらえるようなことがあるとは思えないけれど」
「へんな噂を聞いたの」
「噂?」
「ええ。江利子さまにつきあっている男がいるって」
「男って…」
 令は呆れた顔を隠そうともしない。
「三奈子さんもあの時一緒にいたじゃない。あの熊男のことでしょう?」
「だったらいちいち言わないわよ」
「え、違うの?」
 途端に令の表情は不安そうなものへと変わる。
「そう。違うの」
「どういうこと?」
「さあね。でも見た人がいるのよ。知らない男の人の車から降りてくるところを」
「偶然じゃないの? それともお兄さまとか」
「違うわ。お兄さまの顔なら前のことでわかっているもの」
「わかっているって…」
「ええ、私も見てしまったの。少なくとも、私の見たことのない人だったわ。年は…三十そこそこかしら」
「どういう事よ」
 詰め寄る令を巧みに交わす三奈子。
「私だって詳しいことは知らないわ。噂になりそうだから、先に伝えに来たのよ。勿論、私にできる限りでは噂を抑えるつもりだけれども、どこから話が漏れるかなんてわからないじゃない?」
「ええ。お願い。私はお姉さまに直接聞いてみるわ」
「それがいいわ。これでまた誤解なんて事になったら目も当てられないもの」
 貴方がそれを言うの? 令はそう言いたいのも堪える。
 三奈子は、辺りをキョロキョロと見回すと、誰もいないことを確認してから一枚の写真を取りだした。
「これが問題の写真よ」
「録ったの?」
「遠くてよく見えないけれど、江利子さまの姿は判別できるでしょう? その隣にいるのが問題の男よ」
 令はその写真を食い入るように見た。
 確かに、そこに写っているのは憎き熊男ではない。がっちりとした体格の、五分刈りの男性だ。
「一体誰なの、これは」
「さあ。わからないわ」
「三奈子さん、この写真」
「ええ、いいわ。令さんにあげるつもりで焼き増したものだから」
 令は写真を受け取り、三奈子に別れを告げると薔薇の館へと急ぐ。
 そこには既に全員が揃っていた。
「ごきげんよう。祥子、ちょっと見せたいものが」
「どうしたの、令。そんなに慌てて」
「いいからちょっと」
 令は祥子を階下に連れ出すと、三奈子から聞いたことを手短に伝え、写真を見せる。
「どう思う?」
「…山辺先生、ではないのよね」
「勿論。先生だったらこんなことにはなっていないわ」
「令、この写真、皆に見せてもいいわよね?」
 突然の祥子の言葉に令は言葉を途切れさせる。
「え」
「私たちだけでどうこうできる問題ではないわ。無視するつもりならまだしも、もし関わるつもりがあるのなら、皆の協力が必要よ」
 少しの間、令は無言で考えた。
 皆の協力、いや、それ以前に自分は山百合会の皆を信じているはずだ。
「わかった。皆にも相談しましょう」
 二人は部屋に戻ると、写真をテーブルの真ん中に置いた。
「これを見て欲しいの」
「あら、江利子さまとお兄さま」
「そうよ、志摩子。これは江利子さまと……お兄さまッ!?」
「ええ。私の兄ですけれど、どうして江利子さまと…」
 乃梨子と志摩子を除いた一同は、唖然と見つめ合う。
 …知ってた?
 …いいえ
 …姿どころか、志摩子さんにお兄さんがいたことが初耳よ
 …一人っ子じゃなかったんだ
 志摩子の横で一緒に写真を見ていた乃梨子が、ふと二人の背景に気付く。
「あ、この車って、この前お姉さまのお兄さまが乗っていた…」
「本当。幼稚園のワゴン車だわ」
「幼稚園? 志摩子さんのお兄さんって、幼稚園で働いているの?」
 由乃の当たり前な疑問に志摩子は首を振る。
「いいえ。働いているのとは少し違うけれど、お手伝いをしているのよ」
「もしかして…」
 令は幼稚園の名前を挙げた。
「ええ、そうです。黄薔薇さま、よくご存じですね」
「そこって確か、山辺先生の娘さんが通っている幼稚園よ。お姉さまと何度か前を通ったもの」
 ガタン
 由乃が無言で席を立った。
「そんなの、私聞いてない」
「え? 由乃? だって、山辺先生の娘さんが通っている幼稚園なんて、由乃は興味ないでしょう?」
「違う、そこじゃない」
「そこじゃないって……あ」
「いつの間に、江利子さまの所に出かけていたのよ」
「えっと…それは」
「令ちゃん、私に黙って江利子さまに会いに行ってるのね…それも、何度も!」
「そ、それは…」
 祐巳が由乃に耳打ちする。
「…由乃さん、令さまに黙って菜々ちゃんに会いに行ってるよね?」
「祐巳さんは黙ってて! これは私と令ちゃんだけの問題なのよ!」
 普通それは「棚上げ」と言う。
 黄薔薇姉妹が唸りながら(一人は獰猛に「ぐるるるる」、一人は気弱に「あわわわわ」)フェードアウトしていくと、残ったメンバーは再び写真を検討し始める。
「江利子さまが山辺先生の娘さんをお迎えに行く。そこで幼稚園のお手伝いをしている志摩子のお兄さまと会う。話に不自然なところは全くないわ。これでお付き合いなんて言われたら江利子さまもお困りでしょう」
 江利子さまなら困る以前に大笑いしそう、と祐巳は思う。
「でも、問題は、それを知らない人が見たらどう思うかだと思います」
 事情のよくわからない乃梨子の言葉だからこそ、それは妙な説得力がある。
「そうね。現に、実のお兄さまとのデートですら、誤解されてしまったほどだもの。この写真のようなことが誤解されないとは限らないわ」
 過去に何かあったんですか? との乃梨子の問いに、志摩子は簡単に「イエローローズ騒動」の顛末を聞かせる。
 今の新聞部(要は真美や日出実)しか知らない乃梨子は結構ショックを受けたようだった。
「そんなことがあったんですか」
「ええ。もっとも、今の真美さん達が同じようなことをするとは思えないけれど。現にこの写真だって、三奈子さまは真っ先に黄薔薇さまに相談なされたみたいだし」
「あの…」
 乃梨子は言いづらそうに志摩子の顔色を伺う。
「どうしたの、乃梨子」
 珍しい乃梨子の態度に、志摩子は不思議そうに首を傾げる。
「これ、絶対に誤解なんでしょうか?」
「え?」
 全員の、部屋の隅に行っていたはずの黄薔薇姉妹の視線すら乃梨子に集中した。
「あの、私、江利子さまという方のことをよく知らないのですけれど…これが誤解でないと言う可能性は…」
 
 その日、祐巳が家に帰ると、祐麒が慌てた顔で待っていた。
「祐巳、ちょっと聞きたいことが!」
「どうしたのよ、祐麒、慌てて」
「いいから、これ、これ見てくれ」
 祐麒が差し出したのは、なんと令さまが持ってきた写真と同じもの。
「この写真…どうしてこんなもの?」
「なあ、ここに写っているの、山百合会にいた鳥居江利子さんだよな、由乃さんのお姉さまのお姉さまの」
「う、うん」
 基準は由乃さんなのか、とツッコむ余力もなく、祐巳は祐麒の迫力に思わず頷いた。
「…なあ祐巳。由乃さんから何か聞いてないか?」
「何をよ」
「鳥居江利子さんが山辺先生と別れたとか」
 鳥居山辺カップルは、花寺でもかなりの噂になった。というより、その事件が広まって以来、山辺先生は花寺の希望の星として一部生徒の尊敬と賞賛、嫉妬と羨望を一身に浴びているのだ。
 ちなみに柏木小笠原、あるいは柏木松平(これは親戚だが)の場合は完全に別世界、「ああ、柏木先輩だもの、光の君だもの、俺たちとは違うさ、あっはっはっ」というわけで、あまりそういう意味の嫉妬や羨望はない。
 却って祐麒祐巳(これも姉弟だが)の方が何故か嫉妬羨望は大きい。
 さて、祐麒の質問は祐巳を困惑させている。
「へ? なにそれ。そんなの知らないよ。それに第一、その写真の男の人は、山辺先生の娘さんが通っている幼稚園の人だよ。江利子さまは娘さんの送り迎えをしているから、良く会うだけだよ」
「でも、やたらとよく見るって話を聞くよ」
 幼稚園は、花寺からは結構近いところにあるので花寺生徒が見かける機会は多いのだろう。そして江利子さまも卒業したとはいえ元黄薔薇さま、その顔を覚えている生徒は少なくない。
 結論として、花寺生徒による目撃談は多いことになる。
「それは、江利子さまがいつも迎えに行っているって事じゃないの?」
「あ、そうか」
「もし、そんなこと言う人がいるならちゃんと説明してあげてよ。ヘンな噂になったら、江利子さまどころか、山辺先生だって迷惑だよ」
「ああ。そのつもり。だけど、山辺先生やっかんでる奴は多いから、半分冗談のつもりで馬鹿なこと言う奴もいるよ」
「それを止めるのも生徒会長の勤めよ」
「げっ。そうなるのかな…」
 嫌そうな顔の祐麒に、祐巳は笑って背中を叩く。
「がんばりなさい」
 
 令は悩んでいた。
 どうやってお姉さまと直接話をしよう。
 電話ではなく、直接会って話したいのだ。
 家に行くわけにはいかない。鳥居家と言えば、母親を除いて全員が交際に反対している、そして猛烈にシスコンな兄たちだ。万が一こんな話を聞かれれば何がどうなるかわからない。最悪の場合、志摩子の兄が江利子さまを誑かしたと勘違いして小寓寺に乗り込みかねない、そういう人たちだ。
 だからといって、大学の前で待つというのも目立つ。
 考えるうちに、とりあえず幼稚園にいるという志摩子の兄を見てみようと思い立った。
 卒業間近の三年生が早めに帰れる日を選んで、幼稚園までやってくる。この時間、由乃たちはまだ学校だから、行動を不審がられる心配はない。
 見ていると、門の前を掃除している男がいた。写真に写っていた男だ。
 言われなければ、志摩子の兄だとは気付かない。いや、そういえば志摩子の父には似ているような気がする。なるほど、兄は父親似で志摩子は母親似なのだろうか? 逆の話は良く聞くが、まあこういう事もあるのだろう。
 熊男よりは、いい男に見える。見えるけれどそれだけ。志摩子には悪いけれども、お姉さまと釣り合うほどの男には見えない。
 確認して踵を返したところで、お姉さまの姿が見えた。
 令は咄嗟に隠れてしまう。
 別に見つかってまずいことはないのだけれども、お姉さまの横にはあの熊男が一緒にいたのだ。
 二人は志摩子の兄と二言三言交わすと、女の子を連れて再び歩き出す。どうやら、二人揃って迎えに来たようだ。様子を見る限りぎくしゃくしたところはない。さすがに妙な噂に脅されたりはしていないのだろう。
 少し間を空けてその場から離れる。
 顔を知られているわけではないので、堂々と幼稚園の前を通り過ぎようとしたところで、中から声が聞こえる。
「賢文さん、ふられた?」
 掃除を続けていた志摩子の兄が、ずっこけながら振り向いた。
「馬鹿いわんで下さい、園長」
「鳥居さんには山辺さんがいるものね」
「だーかーらー、ふられたとかそういう問題じゃないでしょう。そもそも惚れてません!」
「うん。あんなきれいな妹さんがいるんじゃ、並みの女にはなびかないか」
「そうそう。志摩子に比べればそこらの女なんざぁ…って、何言わせるんですか!」
 どうもこの人も、お姉さまの兄三人に負けずと劣らないシスコンのようだった。
 笑いを噛み殺して通り過ぎる。
 
 あれ。私は何をしているんだろう?
 令は自問自答を繰り返していた。
 ヘンな噂が根も葉もないものであることを確かめたのだから、もう帰ってしまってもいいはずなのに。
 どうして私はこんなところで、何をしているのか。
 山辺先生の住むアパートの前。古びた喫茶店。令の前にはまずい紅茶が一杯。
 アパートに入っていったお姉さまはまだ出てこない。
 三十分は経っている。
 いや、それ以前に自分はこんなところで何をしているのか。どうして後をつけたりしたんだろう。
 お姉さまが気になったから。
 いや、今日になって突然気になるなんて。
 山辺先生がいたから。
 大当たりだ。
 お姉さま一人なら後をつけようなんて思わなかったに違いない。山辺先生が一緒だから、つい気になって尾行してしまったのだ。
 いや、違う。ここでお姉さまが出てくるのを待って話がしたいだけ。別に山辺先生の家に入っていく事が気になっている訳じゃない。
 自分に言い聞かせながら、お姉さまを待つ。
 それからさらに十分ほどして、お姉さまの姿が。
 令は喫茶店を出た。
 令の後ろからもう一人が出たけれど、それには気付かない。
「お姉さま?」
「あら。令。こんなところでどうしたの?」
「お話があって…」
「ふーん。ちょうどいいわ。ちょっと…」
 手を取られ、令は抱き寄せられる。
「え、お姉さま?」
 江利子さまがギュッと抱きしめる。
「お姉さまッ!?」
 そのまま無言で、江利子さまは令の感触を楽しむようにギュッと密着している。令は反抗できず、勿論その意志もなく、なすがままの状態で全身を預けていた。
 かなりの時間が過ぎたような気がしたけれど、実際は一分も経たずに、江利子さまが令を開放する。
「うーん。やっぱり違うわね。女の子の身体は柔らかくていい感触。聖の気持ちが少しわかったわ」
「違うって…」
「ん? だから、男の人の身体とは違うなって…」
「ええっ!?」
 悲鳴のようなな声。
「男の人の身体ってまさか…」
「山辺さんだけど? こうやって、ギュッて」
 もう一度、江利子さまは令を抱きしめる。
「兄貴達とは、こんな風には抱き合ったことないもの。山辺さんが初めてよ?」
「な…な…な…」
「だってねぇ…。賢文さんと親しげだからって、嫉妬してるのよ、山辺さん。それを必死で隠そうとするから、なんだか可愛くてね。ついさっき、ギュッて……」
 江利子さま、惚気てるっ!?
 あまりの衝撃に目の前が暗くなる。
「あら、どうしたの、令。気分でも悪いの?」
「い、いえ。なんでもありません」
「そう。ところで貴方のお話って…あら?」
 江利子さまの目が令の背後に向けられる。
「…気のせいかしら。由乃ちゃんの妹がいたような」
「? 由乃はまだ妹なんていませんよ」
「…そうだったわね」
 なんとなく、江利子さまがニヤリと笑ったような気がしたけれど、令はとりあえず気にしないことにした。
 
「ただいま」
「お帰りなさい」
 陰々滅々とした声にギョッと顔を上げる令。そこには、由乃が立っていた。
「よ、由乃? どうしたの?」
「令ちゃん、私より先に帰ったのに、遅かったわね」
「うん。ちょっと友達の所に寄っていて」
「そう。そのお友達は、幼稚園にいるの?」
 ギクッ 
「そのお友達は、山辺先生?」
 ギクッギクッ
「江利子さまに往来のど真ん中で抱きしめられてにへらにへらしてたの?」
「よ、由乃。一体そんな話をどこで!」
「……否定しないのね?」
 今日、三年生は早く帰ることができた。
 三年生。
 中等部の三年生も例外ではない。
 この数日、令の様子がおかしいと訝しんでいた由乃が、菜々に令の尾行を頼んでいたのだ。勿論、当の令はそんなことを知るわけがない。
 菜々の報告を受けた由乃は、手ぐすね引いて令の帰宅を待っていたのである。
 ちなみに前後の事情をまったく知らない菜々の報告はこうなっている。
「幼稚園からずっとを後をつけて、アパートの前で張り込み。しばらくして出てきた江利子さまとなにやら抱き合っていました」
 まあ、嘘ではないのだけれども。
 
 
あとがき
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