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三年になったからと言って、私の状況に変化はない。
唯一良かったと思ったのは、また、祥子さんと同じクラスになったこと。
そして、以前に比べるとほんの少し、私と祥子さんの距離が縮まったこと。
あの日、私は頑張ろうと決意した。
少しでも祥子さんに近づく、そのために無理をして頑張る、そんなことではなくて、ただ、自然に祥子さんに近づくこと。
当たり前のように、クラスメイトとして挨拶したり、当たり前のようにクラスの仕事を手伝ったり、手伝ってもらったり。
それは当たり前すぎて、私にとっての祥子さん相手には少し難しかった。
私は、そこらの下級生以上に、小笠原祥子という存在を信奉してしまっていたのかも知れない。そして、それはきっと、祥子さんにとっては心地よいことではなくて。
祥子さんは誰かに信奉されたいと思っているわけではなかったのだから。それがわかったのは、祐巳さんのおかげ。祐巳さんと一緒にいる祥子さんを見ているとよくわかる。
当たり前のように過ごすこと、当たり前のように存在していること、それが祥子さんの一番心地よい時間なのだ。
だから私は、当たり前のように祥子さんに接することにした。
紅薔薇さまであることを忘れて。
小笠原家の娘であることを忘れて。
幼稚舎での出来事を忘れて。
それで私は、無事、祥子さんの一クラスメイトとなった。別にそれだけでも構わない。
私が祥子さんに憧れていたこと、それを祥子さんに知られないままでも一向に構わない。それは私の中のいい思い出としてとっておけるものだから。だったら、きれいなままの思い出を抱いていたい。
祥子さんの一クラスメイトとして記憶に留めてもらえるなら、それはそれでいい。
考えてみれば、幼稚舎の些細な事件など、いつまでも覚えているような類のものではないのだ。それに、似たような事件が私のいなかったリリアン初等部で、中等部で、起こっていなかったとは言えないだろう。なぜなら、祥子さんは幼稚舎の頃から今に至るまで、紛れもなく「小笠原祥子」であり続けているのだろうから。
今日も、私は日直としての仕事を祥子さんに手伝ってもらっていた。
祥子さんであるというのに理由はない。ただ、一番近くにいたクラスメイトに声をかけただけ。たまたまそれが祥子さんだっただけのこと。
心なしか、そういう時の祥子さんは喜んでいるように見える。
只のクラスメイトとして扱われることが嬉しいのかも知れない。
どんな形にしろ、祥子さんは理由のない依怙贔屓は嫌いなのだ。彼女にとって、「紅薔薇さまだから」クラスの雑事を免れてもいい、という考え方は我慢ならないもののようだった。
だから祥子さんは、クラスの当番は常に全力でこなそうとする。
当番の仕事内容自体に疑念を挟むことはあるようだけれども……前には、「パンを買わない人間にまでパン当番が当たるのはいかがなものかしら? パン売り場を利用する人間で当番を回した方がいいのでは?」と言っているのを聞いたことがある。
もっとも、パン売り場を利用する人間が常時固定されているわけではなく、祥子さん自身も卒業まで絶対にパンを買わないとは言い切れない、とたまたまそこにいた令さんに言われて引き下がっていたのだけれど。
「祐巳ちゃんが一緒にパンを食べましょう、って言ったら、紅薔薇さまは喜んでお付き合いすると思うけれど」
「そ、それは…。祐巳は私の妹だから、一人でパンを食べるというのを放ってはおけないわ」
「はいはい」
令さんは、なんのてらいも構えもなく祥子さんとつきあっている、数少ない一人だ。やっぱり、同格の黄薔薇さまであると言うことか大きいのかも知れない。
私には何もないけれど、それでも、祥子さんのクラスメイトの一人として、その他大勢ではなく、確かな一人として覚えてもらいたいと思っている。
これは、それほど身の丈知らずの願いではないだろう。
だから私は、祥子さんには只のクラスメイトとして接している。
ホームルームが終わって、帰り支度。
校舎を出て門に向かう途中で、一年生らしき体操服姿の生徒がなにやら慌てて追い抜いていく。
まだ高等部には慣れていないのか、立ち止まると辺りをキョロキョロと見回している。
「ごきげんよう。こんなところで慌てて走っては駄目よ」
私は思わず声をかけてしまった。
「慌てているようだけれど、何かお探し?」
「あ…」
一年生はばつが悪そうに頭を掻いている。
「あの……二年生を捜しているんですけれど…いつもこの辺りにいるはずなので」
「貴方のお姉さま?」
一年生は笑って首を振った。
「いいえ。クラブの先輩です」
私も一年生に釣られてキョロキョロと辺りを見る。考えてみれば、誰を捜しているかも知らないのだけれど。
「私も知っている人だったら一緒に探してもいいわよ?」
私の知っている二年生なんて、山百合会の二年生くらいしかいないのだけれど。
「バスケット部の本多美弥さまです」
当然、知らない子だった。
「あ…」
呟いた先に目をやると、白薔薇さまが妹と一緒に仲良く歩いている。
白薔薇さまの妹は当然一年生だから、この子が探している相手ではないし、白薔薇さまの名前は本多ではない。
私の当惑に気付いたのか、
「美弥さまは白薔薇さまと同じクラスですから。白薔薇さまがあそこにいると言うことは、やっぱりホームルームは終わっていると言うことなんです」
納得。つまり、ここで待っていればいずれ校舎から出てくるということ。
「そう、それじゃあ大丈夫ね」
立ち去ろうとするのと、その子が走り出したのが同時だった。
嫌な音に、私は振り向く。
倒れている一年生。
見事にその子が転んでいた。どうやら、慌てて走り出そうとして蹴躓いたらしい。
「大丈夫?」
私は駆け寄って、倒れている一年生の傍に座り込んだ。
一年生の膝小僧には血が滲んでいる。どうやら転んだ拍子にずるりと滑ったようだった。
「痛い? こんなところで急に走り出すから罰が当たったのよ」
そう言いながら私は、おかしなデジャブを感じていた。
ポケットから新品のハンカチを取り出す。ああ、そうだ。私にはあの日から一つの癖ができてしまったのだ。あの日、祥子さんと別れてから。
私はあれ以来、常にハンカチを二つ持っている。
一枚は私が使うためのごく普通のハンカチ。そしてもう一枚は……理由は自分でも説明できないけれどきれいな新品。今思うと、こんな瞬間が来るのを待ち望んでいたのだろうか。
私は新品のハンカチを一年生の傷口に当てた。
「あっ…」
「大丈夫、まだ使っていないからきれいよ」
いつかの祥子さんの立場に自分が立つこと。私はそれを夢想して、ハンカチを二枚持ち続けていたのかも知れない。
「後は自分で拭きなさい」
私は一年生の手にハンカチを握らせると、立ち上がった。
「あ、ハンカチ……」
「あげるわ。もう一枚持ってきているから」
そして私は、騒ぎに気付いた白薔薇さま達がやってくる前に、足早にその場を後にした。
銀杏並木の下に、ついこの前に知ったばかりの子が立っている。
手に持っている包みが二つ。一つは遠目からでもわかる、小さな紙袋。
「美冬さま」
私がハンカチをあげた一年生だった。
もしかして、ここで私を待っていたのだろうか。
「ありがとうございました」
きれいに折り畳まれたハンカチ。微かに清冽な香りもする。
「あげる、って言ったじゃない」
私の心は震えていた。
こんなことって。
一年生は小さな紙袋を差し出した。
頬をやや染めて、声も少し震えている。
「美冬さま、これ、ハンカチのお礼です。受け取ってください」
「チョコレート?」
私はつい口走ってしまった。
一年生の表情がきょとんとしたものに、ついで驚きに変わっていく。
「凄い、美冬さま、どうしてわかったんですか?」
「どうして、貴方が私の名前を知っているの?」
「白薔薇さまに教えていただきました」
何度か、山百合会の用事で祥子さんに会いに来た時に見かけられていたのだろうか。さすがは白薔薇さまだ、と私は思った。
「私、お菓子作りが趣味なんです」
一年生はニコニコと話しかけてくる。
私は心の中で苦笑していた。私はやっぱり、祥子さんじゃない。だから……
こんな子をあしらうなんて、できそうにない。
だから私は……。
私が誰にもロザリオを渡していないことを思い出して、この時期の一年生ならほとんどロザリオを渡されていないはずだということもついでに思い出して、そして私はふと尋ねた。
「貴方、いきなり引っ越したりしないわよね?」
きょとんと首を捻る一年生が何故だかたまらなく可愛く思えて、私は名前を尋ねていた。