織姫
「本当に助かったわ」
江利子がにこにこと笑いながら言う。
「まさかこんな本格的に降り出すとは思わなかったもの」
「傘、持ってなかったんだ?」
「いや、鞄の中に入れたつもりだったのよ? 本当よ?」
そう言われても、江利子が妙なところでそそっかしいのはもうわかっている。
「一人なら、雨の中うろうろしてもよかったんだけどね」
そう言って、江利子は自分の横に座る女の子をタオルで拭いている。
なんて優しそうな顔。令相手にも、そんな顔したことないくせに。
「私だって、江利子一人なら無視していたかもよ?」
「んー。仕方ないかもね。それに、一人なら兄貴の誰かを呼び出してただろうし」
「気を遣ってるの? 江利子が? あのお兄様方に?」
江利子にとってあのお兄様方は、大好きだけど便利な何でも屋、だろうに。
「あのね。別に、気を遣うとか言う訳じゃないのよ」
江利子は女の子の髪を拭いている。
「ただ、なんというか、向こうも嬉しくないだろうなと思うとね」
「雨の日に呼び出されるのはふつうにうざいんじゃないのかな?」
「こんなに可愛い妹に呼び出されるんだから、うちの兄どもは大満足よ」
確かに男どもは重度のシスコンなんだけれども、江利子はそれを確実に利用、というか楽しんでいる。
「それにしても、こんなところを一人で走っているなんて、どうしたのよ、聖」
「別に。たまたまよ。たまたま」
加東さんを迎えに行くつもりだった。
加東さんは月の初めからお父さんのところに帰っていて、今日下宿に戻ってくる予定。
だから今日は、駅まで車を出そうと決めていたのだ。
「七夕だから、織姫と彦星だよ」
「あのね、佐藤さん。ま、いいわ。どっちが彦星かは聞かないことにしておくから」
「冷たいなぁ、加東さんは」
「女同士で織姫と彦星って言われてもね」
「いいじゃない。新解釈の織姫と彦星」
「いらないわよ、そんな解釈」
でも、雨が降り始めた。
雨が降ると、織姫と彦星は会えないというのに。
車を出してすぐ、携帯が鳴った。
路肩に止めて、携帯にでる。
「はい?」
「ああ、佐藤さん? ごめんなさい。今日に予定が変わっちゃって。あと二日ほど残ることになったのよ。ええ、また連絡するわ」
「雨のせい?」
「え?」
「ううん、なんでもないよ」
「ごめんなさいね、佐藤さん」
「いいよ、気にしないで」
「それじゃあ」
「うん」
いきなりやることがなくなり、行く当てもなく街を流していると、どこかで見たようなおでこを見つけた。
角を回ってもう一度確認すると、やっぱり江利子。
幼稚園の前で七夕の飾りを抱えて、小さな子供と一緒に立っている。
「何やってるの、江利子。まさか、営利誘拐?」
「あら、聖。そうね、でも残念ながら山辺さんはそんなにお金持ちじゃないわよ」
ということは、この子が江利子の想い人、山辺氏の一人娘なのか。
「それとも、この子の身の安全と引き替えに結婚を申し込みましょうか?」
「お姉ちゃん、お父さんと結婚するの?」
「やま、お父さんが許してくれたらね」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんじゃないの?」
「お姉ちゃんはお母さんになるかもしれないのよ」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんで、お母さんはお母さんだよ?」
江利子の表情に一瞬指した影。
無理だよ、江利子。まだその子は理解していない。貴方はすごいハンディを背負って戦っているんだから。
「雨宿りのつもりなら、家まで乗っけてあげるわよ。どうせ暇なんだし」
「今、迷っていたところなのよ。雨の中を走るか、タクシーでも呼ぶかって」
「へいへい。佐藤個人タクシーでおま」
「ロハでお願いするわ」
「さすが元ロハ・フェティダ」
「…くだらないこと言ってると、濡れたまま車に乗るわよ」
「うう…。それはご勘弁」
山辺さんの家は幼稚園からそれほど遠くない、遠くはないのだけれども、口頭で道を伝えるのが結構たいへんだった。
こうしてみるとうちの兄ども、あれはあれで車に慣れていたのだろう。三人が三人とも、聖ほどには迷わずにたどり着いていた。
いや、待て。密かに妹の彼氏の家を調べていたのか? これまた三人が三人とも、それぐらいのことはやりかねないのだ。
それにしても、聖が一人でドライブなんて、そんなわけがない。
聖は、一人が好きで人見知りをするくせに寂しがりやなのだから。こんな雨の日に一人でぶらぶらしているはずがない。
誰かに振られてひとりぼっちになったのか?
蓉子? あり得ない。
私は心の中で爆笑する。
あの蓉子が聖を放っておく? あり得ない。はっきり言って、蓉子が聖を置き去りにするよりも、私が山辺さんを見限る方が確率は高いだろう。
志摩子? ああ、今の志摩子ならあるかもしれない。なんと言っても、今の志摩子には乃梨子ちゃんという存在がいる。乃梨子ちゃんなら、志摩子を聖から引き離すことができるかもしれない。
だけど、志摩子だって、聖を一人にさせるような子ではない。志摩子なら、乃梨子ちゃんと一緒にこの車に乗っているだろう。多分、仏頂面の乃梨子ちゃんと一緒に。
仏像マニアの仏頂面だ、きっと一見の価値はあるに違いない。
ということは、残るは加東さん? 詳しいことは知らないけれど、今の聖は加東さんとやらとよくつるんでいるらしい。聖もその辺りは気を遣ってくれないと。
蓉子の愚痴を聞く羽目になるのはどこの誰だと思っているのか。
一度しか会ったことはないのだけれど、加東さんは聖をないがしろにするような人には見えなかった。ということは、なにか不可抗力な事件でも起こったか、はたまた聖が一人合点気味なのか。
様子からすると多分後者、いや、前者と後者の合わせ技?
「…それで、加東さんはどうしたって言うのよ?」
言った直後、私は自分の浅はかさをちょっぴり後悔した。
事もあろうに、聖は急ブレーキをかけて後部座席の私に向かって振り向いたのだ。
「ちょっと、聖、危ないじゃないっ!」
「江利子、貴方、どうして知ってるのよ」
「あら、ビンゴなの?」
私は精一杯意地悪く笑ってみせる。ああ、こんな顔、由乃ちゃん以外に見せるのは本当に久しぶりだ。
「…江利子……」
聖の恨みがましい視線。うふふふ、それでこそ聖よ。
「ビンゴよ」
怒ったような声でそう言うと、車は再発進。
私は辛うじて笑いをこらえるのが精一杯。
「ここでいいの?」
そうこうしている内に山辺さんのアパートの前についた。
「着いたわよ、江利子」
「ありがと。聖、コーヒーでも飲んでいけば? お礼ぐらいはするわよ」
「いいよ。山辺先生とは初対面みたいなもんだし」
ああ、やっぱり人見知りなんだ。
「まだ帰ってないわよ。なんのために私が幼稚園まで迎えに行ったと思っているのよ。さっさと車を止めて。ほら、そこの角に駐車スペースがあるから」
ある程度強引でないと、聖は動かない。
「わかったわよ…」
渋々中に入ると、江利子は子供の濡れた服を着替えさせるからちょっと待って、と言い残して奥へと消える。
どうやら七夕の飾りは幼稚園で子供が作ったものらしい。
「後でお父さんに見せようね」などと話しかけている。
黄薔薇さまをやっていた頃からまだ一年も経っていないと言うのに、なんだか立派なお母さんに見える。当時のファン達に見せたらどうするだろうか。
少しすると、お礼だと言って、コーヒーを煎れて持ってきてくれる。
江利子の煎れたコーヒーなんて何年ぶりだろう。山百合会にいたときも、飲んでないような気がする。
ふと見ていると、ケーキまで出てきた。
「いいの?」
「残り物で悪いけれど召し上がれ」
なんだか妙な間を感じながら、一口食べると、
「ケーキの分も用事をお願い」
ま、予想はしていたけどね、流石よ、江利子。
封筒が一枚。
「これね、今夜までに渡さなきゃならないんだけど、この雨でしょ? 聖、帰るついでに届けてくれない?」
「届けるってどこによ」
「貴方もよく知っている所よ」
「だからどこよ」
「水野蓉子宅だけど?」
「蓉子?」
「はい、任せたわよ」
江利子は有無を言わせない調子で封筒を私のポケットにねじ込む。
「ちょっと待ってよ。なんなのよ、これ」
「渡せばわかるわ。行くの? 行かないの? ケーキまで食べておいて断るわけ無いわよね?」
「だまし討ちみたいなものじゃない」
「そんなことどうでもいいの。行くの? 行かないの?」
「わかったわよ。行くわよ」
「そう、貴方が着くまでには蓉子に連絡入れておくから」
結局、私は江利子の使いをすることになる。
「そんなこと突然言われても…」
と言いつつも、五分と経たない内に蓉子は承諾した。
「聖のために、お願い。貴方しかいないのよ」
蓉子を動かす最大最強のキーワード五つの内の二つを使ったのだ。動かないわけがない。
ちなみに残りの三つは、「祥子のため」「お姉さまのため」「祐巳ちゃんのため」
「それじゃあお願いね」
「仕方ないわね」
「織姫をよろしくね、彦星さん」
「え? ちょ、ちょっと、江利子!」
私はそこで電話を切った。
居間兼食堂に戻ると、七夕の笹が揺れていた。
ふと見ると、願い事が増えている。
私は、床で眠ってしまった子供を起こさないようにそっと笹を取り上げた。
新しい願い事は…
『お姉ちゃん“も”お母さんになれますように』
“も”ってなんだ。“も”って。
私はクスクス笑うと、寝付いた子供の隣にそっと座り、彦星の帰りを待つことにした。