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しまこねこ
 
 
 志摩子は三人分のお茶を煎れるとトレイに載せてテーブルへ運ぶ。
「あ、ありがとう。志摩子」
「ごめんね、後から来てお茶煎れさせたりして」
「いえ」
 私は一年生ですから、と言う言葉を志摩子は飲み込む。
 令さまなら、
「それを言うなら、私は黄薔薇のつぼみ、志摩子は白薔薇のつぼみ、つぼみ同士で立場は同じだよ」
 と返してくるだろう。
「あら。それじゃあまるで私が志摩子ちゃんいじめてるみたいじゃないの、令」
「いえ、そういう意味では…」
 江利子さまの言葉に令さまが慌てて首を振る。
「そんなつもりで言った訳じゃありません、お姉さま」
「ふふ、冗談よ、冗談。令も少しぐらいの冗談は流すようにしないと、生真面目なだけじゃ薔薇さまはやっていけないわよ」
「お姉さまの卒業なんて、哀しいこと言わないで下さいよ」
 令さまは本当に泣きそうな顔をしている。
 自分は、お姉さまの卒業の時どんな顔をするんだろうか。ふと、志摩子はそんなことを考えていた。
 哀しい、とは思わないかもしれない。
 そうやって口に出せば、恐らくは「冷たい人間だ」と言われてしまうのだろう。けれども、それは違う。
 自分が特別に情愛溢れる人間だと言うつもりはないけれど、それでも冷たい人間ではないつもりだ。ただ、感情を表すことが苦手なのだ。
 いつの頃からだろう、感情を表に出さないことが当たり前のようになっている自分。
 それが特に悪いことだとは思わない。感情にはいいものもあれば悪いものもある。表に出ないのはいい感情ばかりではないのだから。悪い感情も隠してしまうことができる。それは決して悪いことではないと思う。
 それに、お姉さまが卒業してしまうことは哀しいことではないのだ。それは、おめでたいことではないのか。
 今までの自分から新たな自分へと生まれ変わること。それは祝福こそされど、決して悲しまれるものではないはずだろう。
 残る者の感情が「哀しい」では、生まれ変わる者達があまりにも可哀想ではないだろうか。
 ……寂しい。そうだ、それが一番近い感覚だろう。
 佐藤聖という存在は希有なものだと思う。お姉さまと同じように自分に接する人は、もう二度と現れないような気もする。
 つかず離れず、干渉せず放置せず。我ながら、つきあう相手としてはなんと面倒くさい人間なのだろうかと思う時もある。
 お姉さまに出会うまでは、一番気軽に話せる相手はたまにしか会わない兄だった。
 今では、お姉さまがいる。話すこととてほとんどないのだけれど、傍にいるという感覚だけで何故か安心できる人。
「…こちゃん、志摩子ちゃん?」
 目の前に江利子さまが手をひらひらさせている。
「あ、は、はい」
「どうしたの? 志摩子ちゃん? さっきから呼んでいるのに」
 どうやら、考え事に没入してしまっていたらしい。
「ご、ごめんなさい、黄薔薇さま。ちょっと考え事を…」
「ふーん。もしかして、聖のこと?」
「え? それは…」
「今日は聖は来るのかしら? 志摩子ちゃんは何か聞いているの?」
「いえ。何も。私も今日はまだお会いしていませんから」
「うーん。人それぞれとはわかっているけれど、本当にしろ薔薇さんちは淡泊なのね」
 そんなものだろう、と志摩子は考える。
 いつもいつも一緒にいられる相手、というのは想像つかない。
 それでは、お互いに気疲れしてしまうのではないだろうか?
 現に、志摩子の知る限り一番仲のいい姉妹である令さまと由乃さんは今一緒にはいない。令さまも、たまには由乃さんから離れているのだ。
 少なくとも、自分にはそんな相手は必要ではない。いずれは妹も、そしてもしかするとリリアンも捨てなければならない時が来るかも知れないのだ。後に残すものは少なければ少ないほどいい。志摩子はそう信じていた。
「あの、ぼうっとして聞き逃したのですけれど、何か御用だったのでしょうか?」
 江利子さまは、用があるから自分の名前を呼んでいたのではないだろうか?
「あ、そうそう」
 江利子さまはポンと手を叩いた。
「志摩子ちゃんに見て欲しいものがあるのよ」
「見て欲しいもの…ですか?」
「そうそう」
 江利子さまは席を立つと、椅子を壁際まで持っていく。
「さあ、令。座って」
「はあ…」
 なんとなく不審そうな顔で令さまが椅子に座り直す。
「何をされるんですか?」
 つきあわされる令さまもわかっていないらしい。
「何って…催眠術よ」
「え?」
 志摩子は首を傾げる。江利子さまが相当の変わり者で好奇心旺盛なトラブル好きだというのは聞いているが、まさか催眠術とは。
「お姉さま、催眠術なんてできるんですか?」
「最近凝ってるの」
「なるほど…って最近!?」
「そう、覚えたてよ。かかってね、令」
 かかってね、とあらかじめ頼んでおくのは催眠術ではないと志摩子は思う。
「あ、あの、お姉さま?」
「少し黙ってなさい」
 江利子さまはポケットから紐に括り付けられた五十円玉を取り出すと、令さまの前でゆっくりと揺らし始める。
「いいわね、令。この硬貨をじっと見ているのよ」
「あの、お姉さま…」
「黙って見つめなさいっ!」
 江利子さまはしごく真面目な顔だった。
 令さまは、諦めたように硬貨を凝視している。
 志摩子は催眠術など眉唾物だと思っていたけれど、二人がこのあとどうするのかが気になって、じっと見ていることにした。
 しばらくの間、江利子さまは硬貨を振りながらお決まりの文句〜「だんだん眠くなる〜」等〜を令に向かって投げかけていた。
 そして…
「貴方は猫。猫になるのよ」
 令さまがくすぐったそうな表情を見せる。いや、もしかしてあの表情は困惑?
 突然「猫」と言われて困っているのではないだろうか。
「さあ、令、貴方は猫よ?」
 おずおずと手をあげる令さま。まるで招き猫のように高々と片手を上げている。
「にゃあ」
 令さまはハッキリとそう言った。
「成功ね」
 嬉しそうな江利子さま。今にも小躍りしそうだ。
「どう。志摩子ちゃん、凄いでしょう」
「凄いです、お姉さま」
 即座に術の解けたらしい令さまが手を叩いている。
 ……というか、令さまはかかった振りをしていただけではないのだろうか?
 嬉しそうに催眠術を駆使しようとしている江利子さまを見ると、令さまは多分逆らえなくなってしまったのだろう。
 短い期間の間に、志摩子は薔薇の館での人間関係をおおかた把握してしまっていた。
 令さまはとても優しい。多少の自分の不利益は、黙って飲み込んでしまう人だ。それでお姉さまが喜ぶのなら、催眠術にかかって猫の真似をする振りぐらい簡単にやってしまうに違いない。
 問題は、それはおそらく江利子さまにもわかっているだろうと言うことで。江利子さまは、実際に催眠術が効くとか効かないに関係なく、令さまならば江利子さまの言うとおりに動いてくれるだろうとわかっていてやったのだろう。
 江利子さまはそういう人で、令さまもそういう人。だけど、二人がお互いを大切にしているのは端から見ていても嫌というくらいよくわかる。
 それは、蓉子さまと祥子さまについても同じだ。
 では、自分とお姉さまは端から見ていてどう見えているのだろうか、今日の志摩子の考えはそういう方向に傾いてしまう。
「それじゃあ次は志摩子ちゃん」
「え?」
「志摩子ちゃんも催眠術で猫になってもらいましょう」
「え、あの、私は……」
「何よ。令を見物しておいて、自分だけは逃げるなんて許さないわよ」
 そう言われると困る。
「逃げるなんて」
「諦めなさい、人間諦めが肝心よ」
 これでは逃げるわけにはいかない。そもそもこの状態の江利子さまから逃げることは、蓉子さまでもない限り不可能だ。
「はい、このコインをよく見てね……」
 とりあえず、言われたとおりにした。さすがに猫の真似はちょっと遠慮したいと思うけれど、そこまでは仕方なくつきあうことにする。
 そしてお決まりの文句。
 志摩子は言われるままに目を閉じた。
 と、ほとんど同時に扉の開く音。そして江利子さまの言葉。
「しっ、静かに」
 誰が来たかはわからないけれど、江利子さまの制止でその人は黙ってしまったらしい。
「令。ちょっと状況を説明してあげて」
「あ、はい」
 令さまの足音。
「あの、白薔薇さま。これは、実は……」
 お姉さま!?
 志摩子は目を開けそうになって辛うじて堪える。
 どうしてこんな時に。
 よりによってお姉さまが。
 江利子さまはもしかしてわかっていてやっているんだろうか。
 江利子さまならそれぐらいのことはしかねない。
 でも、このまま突然普通に戻るのも悪いような気がする。どのタイミングで切り出せばいいのだろうか。
 考えている内に、令さまはお姉さまに状況を話し終えたらしい。
「へえ。それは見たいね」
「え?」
 これは令さま。どうして令さまが驚いているのか?
 多分、お姉さまに状況を話せば江利子さまを説得してこの状況を取りやめさせると思ったのではないだろうか。令さまが江利子さまを止めるわけにはいかないが、お姉さまが江利子さまを止めるのならばおかしい話ではない。そしてそれは、志摩子も少し期待していたことだった。
 江利子さまを止められるのは、蓉子さまでなければお姉さましかいないのだから。
「うん。是非見たいな。猫になった志摩子。さ、江利子、ちゃっちゃとやっちゃってよ」
「勿論よ、聖」
「あ、念のために聞くけれど、催眠術が終わった後に別に志摩子に悪影響はないんだよね?」
「当然でしょう。悪影響なんて残るようなこと、私が志摩子ちゃんや令にすると思う?」
「ううん、思わない」
 二人にやりとりを耳にしながらこの後どうしようか考えていると、再び江利子さまの指示が始まった。
 とりあえず従い、目を開く。
 当然のようにお姉さまがいた。ニコニコと微笑みながら志摩子のほうを見ている。
 あの笑みは……
 志摩子は心の中で溜息をついた。
 お姉さまは、全部判った上で江利子さまの悪ふざけに荷担している。あの顔は、何か別のことを楽しみにしている顔だ。
「志摩子猫、見たいな。とっても楽しみ」
 本当に嬉しそうな声。志摩子はなんだか、お姉さまの楽しみを壊すのが悪いことのような気さえしてきた。
「江利子、ニャーって言わせてね。ニャーって」
 江利子さまに言っているのだろうけれど、志摩子には自分への呼びかけに聞こえる。いや、実際に呼びかけなのだろう。
 これは、お姉さまから自分へのリクエストだ。
 嬉しそうな声。
「志摩子ちゃん、貴方は猫よ」
 江利子さまがついに問題の台詞を。
 そして志摩子は、お姉さまを見る。期待に輝く目で自分を見つめているお姉さまを。
 ああ。
 志摩子は突然理解した。
 催眠術は、相手を操るもの。
 だとしたら、江利子さまの催眠術は大成功だ。
 令さまが江利子さまに逆らえないように、自分のお姉さまには逆らいたくない。それも、あんな嬉しそうな、子供みたいな目で期待しているなんて。
 志摩子は手首を曲げて軽く握ると、腕を持ち上げた。
「ニャン♪」
 お姉さまが手を叩いて早歩きでやってくる。
 やや驚いた顔の江利子さまと、完全に驚いた顔の令さまが見える。
 どうして二人は驚いているの?
 志摩子は不思議そうに首を傾げた。
「いい子だね、志摩子」
 お姉さまがクスクスと笑いながら頭を撫でる。
「ええ。お姉さま」
 志摩子もクスクスと笑いながら答える。
 
 
 そして、もう一度、
「ニャン♪」
 
 
 
あとがき
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