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雪山奇譚
 
 
 止む気配どころか、弱くなる気配すらない吹雪。
「…連絡は、つかないの…?」
「携帯は通じない…通信機は壊れてる…どうしようもないよ」
「そんな悠長な!」
 祥子の言葉に、令は動じない。
「叫んだって仕方ないよ、祥子。今は救助を待つんだ」
「私は、祐巳と可南子ちゃんが心配なのよ」
「二人のことを心配しているのはみんな一緒だよ。だけど、今の私たちに何ができるって言うの?」
「令、貴方どうしてそんなに落ち着けるのよ! 二人が心配じゃ…」
「紅薔薇さま!」
 座っていた志摩子が立ち上がって叫んだ。
 普段物静かな志摩子の声に、言われた祥子どころか令も驚き、そして一番驚いているのは隣に座っていた乃梨子だった。
「いい加減になさって下さい。私たちだって、二人のことが心配に決まっているじゃありませんか…、紅薔薇さまだけじゃないんです、心配しているのは」
「志摩子さん…」
 寄り添うように自分も立ち上がると、乃梨子は志摩子を落ち着かせるように座らせる。
 ちらりと祥子を見た。非難とまでは行かないが、その目は祥子を軽くたしなめている。
「ごめんなさい、志摩子…。でも、心配なのよ」
「それはみんな一緒よ。落ち着いて…」
 
 
 祐巳は、うとうとと気持ちのいい温もりに包まれていた。
(あれ…? ここ、どこだろう?)
 確か、スキーにやってきて、山頂から滑っていたら突然の吹雪に襲われたのだ。
 スキーに…どこへ? 誰と? 
 思い出せない。
(あれ? 私、どうして…)
 頭が痛い。
「目が覚めました?」
 優しい声に目を向けると、長い黒髪の女性が立っている。
「…誰?」
 女性は首を傾げた。
「誰って……」
「わからない…。思い出せない…」
 女性はゆっくりと近寄る。
「まさか…」
 祐巳は目を閉じて必死で思い出そうとする。
 頭が痛い。それでも、大事なこと、忘れたくないことがある。
 髪の長い綺麗な人。そう、綺麗な人。
 大事な人。とても、とても大事な人。
 そうだ…………でも、顔は思い出せない。
 けれど、大事な人。とても大事な人。愛しい人。
 そうだ。名前…いや、呼び名…
「お姉さま?」
 女性は一瞬虚をつかれたような表情を見せた。けれど、すぐに微笑みを取り戻す。
「ええ。そうよ、祐巳」
「お姉さま…」
 もう一度口に出してみる。
 なんて、安心できる言葉。そう呟くだけで、全てが安心できる。なんの不安もなくなっていく。
 目の前の人がお姉さまなんだと思うだけで、祐巳は記憶を失った不安を半分忘れていた。
「そうよ、祐巳。安心して」
「はい、お姉さま」
「温かいスープよ。これを飲んで、今はゆっくり休みなさい」
 お姉さまは、祐巳の上半身を優しく起こす。
「きゃっ」
 そこでようやく祐巳は、自分が全裸であることに気付いた。
「ど、どうして?」
「祐巳、貴方、吹雪の中で遭難しかけて凍えていたから、暖めてあげたのよ」
 お姉さまはやや照れながら教えてくれた。
 え、もしかしてお姉さまが暖めて…?
 問うまでもなく、お姉さまの頬を見ているとそれがわかった。
 祐巳の頬も赤くなる。
「赤くならないで、祐巳。私まで恥ずかしいわ」
 でも、お姉さまが先に赤くなったんですよ。そう言いたいのを堪えて、それでもなんだか嬉しくて恥ずかしくて、祐巳は毛布を首元まで引き上げた。
 
 
 祥子はもう一度、周囲に集まっている友人達を見回した。
 令、志摩子、乃梨子。
 由乃は昨日の内に転んで足を挫いたため、瞳子とロッジに残っているはず。瞳子は普通にスキーができる状態なのだが、「お姉さまを一人にするのは気が進みませんわ」と言って自らの意志で残った。
 ちなみに、令が残ろうとするとなんだか怖い目で「黄薔薇さまは滑っていらしてくださいな。お姉さまには瞳子がついていますから」と、にべもなく追い立てたのだ。
 六人で、山頂まで運んでもらってから、滑り出したとたんに天気が変わった。
 すぐ目の前にあった山小屋に入るまでは良かったのだが、祐巳がバランスを崩して斜面を転がっていき、それを追いかけた可南子と共に姿を消した。
 すぐに探したのだが、吹雪は強くなる一方、二重遭難の危険を感じて一行は山小屋に戻ったのだ。
「大丈夫。仮に雪の中だとしても、この程度の時間なら命に別状はないよ。止んだらすぐに探しに行こう」
 令が力強く祥子を励ましていた。
 
 
 …温かい。
 心地よい暖かさ。
 ぬるま湯に全身が浸っている感覚。
 マッサージ。気持ちのいい小刻みな震動。
 …うん…
 祐巳は、ぼんやりとした意識の中で、胸元に重みを感じた。
「……」
 重みが、はっきりと人の姿をとる。
「!!」
 目を開けると、胸元に人の頭。後頭部の髪留めが視界に入る。
「お姉さま…?」
 お姉さまが、ばつが悪そうに顔を上げる。
「…あ、起きていたの? 祐巳」
 元々下がり気味の困り眉を、さらに下げて微笑むお姉さま。
「お姉さま、一体何を…」
「なんでもないわ。胸に耳を当てて脈を診ていただけよ」
 ベッドに腰掛けていたお姉さまは、そう言うと立ち上がった。
 とても、背が高いお姉さま。
 …?
 なにか、大切なことをもう一つ忘れているような気がする。
 なんだろう?
 祐巳はお姉さまの顔をじっと見つめた。
「どうしたの? 祐巳?」
「いえ…何か思い出せそうで…」
「無理はしなくていいのよ。祐巳には私がついているのだから」
 お姉さまの言葉は、あくまでも優しい。それも、表だけのものではなく、その裏の真心をちゃんと感じさせる、温かいものだった。
 
 
「大丈夫かな」
 由乃は窓の外を見ていた。
「心配いりませんわ。このゲレンデは瞳子も何度も来ていますけれど、吹雪いてもせいぜい数時間。少し山小屋で待機していればすぐに止みますわ」
「そうなの?」
 心配そうな由乃に、瞳子は肩をすくめてみせる。
「ええ。第一、このゲレンデには至る所にゲスト用の山小屋がありますの。仮に吹雪いて立ち往生してもね同じ所を堂々巡りしない限り、山小屋に着くか下山できるかのどちらかですわ」
 瞳子は座っていたクッションから立ち上がると、ポットに手を伸ばす。
「お姉さま、お茶のお代わりとお話の続きはいかがですか?」
「お茶は嬉しいけれど、お話しはもういいわ」
「どうしてですの? この山に伝わるお話しですわよ?」
「現場で怪談話っていうのもねえ……」
 
 
 ふと見ると、暖炉の横に脱がされた服が広げておいてある。
 乾かしているのだろうが、祐巳はそのうちのスキー帽に目を向けた。
「ユミ」
 大きな刺繍。
 あのスキー帽の刺繍をしてくれたのはお姉さま……。そうだ……。
 …大好きな、小笠原祥子さま。
 …この人は違う。
「どうしたの、祐巳?」
 祐巳は全てを思い出した。
 この人はお姉さまじゃない。
「どうしてこんなこと……」
 そこで祐巳は絶句した。
 違う。自分に害をなすためじゃない。
 ここにいるのは、お姉さまじゃない。けれど、自分をとても必要としている寂しい人なんだ。
 
 
「…雪女は可愛い娘を見つけると、そうやって自分のしもべとしてしまう…そんな伝説がこの山にはあるのですわ」
 ゴクリ
 由乃のお茶を飲む音が不必要に大きく響いた。
「寂しい雪女は、いつも一緒にいられる人を捜しているんですわ」
「…ねえ、瞳子…。雪女に攫われたらもう戻ってこれないの?」
 瞳子は昔聞いた話を思い出すようにほんの少しの間、目を閉じる。
「雪女は、自分の寂しさを本当に理解してくれる優しい娘だけは解放する、と聞いたような気もしますわ」
 なんとなくしんみりとした雰囲気になり、由乃は視線を外すように窓の外に目をやった。
 人影。
 瞳子の話した雪女と同じシルエット。
 突然、窓が外側から開かれ、雪と風がなだれ込んでくる。
「ひぃぃ!!!」
 叫ぶ由乃。その指さした先には、長い髪を振り乱した雪女が……
「瞳子さん! 由乃さま! お姉さまは戻っていませんか!」
 可南子だった。
「か、可南子ちゃん?」
「由乃さま。お姉さまは戻ってきていないんですか?」
 我に返る瞳子。
「…祐巳さま? 祐巳さまどころか、可南子さん以外は誰も戻ってきてはいませんですわよ?」
 可南子はそれだけを聞くと再び吹雪の中にとって返そうとする。
「可南子ちゃん! どこに行くつもりよ!」
「お姉さまが吹雪の中に取り残されているはずなんです!」
「落ち着きなさい、貴方が一人で行ってどうなるって言うのよ。吹雪が収まるのを待ちなさい!」
「そんな悠長なこと!」
 由乃と可南子の言い合いの中、瞳子はふと窓の外の風景に目を奪われた。
 ……ゴメンナサイ…
「??」
 何かが聞こえたような気がして一歩、吹雪の中へ踏み込もうとする。
「瞳子! 貴方まで!」
 慌てる由乃。けれども、由乃も瞳子の視線の先にあるものに気づく。
「…お姉さま?」
 すぐ目の前、絶対に今まで気づいていない訳のない位置に、祐巳が倒れている。いや、気づかないどころの騒ぎではない。そこは、紛れもなく可南子が通ってきた道。
 仮に由乃と瞳子が気づいていなかったとしても、可南子の気づかないわけがない。第一、可南子は祐巳を捜していたのだから。
 ただ、今がそれどころでないのも事実だった。
「お姉さま!!」
「祐巳さん!」
 可南子に続いて駈け出そうとした由乃は、窓枠に足をかけたところで足首を押さえてうずくまる。
「お姉さま、無理はなさらないでください。祐巳さまは瞳子と可南子さんが」
 由乃は仕方なく部屋に戻ると、祐巳を寝かせる場所をしつらえることにした。
 
 
 気がつくと、祐巳はよく知った三人を見上げていた。
 由乃さん。瞳子ちゃん。可南子。
「大丈夫、祐巳さん?」
「あれ……」
 誰かがいない。
 祐巳の表情を見た可南子が、悔しそうに言い添える。
「紅薔薇さまは、吹雪でまだ下山されてませんわ」
 祐巳は首を振った。
 由乃が不思議そうに続ける。
「志摩子さんも乃梨子ちゃんもお姉さまも、紅薔薇さまと一緒よ?」
「そうだよね…あれ、どうしたんだろ」
 祐巳自身、誰を捜しているのかがわからない。
 可南子がじっと祐巳を見ている。
「あの…お姉さま? スキー帽はどうされたのですか?」
 言われてみれば、スキー帽がない。
 ロッジ前で発見されたときから、祐巳はスキー帽をかぶっていなかった。
 スキー帽の上からかけていたはずのゴーグルはそのままだったのに。
「…誰かにあげたような気がする」
「はい?」
 由乃が難しい顔で聞き返す。
「祐巳さん、何言ってるの?」
 祐巳は由乃の顔を見てつい笑ってしまう。
「そんな不思議そうな顔しないでよ、由乃さん。私、夢でも見たのかな…」
 祐巳の語る途切れ途切れの夢の話に、由乃と瞳子の顔色が少し変わった。
「…それで、なんだか寂しそうな人がいたような気がするから、…私の帽子をじっと見ていたから、あげたの…」
 顔を見合わせる瞳子と由乃。何か言いかけた瞳子を由乃が目で制する。
「転んだ拍子に脱げたのよ。それにしてもさすが祐巳さん。夢までユニークだわ」
「由乃さん…」
 ううう、と反論したげな祐巳だけれど、それができる状況でもなく。
「あの、由乃さま…瞳子さん…」
 可南子が珍しくおどおどと二人に話しかけた。
 由乃はにっこり笑って立ち上がると、
「瞳子、ちょっと肩を貸してくれる?」
 瞳子に寄りかかって部屋を出る
 出ながら、由乃は瞳子に小さく囁いた。
「そっとしておいてあげるのよ」
 瞳子も小さくうなずき、囁き返した。
「ええ、きっと祐巳さまだけですもの。本当に理解できるのは」
 由乃はふと尋ねたくなったけれど、やめた。
「雪女を? それとも可南子ちゃんを?」
 そんな質問なんて。
 
 
あとがき
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