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SWEET&BITTER
 
 
 ♪〜♪〜
 鼻歌交じりのキッチンタイム。
 乃梨子の腕は軽やかに踊り、レンジからコンロへ、そしてテーブルへと運ぶ足取りは自然にステップを踏んでいる。
 ときおり漏れるクスクス笑い。
「なにやってんだろうね…」
 呆れたような菫子さんの呟きも、今日は耳には入ってこない。
 入ってきても気にならない。
 だってこんなに幸せだから。
 だってこんなに嬉しいから。
 誰かに何かを作ることが、こんなに楽しいことだなんて。
 台所仕事なんて、必要だからやるものだと思ってた。
 別に楽しくなんてない、ただの必要悪だと思ってた。
 料理が楽しいというのは、その後に食べる楽しみが待っているからだと思ってた。
 けれども、それは違うとはっきりわかった。
 食べる相手がいれば、料理はとても楽しいもの。自分が食べなくても、食べる相手の笑顔を想像することができれば、とても楽しいもの。
 今は志摩子さんのために。
 チョコレートケーキを作ること。
 ケーキを焼いて、デコレーションを考えて、チョコを溶かして、型にはめて、飾りを作って、クリームを塗って、盛りつけて。
「うまくできたもんだね」
「触っちゃダメだからね」
「別に、触る気はないけれど、美味しそうだと思ってね」
「菫子さんもやっぱり食べたいんだ?」
「いやぁ、そんなに大事そうに作っているリコを見てるだけでお腹一杯だから。それに、私の食べるぶんなんか残りそうにないんじゃない?」 
 意地悪そうに笑う菫子さんに絶句する乃梨子。
 それもそのはず、テーブルの上を良く見ると失敗した食材が所狭しと並べられている。
「そろそろ成功しないと、私どころか、本命に食べさせる分までなくなっちゃうよ」
「い、いいよ。失敗したらまた買いに行くもの!」
「成功させるとは言わないわけだ」
「う…だ、だって…ケーキなんて生まれて初めて作るんだもの」
「それだけ頑張っていたら上等だと思うけどね。志摩子さんだって判ってくれるわよ」
「うん…志摩子さんなら…」
 再び絶句して、乃梨子はマジマジと菫子さんの顔を見つめる。
「…どうして、志摩子さんのためだってわかったの?」
「どうしてって…」
 逆に呆れる菫子さん。
「他に誰がいるって言うのよ。まさか志村さんなんて言ったら笑うわよ? いえ、リコの行く末を本気で心配するわよ。年上好みにも限度ってものがあるからね」
「それはさすがにないと思うけど…」
 タクヤ君のことをすっかり忘れていた。もし会う機会があれば、安物でも何でも義理でも渡せば喜ぶだろうか?
 単なる製菓会社の陰謀に乗せられているだけなのだけれど、それでもこれだけ続いていると本物の伝統のような気もするから厄介だ。
 タクヤ君には確かにお世話になっているから、会う機会があるなら考えよう。そう結論すると、乃梨子は当面の問題に再び集中した。
 菫子さんは笑っている。
「そりゃあ、リリアンに染まりきったリコなんだから、スールにバレンタインのプレゼントの一つや二つ、当たり前じゃない」
「…染まりきってるかなぁ…」
 菫子さんは頷く。
「そりゃあもう、端で見ていて危なっかしいくらい」
「危ないって…何が?」
「このまま行くと、男の人を好きになることができなくなるかもね」
「な、なによ、それ。どういう意味?」
「ははあ、その動揺、思い当たる節アリアリだね。それだけ判っているなら、私の説明はいらないよね」
「菫子さん。考えすぎだよ」
「ふーん。それならいいけどね」
「そうだよ。それに、志摩子さんには普段お世話になっているから、バレンタインプレゼントくらい別に…」
 乃梨子は、口を尖らせて続ける。
「それに、祐巳さまだって祥子さまに、由乃さまだって令さまのために準備するって言ってたし、瞳子と可南子だって準備に走り回っていたもの」
「…結局、全部女同士じゃないのさ」
「仕方ないじゃない。みんなリリアン生なんだから」
「私の知る限りじゃ、バレンタインって言うのは女から男にチョコをあげる日だったと思うんだけど…」
「最近ではそうでもないのよ。友達チョコとか、知らないの? 遅れてるわよ、菫子さん」
「じゃあ、リコのそれは友達のためのチョコレートケーキなんだ?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、志摩子さんは、リコのお友達なんだね?」
 勿論。そう答えかけて乃梨子は思わず口ごもってしまう。
 言えない。そんなこと言えない。
 志摩子さんと只のお友達なんて、由乃さまや祐巳さまとや同じ立ち位地だなんて…。ましてや、自分から見た志摩子さんが瞳子や可南子と同じだなんて…。
 絶対嫌だ。
 菫子さんは、なんだか懐かしそうに乃梨子に微笑みかけている。
「ちょっと苛めすぎたかな? ふふ、気にしなくていいよ、リコ。素敵な先輩、いいえ、お姉さまに恵まれたって事なんだからね」
 うーんと、伸びをして。
「さあ、どっちにしても今日は台所が使えそうにないね…。久しぶりに何か店屋物でも食べようか」
 言われて始めて、時間に気付く乃梨子。
 どうやら、一日中台所にいたみたい。
「嘘。もうこんな時間?」
「呆れた。おかしいおかしいと思ってたら、やっぱり気付いてなかったんだ。よっぽど夢中になって作ってたんだね」
「うう…」
 事実なので、何も言い返せない乃梨子だった。
 
 
「ごきげんよう」
 マリア像にお祈りして顔を上げると、見知った顔が挨拶してくる。
「ごきげんよう、瞳子」
「乃梨子さんがこんなに足が速いとは思いませんでしたわ」
「足が?」
 きょとんとして聞き返す乃梨子。
 普通に登校してきて、普通にお祈りしていただけで、何も変わったことはしていない。
 第一、今日は壊れやすいもの〜ケーキを入れた袋を持っている。走ったりするわけがない。
「なんの話?」
「だって、先ほど、門の横で志摩子さまと一緒にいらしたでしょう? その紙袋は、そこで志摩子さまに戴いたものではありませんの?」
 そこまで言って、口を閉じる瞳子。その視線は乃梨子の背後に向いている。
 乃梨子は、ゆっくりと瞳子の視線を追った。
 志摩子さん。志摩子さんが登校してくる姿。
 その横に、聖さま。
 乃梨子は理解した。
 瞳子が見たのは、志摩子さんと聖さまだったのだ。
 多分、瞳子は志摩子さんしか見ていないのだろう。そして志摩子さんが一人ではないように見えたので、乃梨子と一緒だと思っていたのだ。
 でも、それは聖さまだった。
 志摩子さんは、聖さまと楽しそうに何か話しながら歩いてくる。そして、聖さまは紙袋を下げている。それが、瞳子の言った「志摩子さまに戴いたもの」なのだろう。
 ただし、受け取ったのは乃梨子ではなく聖さま。
 事態に気付いた瞳子はおろおろと三人を見比べている。
「あら、瞳子ちゃんに乃梨子。ごきげんよう」
「どうしたの、そんな所で二人揃って。そこに固まっていると他の子がお祈りできないよ?」
 志摩子に挨拶を返すと、瞳子は慌てて脇へ退いた。けれども、乃梨子はそのまま二人を見つめている。
「あの…志摩子さん。さっき、聖さまに何か渡したの?」
「ええ。バレンタインのケーキを」
 志摩子はニッコリと笑って答える。
「去年は、変な形になってしまったから、今年はきちんと渡したくて…」
「うん。私も嬉しい。ありがとうね、志摩子。ああ、それで思い出した」
 聖さまは、ポケットからガサゴソと何か取り出す。
「私も去年のこと、覚えてたから。お返しできなかった分をね」
 小さな包みだけれども、高級なものだと一目でわかる包装紙。
「今年は私からも、志摩子に」
「嬉しいです、お姉さま」
 あわわわわ、と口に出しそうな表情で、瞳子は乃梨子の顔を見た。
「……」乃梨子は無言で紙袋を正面に持ち上げる。
「志摩子さん、これ」
 二人の間には、ピンク色の箱。
「乃梨子、それは?」
「志摩子さんのために、生まれて初めて作ったの…」
「乃梨子…」
「チョコレートケーキ。今日は、バレンタインだからね」
「あちゃあ」
 突然、素っ頓狂な声を出したのは聖さま。
 三人の視線が向けられると、聖さまは頭を掻きながら、まだ志摩子が受け取っていない包みをポケットに戻す。
「ごめん。志摩子。これ、景さんに渡す分だった」
「え? お姉さま」
「いや、志摩子がチョコをくれたのが嬉しくてつい、ね。でもこれは景さんの分だから。志摩子には、乃梨子ちゃんのケーキがあるじゃない」
「聖さま…」
 乃梨子はプルプルと震えている。
「ん? なに、乃梨子ちゃん」
「いくらなんでも、無理があると思いませんか!」
「なにが?」
「そのチョコレート、誰がどう見てどう考えても志摩子さんのためのものじゃないですか!」
「…やっぱわかる?」
「わかりますよ!」
「あ、あの、乃梨子さん。マリアさまの前でそんなはしたない大声は…」
「瞳子は黙ってて!」
「はいっ!」
 何故か直立不動になってしまう瞳子。
「聖さま。変な気遣いはやめてください」
「気遣い? 私が? 乃梨子ちゃんに?」
 聖さまは首を傾げる。
「どうして?」
「どうしてって…」
「乃梨子ちゃんが折角作ったケーキを志摩子に渡すために待ちかまえているから? 私が身を退くとか?」
「そ、そこまでは…」
「そっか、乃梨子ちゃんは志摩子を独占したいんだね」
「わ、私は…」
「うんうん。わかったわかった。それじゃあ、今日の所は、志摩子は君のもの」
「え?」
「お姉さま?」
 聖さまは、ちっちっと指を立てて振る。
「ほら、志摩子。私は志摩子がリリアンで楽しく過ごしてくれるのが一番嬉しいんだから。今の貴方がリリアンで一番のびのびとしているのは乃梨子ちゃんといるとき。違う?」
「それはそうですけれど…」
 志摩子さんがちらりと乃梨子を見る。
「今日の所、というのはちょっと…」
「なに、嫌なの?」
 意外そうに聖さまが尋ねると、志摩子さんはニッコリと笑って、
「いいえ。短すぎるかな、と思って」
「し、し、しみゃきょしゃん!!??」
 乃梨子が声にならない声をあげてぐにゃりと膝を崩す。
 慌てて抱きかかえる瞳子。
「乃梨子さん? 乃梨子さん!?」
「あらあら。乃梨子。しっかりして」
 三人の様子に、苦笑して首を傾げる聖さま。
「うーん。なんか予定とは違っちゃったなぁ…」
 小さな呟きは、三人の耳には入らない。
 
 
 その日の夜。
 志摩子はケーキとチョコレートを食べた。
 とっても甘いチョコレートケーキと、一口サイズのビターなチョコ。
 これが乃梨子と聖さまの違い。
 けれども、志摩子はどちらも大好きだった。
 
 
 同じ頃…
「思ったより面白かったよ。なに、貴方あれをずっと楽しんでたわけ? ちょっと羨ましいよ」
「何言ってんの。貴方が志摩子ちゃんが来るまで妹を作らなかったせいでしょ? 私なんか、妹も孫も四月決定よ。たっぷり楽しめたんだからね」
「令と由乃ちゃんは元々従姉妹なんだから、早くて当たり前でしょ」
「まあね。それよりどう、孫いじめは?」
「うん。楽しい楽しい。これは癖になるよ。ありがとね、江利子」
「なんのなんの。その代わり、由乃ちゃんの妹情報は欠かさず仕入れてよね」
「大丈夫、志摩子に言ってあるから」
 電話口でクスクス笑う二人。
 やがて大きな笑い声。それは、二人がそれぞれの家族に注意されるまで続いたという。
 
 
 
 
あとがき
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