大人達を責めないで
4「因果の停止」
菫子さんには隠し事はできない。
乃梨子は今回ばかりは痛感していた。
「美味しいケーキ見つけたからさ、志摩子さん連れておいで」
「え?」
「テンパってるんだろ? そういうときには甘くて美味しいもの食べて忘れるのが一番」
「あ…わかる?」
菫子さんは呆れたように笑って言った。
「そうだね、リコと始めて会う人間なら気付かないかも知れないね」
そんなに、わかってしまうものだろうか?
乃梨子としては、できる限り菫子さんには心配をかけないようにしたいと、常日頃から意識しているのだけれど。
「とにかく、ケーキが来るのは日曜日だからね」
「ケーキが来る?」
「予約したんだよ。毎週日曜日に限定で出してるケーキだからね」
「そんなのがあるの?」
「ああ。だから日曜日、首に繩付けてでも志摩子さんを連れておいで」
「繩って…」
一瞬首輪を想像して顔を赤らめる乃梨子。幸か不幸か、菫子さんはもう乃梨子を見てはいない。
「うん、わかったよ」
そして日曜日、志摩子さんと一緒に菫子さんを待っている。
最近、嫌なことが続いていて志摩子さんも疲れ気味。それもこれも、全部貴子さんのせい。変な言いがかりを付けてきたあげく、未だにおかしな噂を流している。
もし乃梨子が山百合会の一員でなく、薔薇さま達に認められている存在でなければ、とうに噂に押しつぶされるか、友達全員に白い目で見られていたことだろう。
リリアンでの噂は簡単に鎮火していた。
一言、
「でも乃梨子さんは白薔薇のつぼみだし、紅薔薇さまや黄薔薇さまからの信頼も篤いのよ」
と言えばおしまいなのだ。
さらに、少し前ならこの手の話には喜んで飛びついていた新聞部も、
“根も葉もない噂に悩む山百合会”
というタイトルで、擁護派に回っている。
だから、悩むと言ってもそれほどのダメージを与えられているわけではない。
それでも、乃梨子は何かしら、貴子の存在が不気味だった。
何故自分たちに嫌がらせをしてくるのかがまったくわからない。
理由があれば、腹立たしいとしても納得はできる。しかし、今の乃梨子には恨まれたり、憎まれたりする覚えが全くないのだから。
不気味という言葉は当てはまらないのかも知れない。
これは…憎しみ?
自分は貴子を憎んでいる?
乃梨子はそこまで考えると、心の中で首をブンブンと振った。
せっかくの日曜日、志摩子さんが目の前にいて、そしてもうすぐ美味しいケーキがやって来るというのに、気が滅入ることばかりを考えていても仕方がない。今考えても仕方のないことは今考えない。明日考えても間に合うことは明日考える。それは菫子さんが教えてくれた、とても役に立つ処世訓だった。
気を取り直して、志摩子さんに向かい直す。
「志摩子さん、お茶のお代わりはいかが?」
「ありがとう、乃梨子。でも、今はいいわ。せっかくケーキの前にお腹が水分で膨れたら、勿体ないもの」
「それもそうだね」
志摩子さんと一緒にいれば、不安は軽減される。だからって、志摩子さんに甘えっぱなしでいいわけじゃない。乃梨子は努めて明るく振る舞おうとしていた。
他愛のない、だけどほんの少し努力して明るくしているおしゃべり。
現実逃避、という言葉が乃梨子の脳裏に一瞬よぎるけれど、とりあえず脇に置いておく。
ようやく、不自然な雰囲気がなくなったかと思った頃に、菫子さんが戻ってきた。
「お帰りなさい。すみ…」
一瞬、乃梨子は絶句した。
見慣れた菫子さんの後に二人。
「タクヤ…君?」
そして、
「…あ…」
「ごきげんよう、二条乃梨子さん」
貴子がいた。
父はお人好しだった。そんな父は嫌いではない。お人好しなところも大好きだった。
だから、父が人に騙されて商売の権利を失ったと言われても、「ああ、あの父なら仕方ない」
と思うことができた。
住んでいた家を手放して引っ越す羽目になっても、不思議と父を恨む気持ちは湧かなかった。卒業までなんとか誤魔化しながら通学し、卒業と同時に逃げるように〜事実上の夜逃げ〜引っ越して、同級生達のその後の連絡が付かなくなっても、両親に不平はなかった。
どちらにしろ、学園に未練は全くなかったのだから。
ただ、父の悔やむ顔、自分に頭を下げる姿は見たくなかった。
そんな父を見るのは嫌だった。
だから、誓った。
どんなことがあっても父のこんな姿はもう二度と見ないと。
父が騙されるのなら、次は自分が守ろうと。
幼馴染みは裏切っても、父は裏切らない。貴子はそう確信していたのだから。
二条乃梨子という存在に対しても、それは同じだった。
信じることなどできない。白薔薇のつぼみであれば、尚更。
だから貴子は、今目の前で起こっていることを信じることができなかった。
何故、愛美さんがここに?
この人は…誰?
「迂闊だったんだよ。私が知っていたのは、結婚前の名前だからね」
菫子はしみじみと言った。
「おかしなものさ。リリアンの流儀を忘れなかったおかげで、名字が変わっても気付かないでいたなんて。私が覚えていたのは下の名前だけだったもの」
貴子はまじまじとその顔を見た。
母が卒業後も親しくつきあっていた薔薇さま。小さい頃、何度か会ったことがある元薔薇さま。
それが、この人……?
「タクヤさんにも何度か会ったはずなのにね。私にとっては可愛い後輩の傍にいる単なる男、だったから全然覚えていなかったのよ。それがまさか…リコと知り合いになっていたなんてねえ。本当、世の中は狭いわ」
「貴子さん…ごきげんよう」
愛美が一歩進む。貴子は無意識に一歩退いていた。
「どうして? 今さら…」
愛美はそれ以上進まない。
「…貴子さんになら、わかってもらえると思ってた…」
堰を切ったように、愛美は語り始める。
貴子に甘えていたこと。
わかってくれると思っていたこと。
白薔薇さまにも甘えていたこと。
今は駄目でもいずれわかってもらえると思っていたこと。
気がついたときには、埋めようのない溝ができてしまっていたこと。
それでも埋めるべきだと白薔薇さまに忠告されたこと。
だけど、その忠告に従うことができなかったこと。
自分が白薔薇さまになったとき、もう戻れないことに気付いたこと。
自らを繕うために、貴子を犠牲にしてしまったこと。
言葉は涙に替わり、そして嗚咽となる。
愛美を連れてきた張本人〜菫子は、何も言えず固まっている貴子を優しく見つめていた。
「白薔薇さまは全部知っていたんだよ。貴子さんと愛美さんのことも。だから、全部自分のせいにして、自分を悪者にして謝ればいいって、全部白薔薇さまが悪いことにして謝ればいいって…。だけど…愛美さんにそんなことができるわけもなかったんだよ」
何も言えない二人に、菫子はその場を下がった。
「今なら、お互い言い残したことが言えるんじゃないかい?」
謝ることなんてない。
謝ることは何一つない。
愛美が謝ることなど何もない。
貴子は口に出せない想いを抱えている。押し込めて、蓋をして、自分でも忘れようとしていたことを。
そう、愛美が謝ることはないのだ。
悪いのは……自分なのだから。
我が侭だった、自分なのだから。
子供だった、自分なのだから。
「言えるわけ…ないじゃない…」
その言葉で、全ては理解された。
言えなかった言葉が、貴子の想いを告げていた。
永かった想いを。
謝罪を受け入れることなど、できるわけ無かった。
確かに、貴子の立場には同情の余地はある。けれど、言ってしまえば乃梨子と志摩子にはなんの関係もない。
乃梨子は、貴子の言葉を無視しようとしていた。
菫子さんの視線も無視。タクヤ君はすまなそうな顔をしているが、こればかりは別問題だ。そもそも、この件に関してはタクヤ君も被害者といえるかもしれない。
ただ、菫子さんの招いた客としての貴子を、乃梨子が追い出すわけにはいかない。それに、素早く用意されたケーキは悔しいけれど美味しかった。
物言いたげな菫子さんの視線は一切無視。ただ、美味しいお茶とケーキを志摩子さんと一緒に楽しんでいるだけ。それ以外のメンバーは無関係。
志摩子が、ケーキの最後の一欠片を口に運んだ。コーヒーカップを持ち上げ、中身を空ける。
「でも、良かったわ」
その言葉に、乃梨子は持ち上げたコーヒーカップを落としそうになる。
「志摩子さん?」
志摩子は、考え事をするかのように首を傾げて乃梨子に目をやると、そのまま頷き、微笑む。
「どうしたの? 乃梨子」
「今…良かったって」
「ええ。良かったわ。貴子さまと愛美さまのこと」
「え…」
「例え卒業なさった後でも、誤解が解けたのですもの。良かったと思わない?」
「それは…そうだけど」
志摩子が心の底からそう言っていることが乃梨子にはわかる。
少なくとも、今の志摩子の言葉は本物だろう。これまで志摩子が貴子をどう思っていたにしろ、今この瞬間においては、志摩子は貴子と愛美の関係修復を喜んでいる。
…私は、許すなんてそう簡単にできないよ。
乃梨子がそう言えるわけもなかった。
だから、乃梨子はただ頷いていた。
…私は、志摩子さんみたいにはなれないよ。
それは志摩子に対する乃梨子の讃辞でもあり、同時に寂しさでもあった。
「私…やっぱり駄目なんだ…」
タクヤ君と貴子さんが帰った後、乃梨子は片づけながら呟いている。菫子さんは、乃梨子の呟きを耳に入れながらも無視を続けていた。
これで数度目かの呟き。
「私、貴子さんが許せなかった。…多分今でも」
「乃梨子…」
手伝うと言って聞かない志摩子さんが、布巾の手を止めた。
「御免、志摩子さん…でも私は、志摩子さんみたいになれない…。凄いと思う、志摩子さんみたいになりたいと思うよ。けれど、…私は駄目…」
「リコ…勘違いしないでおくれよ?」
つっけんどんな言葉に、乃梨子は思わず顔を上げた。
志摩子さんの背後に立った菫子さんが、ようやく反応してくれている。
「私は、別に貴子ちゃんを許して欲しいなんて思っていないし、そんなつもりは元々無かったよ」
それじゃあ、どうして、と乃梨子は言いかけるが、その言葉を待たずに菫子が言葉を継ぐ。
「第一、志摩子ちゃんが許してくれたのは嬉しい誤算だったからね」
「私は…許すとか許さないではなくて…菫子さまが貴子さまとお知り合いだったことが、何かのお導きだと思えたから…」
乃梨子は改めて、志摩子さんがシスター志望であることを思い出す。
神のお導きとは、志摩子さんにとっては現実に起こりえることなのだ。
「リコ…私は貴子ちゃんをどう思って欲しいなんて言いたい訳じゃないんだよ。ただ、今回の騒動を納めたいと思ったのは確かさ。許すか許さないかは置いても、騒動を鎮めることはできるんだよ、大人同士のやりとりならね」
「そんなのって…」
理屈はわかる。だけど、そんなのは嫌だ。乃梨子は訳もなく嫌悪を感じている。
菫子さんは笑っていた。年上が年下を見やる独特の嘲りや諦めではない。それは、どちらかといえば憧憬に似ていた。
「大人になるとね、できることがたくさんできる代わりに、できないことも増えていくんだよ。だから、リコ、志摩子ちゃん…、貴子ちゃんでも愛美ちゃんでもタクヤさんでも私でもない…大人達を許しておくれ」
乃梨子が志摩子さんを見送り、家に戻ると、ダイニングで菫子さんがお酒の瓶を出していた。
「珍しいね。こんな時間に」
「たまにはね」
「…菫子さん」
「なんだい?」
「私、大人になりたくないなんて言わない。けれど、できないことを増やしたくないよ…」
「それじゃあ…」
菫子さんは瓶を持ち上げると、思い直したようにそれを棚に戻す。
「できることをできるままにしておきたいなら、強くおなり、好きな人をずっと守れるくらいに。優しくおなり、誰かにずっと守ってもらえるくらいに」
「……うん」
「…女は母親になれば誰でも強くなるし、妻になれば誰でも優しくなる…らしいんだけどね」
そういうと、菫子さんは笑った。
「もしかすると、リコもずっとそれがわからないでいるのかも知れないね」
「菫子さんは充分強いよ…うん。……優しいは…ちょっとわからないけど」
「……失礼な子だね」
二人は顔を見合わせて、今度は大声で笑う。
とにかく、解決したことを友人達に報告しなければならない。
特に瞳子と可南子には。
可南子はわがことのように喜んでくれた。無責任な噂に苦しむという意味では、そのつらさをよくわかっていたからなのだろう。
そして瞳子にも告げようとするが、つい可南子と話し込んでしまい遅れてしまう。休み時間には偶然雑用が溜まり、時間を作ろうと思っているうちに放課後が。
放課後になると、逆に可南子から話を聞いたという瞳子が乃梨子の所へやってくる。
「可南子さんから話は聞きましたわ」
なら、話は早い。
「ああ。それじゃあ、そういうことなの」
放課後は、久しぶりになんの憂いも無しに志摩子さんと薔薇の館で会える。
乃梨子はやや有頂天気味になっていた。
「御免ね、急ぐから」
自分が志摩子さんの所へ急ぐ理由は、瞳子ならわかってくれる。
乃梨子は立ち止まった。
背筋が寒くなる。
瞳子ならわかってくれる?
どこかで聞いた言葉。つい最近。
「御免、瞳子。やっぱりきちんと話をするわ」
乃梨子は、振り向いて駈け出した。
−終−