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絆創膏
 
 
 志摩子さんがおや、と言うように首を傾げた。
「乃梨子、どうして今日はニプレスなんてつけているの?」
「あ、これは…」
 乃梨子は苦笑しながら答える。
「違うよ、これは絆創膏」
「ああ、そういえば……。でも、どうして?」
「あはは…」
 困ったなぁ、と言う表情で乃梨子は頭を掻いた。
「それがね…」
「どうしたの?」
 志摩子さんの表情はますます混迷している。
「あはは…、噛まれちゃったの」
 ごおっ、と突風が吹いた様な気がして乃梨子は鳥肌を立てた。
 いや、突風と言うより冷風…否、吹雪。
「噛まれた……?」
 志摩子さんがこの世の者とは思えぬ眼差しで乃梨子を見つめている。
「し、し、志摩子さん……」
「噛まれたって……そんなところを? 誰に……」
 微笑んでいる志摩子さん。その微笑みが今は最大級に恐い。
「ねえ、乃梨子、誰に噛まれたの? ……瞳子ちゃん? それともお姉さま? まさか………祐巳さん?」
 名前が一人ずつ出る度に首を振る乃梨子。何か否定することを言いたいのだけれど、志摩子さんの不可思議な、けれど圧倒的なプレッシャーがそれを許さない。
「……もしかして、可南子ちゃん?」
 乃梨子のどこを見ていたのか、可南子の名前を出した直後にプレッシャーは消えた。
「そう……可南子ちゃんね……」
 ようやく声が出せるようになった乃梨子。
「あ、あの……」
「可哀想だけれど、可南子ちゃんにはお父さまのいらっしゃる新潟へ行ってもらいましょうか……」
「し、志摩子さん?」
「蓉子さまにだって、栞さまを聖さまから引き離して遠くへやることができたのですもの、私が乃梨子から悪い虫を引き離して東北の寒村へ追いやるなんて、赤子の手を捻るよりも、いえ、銀杏を素手で拾うよりも簡単なことだわ」
 別に可南子の実家は東北の寒村ではないし、それ以前に何か蓉子さまと聖さまのことについて非常に重大なことを志摩子さんが口走っているような気がするのだけれども、とりあえず山百合会の平和のためにその部分には乃梨子は耳を閉ざすことにした。
「ち、違うの、志摩子さん。可南子さんじゃないの。違うのよ」
「…乃梨子は優しいのね。ううん、私は乃梨子に怒っている訳じゃないわ。優しくて可愛い乃梨子を騙して食い物にした相手に怒っているだけよ」
「だから違うの、志摩子さん」
「いいのよ、乃梨子。貴方はこれから起こるどんな結果にも責任を感じる必要も痛痒を感じる必要も慈悲を示す必要もないの。貴方はただ、貴方を騙した悪魔の所行に対して静かに怒りを燃やしていればいいのよ、いえ、それすら必要ないわ、乃梨子の懺悔は私が聞いてあげるから」
「いや、だから違うの」
 乃梨子は仕方なく、事の顛末を語り始めた。
 
 
 瞳子と二人で、可南子の家に行った時のこと。
 たまたま、次子ちゃんを連れた夕子さんが遊びに来ていた。
 二人が、これまでの経過を知っているだけに顔を見合わせて何も言えないでいると、
「気にしなくていいの。ずっとこの調子だったのよ」
 可南子が溜息混じりに言った。
「お父さんとお母さんが円満離婚だったことは前に話したわよね。それどころか、お母さんと夕子さんも別に仲は悪くないの。それどころか、私があんなだったから言い出せなかっただけで、夕子さんとお父さんが正式に結婚した頃から、二人は普通に友達同士みたいになってたって……。さっぱりしているにもほどがあるんじゃない?」
 あまりに事の唖然とする二人に、可南子のお母さんは笑う。
「だってねえ…私は別にあの人と憎しみ合って別れた訳じゃないし、あの人が新しい彼女を見つけて、相思相愛で結婚したいっていうなら、止められる義理でもなかったし」
 なかなか、可南子のお母さんはドライな性格のようだった。
「まあ、相手が夕子ちゃんだったから、ね」
「お母さん、夕子先輩のこと、お父さんから聞くまで知らなかった癖に」
「何言ってるのよ。可南子の大好きな先輩でしょう? 貴方が大好きだって言う相手なら、それだけで人物は保証済みよ」
 乃梨子と瞳子は顔を見合わせる。ドライはドライでも、情の通ったドライみたい。
 瞳子は次子ちゃんを抱っこしている。
「次子ちゃん〜〜」
「瞳子、次私も」
 次子ちゃんは大人気。可南子は「次子に会いに来たの?」とムッとしている。
 そうこうしている内に、可南子のお母さんと夕子さんが立ち上がる。
「それじゃあ、私たちは出かけてくるから、お留守番お願いね」
「え、ちょっと待って、何も聞いてないわよ」
 可南子のお母さんは首を傾げる。
「今日、夕子ちゃんが次子ちゃん連れてくるって言ってなかったかしら?」
「それは聞いていたけれど…」
「じゃあ、そういう事じゃない」
「わからないわよ、お母さん」
「だって、夕子ちゃんが次子ちゃんを内にわざわざ連れてくるって言うことは、可南子に会わせるためなのよ?」
「うん」
「だから、今から半日くらい、ずっと会ってなさい」
「え?」
「幸い、貴方のお友達にも次子ちゃんは懐いているみたいだし」
 瞳子は次子ちゃんを抱いたままニッコリ頷く。本当に気に入っているらしい。
「瞳子は構いませんわ。ねえ、次子ちゃん」
 あうあうと笑う次子ちゃん。心なしかその目が縦ロールを狙っているように見えるけれど、多分気のせい。
「ほら、松平さんもこういっているじゃないの。お留守番していて。お菓子とかジュースとか、冷蔵庫に準備してあるから」
「……夕子さんも一緒に行っちゃうの?」
 恨めしそうな可南子の目に、乃梨子は少しドキッとした。
 あらら、可南子もこんな目するんだ。なんだか保護欲、というか母性本能をかきたてられるような哀れな眼差し。
「そりゃそうよ」
 哀れな眼差しも一刀両断のお母さん。乃梨子は、時々酷くドライな言動を見せつける可南子の原型が少し見えたような気がした。
「夕子ちゃんと買い物に行くのは楽しいの。誰かさんみたいに背ばかり高くて無愛想な子に比べて、小さくて愛想良くて可愛らしくて……、あの人がいなきゃ私が結婚したいくらいよ」
 うううう、と歯ぎしりせんばかりの可南子。
「わかったわよ、行ってきなさいよ。三人で留守番してるわよ」
 当たり前のように数に入っている瞳子と乃梨子。
 仕方ない。特に行かなければならない場所もないし、このまま可南子の家にいて困ると言うこともない。
 それに、
「別に、無理につきあわなくてもいいのよ、二人とも」
 可南子本人にこう言われると、じゃあつきあう、と言いたくなってしまう。
 くわえて、次子ちゃんの相手をすること自体はとても楽しい。
 瞳子も乃梨子も、赤ちゃんを間近に見るのは滅多にないことだから、物珍しさがまだまだ先に立っている。もちろん、物珍しさだけで赤ちゃんに接しているのがいけないことは、理性の部分でちゃんとわかっている。けれど、可愛いものは可愛い。それはまた別のことだから。
 結局三人はお喋りなどしながら、そして次子ちゃんと楽しく遊びながら、その日を過ごすことになった。
 
 
「乃梨子。……噛まれた話とまったく繋がらないのだけれど…?」
「その部分はこれからなの…」
「と、とすると…………相手はあのドリルかノッポなわけね…。今の内に平和な学園生活を満喫していればいいわ……」
「えっと…話、続けるね、志摩子さん」
 
 
 少しして、夕子さんの置いていった鞄を探っていた可南子が驚きの声を上げる。
「あ、どうしよう」
「どうしたの?」
 二人が尋ねると、可南子は空になった哺乳瓶を見せる。
「空なのよ。夕子さん、作り置きがまだあると勘違いしてたみたい」
「ミルクはないの?」
「ううん、粉ミルクが鞄の中にあるわ」
「じゃあ、それを使えばいいじゃないないですの」
 瞳子が次子ちゃんを抱いたまま言うと、可南子は首を振る。
「駄目よ。いえ、使うのはいいのだけれど…作り置きがないのよ」
「どうして? 今から作ればいいんじゃないの?」
 乃梨子の問いに、これも首を振る可南子。
「今からお湯を沸かして…湯冷ましにして、ミルクを溶かしたお湯と混ぜて、適温のミルクを作るの。お湯はポットにあるし、溶かすのもすぐにできるけれど、冷ますのに時間がかかるわ」
「濃い目のを作って水で割れば?」
「駄目。湯冷ましじゃないと」
「好き嫌いが多いのね」
「いや、好き嫌いっていう訳じゃなくて…」
 乃梨子には妹がいるとはいえ、年は一つ違い。赤ん坊の頃を世話したわけでもなく、瞳子も同じく、赤ん坊の世話の仕方は知らない。
 唯一経験者は可南子のみ。
「とりあえず、作っておきましょう。いつお腹が空いて泣き出すかわからないわ」
 まず、湯冷ましを作る。ポットの熱湯を入れ物に入れて冷ます。 
「こうしておけば…」
 可南子の言葉を待っていたかのように、次子ちゃんが泣き始めた。
 すぐにオムツを確認する可南子。
「……違う。やっぱりミルクみたいね」
 ミルクをあげたことは何度でもある。問題はない。
 ミルクさえあれば。
 けれど、そのミルクはない。いや、作ろうと思えば作れるのだけれど、まだ飲ませられる状態ではない。
「夕子さんかお母さんがいれば……」
「いても、お湯の冷めるスピードは変わりませんわ」
 せっせとあやしながら、瞳子が言う。
「夕子さんやお母さんなら、母乳が出るもの。現に、夕子さんは粉ミルクと母乳を交互にあげているし」
「そっか、オッパイをあげればいいのね」
 乃梨子は頷いた。
「じゃあ、可南子、よろしく」
「……はい?」
 きょとん、とした顔の可南子に、乃梨子はしたり顔で頷く。
「可南子の妹よ。可南子が責任持ってオッパイをあげなさい」
「……出ません」
「出なくてもいいの。オッパイを含ませるだけで次子ちゃんは安心するんじゃないかな。それにどうせ、本物のミルクができるまでの繋ぎよ」
「う……確かに…」
「悔しいけれど、三人の中で一番胸が大きいのは可南子だから」
 はい、と瞳子は次子ちゃんを可南子に渡す。
「う……」
 可南子の表情が歪む。その目が泣いている近子と、興味津々と自分を見つめている二人の間で揺れ動く。
「仕方ないわ……」
 可南子は着ていたシャツを裾からたくし上げる。
「あの…瞳子さん、乃梨子さん、そんなにまじまじ見ないでください」
「目の保養、もとい、後学のためですわ」
「右に同じ」
「うう…」
 可南子は胸元に次子ちゃんを近づける。
「次子ちゃん、はい……」
 数秒後……
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
 可南子は歯を食いしばりながら呪文のように呻いていた。
「どうしたの?」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
 心配そうに近づいた乃梨子に次子ちゃんを差し出す可南子。
「お願い、替わって…」
「え、ちょ、ちょっと、可南子…」
 その時、可南子の胸元に顔を近づけていた瞳子が「うわ」と声を上げる。
「痛そうな痕が…」
 え、とそちらを振り向いた隙に、手元に次子ちゃん。
「あ、ちょっと、可南子」
「お願い、乃梨子さん。これ以上我慢したら………」
 泣きそう、と言うより事実半泣きで可南子が訴える。
「千切れてしまいます」
 それはない、と言いたいのだけど断言もできず。
 次子ちゃんは再び泣き出しそうな気配。
「乃梨子さん、こうなったら、お互い腹をくくりましょう」
 静かに言う瞳子の目は決意に燃えている。どうやら、母性本能のスイッチが過剰なまでに入ってしまったらしい。
「乃梨子さんが千切れそうになったら、私が替わります」
 千切れる言うな。そういいたいのを堪えて、乃梨子は仕方なくシャツのボタンを外した。
 それにしても…なんで花も恥じらう乙女が三人揃ってこんなところで、乳首を千切られる危険に脅えているのだろう。
 
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
 瞳子に交替。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
 瞳子は可南子の肩に手を置いた。
「振り出しに戻る、ですわ」
「ゆ、湯冷ましは……」
 まだできていない。その温もりはまさに非情の宣告。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………」
「噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる噛んでる………」
 …………………………………
 
「鞄におしゃぶり入ってなかった?」
 帰ってきた夕子さんの言葉に、瞳子と乃梨子は可南子を睨みつける。
 
 
「と、いうことなの」
 乃梨子が語り終えると、志摩子さんはいつものように微笑んでいる。
「ああ、そういうことだったのね」
「うん。だけど、驚いたわ。赤ちゃんのオッパイを吸う力というか、噛む力、あんなに強いんだね」
「災難だったわね、ところで乃梨子?」
「なに?」
「傷自体は大したことないのでしょう?」
「う…ん。まあ、ね」
「だったら、よく言うじゃない」
「何を?」
 乃梨子の問いに、志摩子さんはニッコリと微笑んだ。
「こんなかすり傷、唾でもつけておけばすぐに治る、って」
 ゆっくりと乃梨子に近づいて、
「私の唾では、駄目かしら?」
 
 
 
 
あとがき
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