祐巳さんと可南子ちゃん
「なかきよ」中編その2
これは何かの冗談ですか?
可南子は口には出さなかったけれど、その表情が雄弁に物語っていたのかも知れない。
「うん」
可南子の表情に気付いたらしいお姉さまが神妙な顔で頷く。
「これが、お姉さまのお宅なの」
後部座席で隣同士に座ったまま、お姉さまは窓の外を示した。
窓の外には、塀が延々と続いている。そのうえ、塀の端が見えない。つまり、見渡す限りの塀ということ。
これが、本当に一個人の邸宅なのか。
「私も、始めて来たときはビックリしたもの」
広い。というより大きい。いや、さらに言うと、「どでかい」。
「大きいという話は聞いていましたけれど……。もしかして、リリアンより大きいのでは」
「どうだろう、比べてみたことなんてないからね」
柏木さんが、運転席から会話に参加する。
「それに、あまり広すぎても困る。小さい頃、へそを曲げたさっちゃんを探すのは大変だったからね」
違うのだろうけれど、嫌味のような気もしてしまう。これが人徳というものなのか。可南子は少し考える。
お姉さまはと見ると、なんだかムッとした表情。柏木さんが祥子さまをずっと昔から知っていると言うことを指摘されてしまって、悔しいんだろうか?
でも、そんな顔されると自分も悔しい。だって、お姉さまは夕子さんに向かってそんな顔はしないもの。可南子は、少しむくれたい気分になる。
「さて」
これもまた大きな門の前に車を止めて、柏木さんが呟いた。すると、祐麒さんが助手席から下りて門の横のインターホンを押しに行く。祐麒さん、なんだかんだ言っても柏木さんと息が合ってるんだ。
可南子がそう囁くと、お姉さまは苦笑していた。
「うん。私としては、祐麒がアブノーマルに引き込まれないことを祈るだけだよ」
……アブノーマルって。
そう呟くと、お姉さまはしまった、という顔になる。本当にお姉さまは百面相なんだな、と可南子はつくづく思うのだった。
「えーとね。柏木さんは、男の人が好きなの」
「え?」
なにかとんでもないことを言われたような気がする。
「それはちょっとした誤解だよ。僕は、男“も”好きなんだ」
それはつまり……
祐麒さんが戻ってきて会話は中断する。
「どうしたの?」
微妙な空気に気付いたみたいだけれども、可南子は何も言わない。お姉さまも。何故か柏木さんも。
「ううん、なんでもないよ。柏木さん、車動かして下さい」
お姉さまの言葉に恭しく頷くと、柏木さんは車を動かし始めた。
駐車場でもあるんだろう、と思っていたら……
……森?
……門の中が駐車場ではなかったの?
可南子は、マンションによくある駐車場側出入り口というモノを想像していたのだけれど、どうやら違うらしい。
門を潜ってもまだ車は走っている。さすがにのろのろと動いているのだけれど、歩いていくのは嫌だな、と思える距離は動いている。
そして、ようやく駐車場。それもそこらのコンビニの駐車場よりよっぽど広い。しかも屋根付きで、一台一台のスペースもたっぷりと取ってある。外車どころか、バスだって駐車できそうだ。
「本当に、広いんですね」
「うん。でも、お姉さまはお姉さまだから」
可南子は、一瞬首を傾げた。
「家の広さとか、そういうのとは関係なく、お姉さまはお姉さま。小笠原祥子さまは小笠原祥子さまなの」
ニッコリと、そしてハッキリと言い切るお姉さまの言葉に、可南子は恥ずかしくなってしまう。
「そうでした。ごめんなさい、お姉さま」
「別に、お姉さまだって、家の広さとかを自慢したくて招待して下さった訳じゃないのよ。可南子が驚くのはわかる。私だって最初はそうだったもの。だけど、驚かせるためにお姉さまは私たちを呼んだ訳じゃないもの」
「そうですね」
お姉さまの言葉に納得しながらも、可南子の心はやや微妙。
どうもお姉さまは、祥子さまのことをメインに考えている。
そんな、おかしなイジケ心が生まれてしまう。
みっともないなぁ、と自分でもわかっているのだけれど、それでもやっぱり止められない。だって、相手は祥子さまだから。
お姉さまが大好きな人。
お姉さまを大好きな人。
……やっぱり悔しいよ。
可南子は自分の中で自分に呟く。
「可南子?」
考えに沈んでいる内に車は止まっていた。
自分の荷物を持ち、お土産の袋を持って可南子は車を降りた。
お姉さまがいくつか持とうするけれど、可南子はその手を制して荷物を独り占めしてしまう。
「一人で持つには多すぎない? 祐麒にも持ってもらえば」
「大丈夫です、お姉さま。こう見えても、リリアン女学園バスケット部の次期エースですよ?」
言い切ると、可南子は荷物を両手に抱え込んで歩き始める。
柏木さんと祐麒さん。その後ろに可南子とお姉さま。
歩きながら可南子は、改めて廻りを観察していた。
広い。外から見てもその広さは充分にわかるものだったけれども、こうして中に入って改めて目の前の建物を見ると。
本当にこれが個人の家なのだろうか。
テーマパークの一部のように見える、すごく綺麗なアンティークの建物。
そして、大きな玄関。これも家の玄関というよりどこかのしゃれたレストランの入り口ではないのかと勘違いしてしまう。
「さっちゃんがお待ちかねだよ」
柏木さんが玄関の呼び鈴から伸びている鎖を引いた。
待ちかねていたかのように素早く鍵の開く音。
その素早さで、可南子はまた少し、嫌な気持ちになる。
祥子さまがお姉さまを待ち望んでいた様子じゃなくて……、
祥子さまが出てくるのを本当に嬉しそうに待ってらっしゃるお姉さまの様子じゃなくて……。
それを苦々しく思っている自分の心が嫌になる。
なんて狭いんだろう。私の心は。
でも玄関が開いた瞬間、可南子はその重みを一瞬忘れた。
綺麗な人がいる。
祥子さまがいるでも、綺麗な姿をしているでもない。
綺麗な人がいる。
その一瞬、頭の中身が抜けてしまったみたいに、素直な言葉しか思いつかなかった。
綺麗な人がいる。
こんな綺麗なのに。
あでやかな、けれど決して派手にはなっていない着物。一見質素に見えるけれども気を使うべき所、贅を凝らすべき所にはきっちりたっぷりと気を使い、贅を凝らしている。
それが見事に祥子さまの姿、そして笑顔を引き立てている。
可南子のような和服の素人が見ても高価だと思える着物を、祥子さまは完全に着こなし、自分を引き立てている。
本当にきちんとした着こなしというのは、門外漢が見てもわかるものなんだ、と可南子は素直に感心していた。
けれど、それもほんの少しの間だけ。
「いらっしゃい、祐巳、可南子ちゃん。優さんと祐麒さんも」
「お姉さま、あけましておめでとうございます」
祥子さまの美しさなんて、お姉さまの笑顔が打ち消してしまう。そんな風に言いたくなるほど、可南子から見たお姉さまの笑顔は素敵で、そして無防備なまでに開けっぴろげな嬉しさで。
だけどその笑顔は当然のように祥子さまに向けられていて。
「本日は、可南子と一緒にお招きにあずかりまして」
その言葉に気付いて慌てて可南子は頭を下げようとするけれど、荷物が多すぎてうまくいかない。
「あ、気を付けて」
さりげなく、祐麒さんが手をさしのべた。手が自然と触れた瞬間、可南子は慌てて手を引っ込める。
「あ、ごめん」
尚もゴメンと言いながら、祐麒さんは可南子の手から滑り落ちそうになった荷物を持ってくれる。
自分の態度に気付いた可南子は、引っ込めた手を戻そうとしたけれど、
逆の腕からずれ落ちていく荷物、
祐麒さんの助けの手、
下げようとしていた頭、
お姉さまの笑顔、
祥子さまの弾んだ声、
それらが交差して咄嗟にどうすればいいのかがわからなくなってしまった。
どさっ、と嫌な音がして、紙袋が一つ地面に落ちた。
めくれた袋から転がるのはたこ焼き数個。
「可南子!」
お姉さまの声に、可南子は顔を向けることができない。俯いたまま、顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
なんなんだろう。
車を降りるときに、無理に荷物を一人で持ったのは自分。
そして今、祐麒さんの手を振り払ったのは自分。
お姉さまが自分のお姉さまに会ってご挨拶して、嬉しいのが当たり前なのに嫉妬したのは自分。
馬鹿だ。とてつもなく大馬鹿だ。
きっとお姉さまは怒っている。こんな馬鹿なことをお正月早々、しかもこの場所でやってしまうなんて。
お姉さまに恥をかかせてしまった。最低だ。
どうしよう。でも、どうしようもない。
笑っている。怒っている。呆れている。失望している。
きっと廻りは……みんなは……お姉さまは……
「あらあらあら」
知らない声が聞こえる。
「どうしたのかしら? まあ、たこ焼きさんがこんな所に…」
俯いた視界、足下に転がったたこ焼きを拾う手が見える。
細く白い指。あくまで優雅に揃えられた指先。白魚のような指とは、こういう指のことだろうか。
「えーっと……、たしか、こういうときは、三分以内に拾えば汚くないのよね?」
可南子はその予想外の言葉に思わず顔を上げてしまった。品の良さそうな婦人がニコニコと笑いながら立っている。
姿と着ているもの、そしてこの雰囲気を見れば間違いようがない。この方が祥子さまのお母さまだ。可南子は確信した。
「……それは、三秒ルールという奴だったと思います」
廻りの妙な沈黙の中で、辛うじて祐麒さんだけが一言呟いていた。
「三秒だと汚くないのかい? 初耳だな」
感心したように柏木さんが言うと、
「ていうか、そういうジョークだよ、定番のっ」
祐麒さんが呆れ口調で返した。
「それじゃあ仕方ないわ。拾ってお掃除しましょう」
「私が」
可南子は荷物をきちんと持ち直すと、しゃがみ込もうとして、今度はその婦人に止められた。
「駄目よ。スカートを穿いた女の子がこんなところでしゃがんでは」
その間にお姉さまが可南子の横に立つ。そして、囁いた。
「どうしたの、可南子? もしかして、車酔い?」
口調に棘はない。いや、あるわけもないのだけれど。
お姉さまは怒っていない。いや、あんなことで怒るような人ではないと知っている。知っているのに。
可南子は改めて、自分の心にため息をつく。なんでこんなにイジケ癖が。変わると決めたはずなのに。
「では、僕とユキチが」
柏木さんと祐麒さんが、可南子がお姉さまに気を取られていた間にたこ焼きを全部拾って、落ちた紙袋に戻してしまう。
「勿体ないけれど、仕方ないね。犬でも飼っていれば良かったのだろうけど」
小母さまは可南子の肩を持ったまま言う。
「貴方が可南子ちゃんね? 祥子さんから話は聞いているわ」
こんなみっともない姿を見せてしまって……。そう考える可南子に、小母さまは驚くようなことを言う。
「祥子さんたら大変なのよ、家では貴方にヤキモチばかり妬いているんだから」
ヤキモチ……。祥子さまが?
でも、祥子さまとお姉さまはあんなに仲がいいのに。
「祐巳ちゃんを盗られた盗られたって、ほんの一ヶ月ほど前までは大変だったのよ?」
「お母さまッ」
祥子さまの声が耳に入らないのか、小母さまは我関せずで話を進める。
「だけど、さすがね、祥子さんにヤキモチを妬かせるだけあるわ。祐巳ちゃんが選んだのもわかる。可南子ちゃんって、とても可愛らしいのね」
可南子は驚くだけだった。ヤキモチもそうだけれど、可愛らしいって。
初対面でいきなりそんなことを言われたのは、初めて。
誰だって、初対面の可南子を見て思うことはただ一つなのに。
「可南子ちゃんは可南子ちゃんで、祥子さんは祥子さん。祐巳ちゃんはえらいわ。お姉さまにも妹にも、こんなに好かれているなんて」
ニコニコと小母さまは続ける。
「さあ、中に入りましょう。今日はいい天気だけど、お外は寒いわ」
なんだろう。
可南子は、さっきまでの憂鬱が嘘のように消えていったことを感じていた。
祥子さまが自分に嫉妬している。さっきまで自分は祥子さまに嫉妬していたのに。
そうなんだ。
一緒なんだ。自分も、祥子さまも。
二人とも、お姉さまが、祐巳さまが大好きだから、互いに嫉妬してしまう。
それがわかっただけでも、可南子の気は楽になっていた。
祥子さまが自分に嫉妬しているのなら、自分だって捨てたものではないのだろうと可南子は思う。なにしろ、あんな綺麗な人に嫉妬されるのだから。
「そうそう可南子ちゃん。もう一つ言っておきたいことがあるの」
「はい?」
「祥子さんはね、祐巳ちゃんの話になると、とても優しい顔をするの。そして、蓉子さんの話をするときはとても嬉しそうな顔をするのよ」
可南子は相槌を打ったけれども、小母さまが何を言いたいのかわからない。
「だけどね、最近は祐巳ちゃんの話に負けないくらいの優しい顔をするときがあるの。それが可南子ちゃん、貴方の話をするときなのよ」
可南子は、今度は別の意味で顔が熱くなるのを感じていた。
「あんなに嬉しそうにヤキモチを妬く話をするなんて、おかしいと思うけれど、それが一代離れた姉妹なのね」
以前に可南子は、祥子さまのお母さまもリリアン出身だとお姉さまから聞いたことがある。だから、小母さまにはわかるのだろう。
ということは、令さまと瞳子さんも。そして、聖さまと乃梨子さんも?
そう考えると、なんだかおかしくて。それぞれ二組の楽しげな嫉妬の様子を思うととても面白くて。
可南子は、いつの間にか微笑んでいた。
「そう、そんな風に笑うのよ、祥子さんも」
小母さまも笑っている。