お夜食
(お腹減った)
時計を見ると午前二時。
いつの間にかこんな時間。これじゃあお腹も空くはずだ。
でも、部屋には何もない。
こんな時、お姉さまの家だとすぐにお夜食が準備されるのだろうか?
「お呼びですか? 祥子お嬢さま」
ベルの音で呼びつけられたメイドが、ドアの外から声をかける。
「なにか、簡単な食べる物をお願いできるかしら」
祥子さまは、あくまで優雅に。間違っても、お腹が減ったなんて言わない。
「サンドイッチなどでよろしいでしょうか?」
「ええ、よくってよ」
うん、そんな感じに違いない。
祐巳は力強く自分に頷いた。
そんな想像をしていると、何か食べたい気持ちが余計に強くなる。
そもそも、祐巳はお夜食というものにずっと憧れていた。
夜中にふとお腹が減って何かを食べる。そんな話を聞く度に、何となく羨ましくて、そして美味しそうで。
だけど、今までそんなものを食べたことはない。そもそも、あまり夜更かしなんてしないのだから。
由乃さんが教えてくれた深夜ラジオは確かに面白くて、今夜は頑張って夜更かしをした甲斐があった。これで、お夜食を食べることが出来たら、祐巳の野望がまた一つ達成されたことになる。
よし。と祐巳は決断した。
乗りかかった船。
毒食らわば皿まで。
皿どころかテーブルまで食べてしまいかねない勢いで、祐巳は決断していた。
お夜食を食べる。そう、今が食べるにはいい時。
今がその時。
多分その時。
その時じゃないかな。
違う覚悟もしておこう。
祐巳はそっと忍び足で台所へ降りていく。
時刻は深夜二時。さすがに誰も起きてない。それほど大きな音でなければ誰かが起きてくるとも思えないのだけれど、やっぱりこういうことは忍び足でそっと動いた方がムードがある。
(見つからないようにしなきゃ)
別に見つかったとしても「お腹減ったから」と言えばそれで済むのだけれども、今の祐巳はすっかり秘密ムードの虜。とにかく密かに台所へ侵入して密かにお夜食を調達するのが目的になっている。
台所は当然真っ暗。
壁のスイッチを手探りで探しながら、祐巳はハッと気付いた。
(電気をつけたら見つかっちゃう?)
この辺りから、本末転倒という言葉が祐巳の行動に冠される。
(確か、非常用の懐中電灯がこの辺りに……!!)
足の小指がテーブルの脚を直撃する。
(!!☆★◎△>!%&>!!!??)
祐巳は必死で声を押し殺す。
思わずパジャマの裾をめくり上げて、がぶりと噛みしめる。
ひっひっふー ひっひっふー
謎の呼吸法でとりあえずやり過ごそう。
ひっひっふー ひっひっふー
ひっひっふー ひっひっふー
何回続けても、じんじんする痛みが小指に残っている。
このままひっひっふーしているとポロリと何かを産んでしまいそうな気がしたので、呼吸を元に戻す。当たり前だけど痛みは消えない。
(痛いよ、痛いよ)
ひっひっふーで駄目なら、昔ながらの民間療法で。
(痛いの痛いの飛んでけー)
それ療法違う。
でも、祐巳の飛んでけは一味違う。
(祐麒の所へ飛んでけー)
これで何となく痛みが収まったような気がするのが不思議。
そうこうしているうちに懐中電灯が見つかった。
カチリとつけて、冷蔵庫へ。
開けてみたけれど、すぐに食べられそうなものはなにもない。
場所を変えてみるとお鍋の中におみそ汁。おひつの中にはご飯。
ご飯をよそおっておみそ汁をかければ、ねこまんまのできあがり。
(なんだか貧乏くさい)
お夜食のイメージとはちょっと違う。
ちなみに祐巳のお夜食の三大イメージとは、「サンドイッチ」「おじや」「ラーメン」だ。
ねこまんまとおじやはかなり近い。かつおふりかけバージョンではなくて汁かけバージョンねこまんまだったら、そのまま火にかけるとおじやになりそうな気がする。
だけど、コンロは使えない。
コンロを使うと音が大きい。それに火を使うとお母さんが起きてきそうな気がする。
(見つかっては駄目よ)
何故、とか、どうして、とか、もうそういう問題はとっくに越えていた。
とにかく、見つかってはならない。祐巳のお夜食調達は絶対に見つかってはいけないのだ。理由はないけどとにかく駄目なのだ。
火を使わないとなると、当然ラーメンも問題外。そうなると残った選択肢は一つ、サンドイッチだ。
もう一度冷蔵庫へ。
卵はある。ハムもある。レタスもある。トマト、キュウリ、チーズ、ツナ缶詰、玉ねぎ。
論外なものもある。卵は生ではどうしようもないし、玉ねぎも水にさらすことを考えたら手早くできるとは思えない。
チーズは平べったい面状のもので、最初からパンに挟むために買ってあるものだから問題なし。ハムも同じくひらひらのものだ。
レタスをちぎって使えば包丁やまな板を出す必要もない。
ツナは、缶詰を開けるのはいいけれど一缶全部を食べきることなど出来るわけがない。
具は決まった。
チーズ、レタス、ハム。
立派なハムサンドが出来そうだ。
選んだ具をテーブルに乗せておいて、そろそろと移動。パンの置いてある棚の前へ。
さっと引き戸を開けて手を差し込む。
……?
ひょいひょいと手が動く。
……?
パンがない。
食パンがない。
買い置きがない。
何もない。
(……パ、パンがなければお菓子を食べればいいのよ!)
嫌だ。それはイメージしているお夜食とはちょっと違う。それに、せっかくせしめたチーズとレタスとハムを冷蔵庫に戻すのもなんだか癪だ。
(何か代わりになるもの……)
そうだ。お父さんが、ビールのおつまみにクラッカーを食べていたような気がする。
クラッカーは確か、パンを入れる棚の隣。
……
……
……
あった。クラッカー。
そそくさと取り出すけれど、大きさは一口大。とてもじゃないけれど具を挟めるようには見えない。
いやいや。オープンサンドでいい。乗せるだけでいい。
クラッカーを手に、テーブルへ。
そして、お皿に全てを乗せて部屋に戻る。
祐麒の部屋の前を通るときはことさら注意して。
うまくいった。
機嫌良く、小さな声で鼻歌なんて歌いながらクラッカーにハムやチーズを載せる。
我ながら、結構見栄えのするものが出来た。と祐巳は自画自賛する。お夜食と言うよりも、パーティに出てきそうなおつまみだけど、それはそれで美味しそう。
と、そこで忘れ物に気付いた。
飲み物がない。
いちいち作るのはなんだか面倒くさい。
だけど、飲みものなしでこれを食べるのか、と思うとそれだけでもう喉が詰まりそう。
仕方ない。ただの牛乳で充分。それなら、冷蔵庫から出して持ってくるだけだから。
祐巳はもう一度階段を下りた。
冷蔵庫をそっと開けると、紙パックの牛乳がいつも入っているドアポケットを見る。
今日買ったばかりのめんつゆがちょこんと鎮座している。
めんつゆはいらない。
視線を横にずらすと、まだ封を開けていない紙パック牛乳が横に並べておいてある。
祐巳は一番上の一つを手に取った。
(あれ?)
さっきは気付かなかったものが冷蔵庫の中にある。牛乳パックの後ろに隠れていて、さっきは気付かなかったものだ。
(こんなのあったっけ?)
箱が一つ。いかにも、食べる物が入ってそうな箱。
そう言えば、祐麒が何かお土産をもらったと言っていたような。他にも何か言っていたような気がするけれど、思い出せない。
でも、中を見るくらい、構わないだろう。
箱を取り出して開けてみると、中にはお饅頭が入っている。
(一個ぐらい、いいよね)
ぱくり
ぷぎゃああああああああああああああああああ
叫びそうになって、慌てて意志の力で堪える。
火の塊を飲み込んだ。いや、トゲトゲの塊か。
正解は、ワサビとカラシの混合物。
激しくイヤイヤをしながら、音を立てないように器用に台所の床で悶え苦しむ祐巳。
水、水、水!!!
忘れていた。今目の前には牛乳パックがある。
震える手で牛乳パックを開けようと。
祐麒は妙な夢で目を覚ました。
机の角に小指をぶつけた夢。それも、何故か我が家の台所で。
なんだか、本当にぶつけてしまったような気がする。気のせいか、鈍痛までしているのだ。
足音。
部屋の外で足音。
時計を見ると午後二時を過ぎていた。こんな時間に祐巳が起きているとは思えない。我が姉ながら、早寝早起きの健康優良児なのだから。
かといって、泥棒とも思えない。
そっとドアを開けてみると、祐巳の部屋のドアが開いている。電気までついているのだから、起きているのだろう。
「祐巳?」
小さい声で呼びかけても返事はない。ドアをノックしても同じ。
中を覗いてみると、誰もいない。
尿意で目が覚めてトイレにでも行ったのかと思ったけれど、部屋の様子から見て寝ていたわけではないようだ。
何かある。
ベッド脇に何か置いてある。
美味しそうなクラッカー。
「なんでこんなもの?」
(一つくらい、いいよな)
ぱくり
美味しい。
ぱくり ぱくり ぱくり
ふと気付くと、何も残ってない。
(や、やばいっ!!)
つい、全部食べてしまったのだ。
恐るべし、育ち盛り男子の食欲。
(どうしよう……あ、饅頭が……)
小林にもらった饅頭がある。あれを代わりに……
いや、駄目だ。饅頭の箱には明らかに一度開けた跡があったし、さらには自分が受け取ったときのあの小林の妙に嬉しそうな顔。そしてトドメは小林の言葉、
「お前のために買ったんだからお前が全部食べてくれよ。特に祐巳ちゃんには絶対開けたりするなよっ!」
仕掛けがあると白状しているようなものだ。
そんな饅頭を祐巳に食べさせるわけにはいかない。
祐麒は少し悩んで、とりあえず今夜は何も見なかったことにすることに決めた。謝るとしても明日。
急いで部屋に戻って布団の中に入る。
這々の体で祐巳は部屋に戻った。
牛乳をほとんど1パック飲みきって、それでもまだ口の中はひりひりしている。
部屋に戻ると、お夜食は影も形もなかった。
(なんで?)
いや、あったとしても、今の状態では食べられなかっただろうけれど。
仕方なく、布団に入る。けれど、唇がひりひりして眠れるわけもない。
祐巳は涙目で誓った。
もう、お夜食が欲しいなんて言わない。
休み明けの月曜日、祐麒は祐巳からの差し入れを花寺生徒会に運ぶ羽目になった。
勿論、小林に食べさせるためだということは言うまでもない。