SS置き場トップに戻る
 
 
 
玉手箱
 
 
 
 なんだか、おかしなものが歩いてくる。
 よたよた、よろよろ。今にも転びそうな姿は、大きな荷物をかかえた女の子。
 決して小さくはないダンボール箱を三つ重ねてかかえているので、満足に前を見ることもできないようだった。見ているだけで危なげな様子に、奈緒美は慌てて駆け寄る。
「あの、大丈夫ですか?」
 駆け寄る気なんて無かったし、そもそも見ず知らずの相手に声をかけるなんて奈緒美にとっては大冒険。だけどその時はそんなことよりも、今にもすってんと転びそうな姿が気になってしまったのだ。
「あ、うん」
 荷物を抱えていた子は返事をする。
「なんとか……」
 返事をしながら、女の子は視線を奈緒美に向けようとしている。
 それがきっかけになったのか、女の子は「アッ」と呟くと、明らかにバランスを崩した様子で奈緒美のほうへ倒れ始めた。
 きゃっと、叫んで逃げようとするけれど、逃げられないのが奈緒美の運動神経。見事に荷物の下敷きになってしまう。
 幸いなことに、荷物は大きさに反して非常に軽いもので、女の子が持ちにくそうにしていたのは単にバランスの問題だけのようだった。
「大丈夫!?」
 女の子が慌てて、奈緒美に手を貸して荷物の下から助け出す。
 結局、自分のしたことは単なる邪魔だったらしいとわかって、奈緒美は凹みながら荷物の下から這い出た。
 結局、いつもこうなってしまう。何かしようとするといつも他人の邪魔になってしまう。奈緒美にとってはある意味慣れっこな出来事だ。
 凹んでいる姿を勘違いしたのか、女の子はさらに様子を気にしている。
「どこか、痛いの?」
「い、いいえ。大丈夫です」
 良かった、と胸を撫で下ろす姿を見て、奈緒美は驚いた。
 そこにいたのは奈緒美と同じくリリアン学園高等部の一年生。勿論、ここはリリアンの敷地内なのでそれは珍しいことではない。でも、そこにいた一年生はただの一年生ではなかったのだ。
 高等部一年生での一番の有名人、白薔薇のつぼみこと二条乃梨子さんその人だったのだ。
「あ、あの、ごめんなさい、白薔薇のつぼみ!」
 首を傾げる乃梨子さん。
「どうしたの?」
「あの、私、白薔薇のつぼみだなんて気付かなくて」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「ごめんなさい」
 奈緒美はとにかく頭を下げ続けた。リリアンの山百合会といえば、一人一人にファンクラブまで存在するほどの人気者なのだ。その相手にこんなことをすればどうなるか、外部受験組の奈緒美でも想像はつく。
 山百合会の一人、白薔薇のつぼみを転ばせてしまった。これが他の人に知られたらどうなるか。
 その場を足早に立ち去ろうとする奈緒美。その肩を、乃梨子さんがしっかと掴む。
「ひぃっ!」
「どうしてそこで悲鳴なの?」
「何やってんのよ、乃梨子ちゃん」
 そこに現れた第三者に、今度こそ奈緒美は本物の悲鳴を上げそうになった。
 黄薔薇のつぼみ、又の名を山百合会の暴走機関車、島津由乃さま。
 噂によると、かつて自分のスールでもあり従姉妹でもある黄薔薇さまにロザリオを叩きつけたという剛の者だ。その怖さは乃梨子さんの比ではない。
「あれ? こちらは?」
 由乃さまが奈緒美に初めて気付いた様に言う。
 奈緒美は思った。自分は今、蛇に睨まれた蛙を実感している、と。
「今、荷物をぶつけてしまったみたいなんです」
「乃梨子ちゃん、一人で張り切るからよ」
「って、由乃さま、手伝ってくれなかったじゃありませんか」
「う、心臓が」
「もうとっくに治ってるって聞いてますよ」
「あはは、ばれてるか。じゃあ私も持つわ。三等分しましょう」
 三等分という言葉に奈緒美は、密かに立ち去ろうとしていた足を止める。いつの間にか自分が参加することが前提になっているらしい。
「ここであったのも何かの縁よ。手伝ってもらえない?」
 由乃さまの言葉に、さすがに乃梨子さんは付け加える。
「薔薇の館まで手伝ってもらえたら、お茶くらいはご馳走するわよ」
 薔薇の館。山百合会の中心部、本部。神聖にして侵さざる聖域。それが、奈緒美を初めとする一年生の素直な感想だ。
 何しろ、薔薇の館に集っている山百合会幹部というのは、各学年からたった三人しか選ばれないと言うエリート集団なのだ。
 その頂点とも言える今の三薔薇さまを見ていると、まさに才色兼備という言葉はこの人達のためにあるんじゃないかと言いたくなる様なそうそうたるメンバーなのだ。
 白薔薇さまこと、藤堂志摩子さま。美少女揃いのリリアンでも群を抜いて目立つ可憐さの持ち主。さらに環境委員会では率先してリリアンの銀杏並木を守り、育てている。物腰も柔らかく、人に対して角を立てた所など誰も見たことがないと言う、もっぱらの噂だった。
 黄薔薇さまこと、支倉令さま。剣道部でも一二を争う実力者。その実力は校外にも鳴り響いている。そのうえ、いざお面を外せば宝塚かと見まがうばかりの凛々しい姿。そして騎士道精神を具現化した様な思いやり溢れる言動。人気という意味では確実にトップなのがこの黄薔薇さまなのだ。
 そして、紅薔薇さまこと、小笠原祥子さま。かの小笠原財閥の一人娘にして成績優秀、近寄りがたいと言っても過言ではない美貌の持ち主。それでいて余人を寄せ付けない様な厳しさも匂わせる姿には、ファンというよりも信奉者が溢れんばかりなのだ。
 その三人を中心に、それぞれに選ばれた妹、二条乃梨子さん、島津由乃さま、福沢祐巳さまが集まっている場所。奈緒美達にとってはある意味、リリアン内では校長室や理事長室以上にVIPという言葉の相応しい場所。
 その薔薇の館に誘われるというのが一体どういうことなのか。
「い、いいんですか?」
 現金なもので、乃梨子さんが怒っているわけではないと確認したら、さっきまでの怖さが嘘の様に消えている。
「いいもなにも、手伝ってもらってお礼もせずに、はいさようならじゃ寝覚めが悪いじゃない? お茶ぐらいならお安い御用よ」
 由乃さまが、よいしょと箱を一つ持ち上げながら言う。
「さ、そうと決まればさっさと行きましょう。私もお茶が飲みたいし」
 残った二つの箱を乃梨子さんと分けていると、乃梨子さんが「困ったものね」と言いたげに苦笑をしてみせる。
 奈緒美はどうしていいかわからずに曖昧に、微笑むだけだった。
 
 薔薇の館へ入った瞬間、今度こそ奈緒美は心臓が止まるかと思った。
 三薔薇さまが揃っている。そして、奈緒美の姿を認めるとにっこり笑ってそう言ったのだ。
「ごきげんよう」
「ひゃいっ、ごきげんよう」
 緊張の余り、声が裏返ってしまった。
「三つも箱があったの? それじゃあ私も行けば良かったかな」
 そう言いながら由乃さまの荷物下ろしを手伝っているのは祐巳さまだ。
 つまり、山百合会が全員揃っていることになる。
「この子は?」
 黄薔薇さまが由乃さんに尋ねていた。
「荷物を運んでいる途中で、乃梨子ちゃんにいじめられてたから助けてあげたのよ」
「なんでそうなるんですか!」
 乃梨子さんは、慌てて荷物を床に置いた。
「由乃さまが私一人に三つも持たせるから、前が見えなくてぶつかってしまったんです。それで謝っていたら、由乃さまが来たんじゃありませんか」
「そうだったかしら? まあ、枝葉末節ね」
「どの辺が!」
「いいじゃない、それより、約束通りお茶よ。手伝ってくれたらお茶をご馳走するって言う約束だったはずよ?」
「あ、それじゃあ私が」
 祐巳さまがはずむ様な足取りで、台所へ向かおうとすると、乃梨子さんが慌てて止める。
「祐巳さま、一年生は私ですよ?」
「乃梨子ちゃんは荷物を運んできたんだから、今日は私が煎れるよ」
 奈緒美はそのやりとりを見ながら、目をまん丸に見開いていた。
 なんて気さくなんだろう。紅薔薇のつぼみともあろう人が。
 奈緒美はもっと落ち着いた大人びた人を予想していたのに。
 けれど、それが不愉快というわけではなかった。いや、却って祐巳さまの行動で山百合会に少し親しみを持てた様な気がする。
「待って、祐巳さん」
 じっと座ってニコニコと見守っていた白薔薇さまがやおら立ち上がると、祐巳さまに向かって歩き始めた。
「その……」
 白薔薇さまがじっと自分を見つめていると気付いて、奈緒美は真っ赤になった。白薔薇さまは、何か問いたげに奈緒美を見つめている。
 いったい何なのだろう……。だけど、白薔薇さまにこんなに見られているなんて。今までも遠目に見たことは何度もあるけれど、こんな近くで、しかもじっと見られていると……
「貴方、名前は?」
 紅薔薇さまが突然尋ねた。
「志摩子は名前を聞きたいのでしょう?」
「はい」
「名前は何というの?」
 奈緒美は慌てた。そう言えば、乃梨子さんにも由乃さまにも自己紹介どころか名前すら言っていない。
 黄薔薇さまも由乃さまに同じ事を尋ねている様で、由乃さまが首を振って「そう言えば知らないわ、乃梨子ちゃんの知り合いじゃないの?」と聞いている。
 乃梨子さんが首を振ったところで、奈緒美はようやく口を開いた。
「あの、一年松組の前田奈緒美です」
「乃梨子が奈緒美さんにぶつかってご迷惑をかけてしまったのだから、お茶を煎れるのは私の役目だと思うの」
 祐巳さまは、ああ、と呟く様に頷く。
「そうか、そうだね」
 なんだろう? 奈緒美は心の中で首を傾げていた。
 今の祐巳さまの返事は、相手に言いこめられたというよりも、相手の意思を尊重しているかのように見える。いや、事実そうなのだろう。
 祐巳さまは白薔薇さまが近づくのを待って、その場を明け渡す。
「奈緒美さんは、紅茶でいいのかしら?」
 問われ、最初はぼうっとしていた奈緒美だけれど、視線が自分に集まっていることに気付いて慌てて返事をする。
「は、はい。充分です!」
 緊張でおかしな返事になってしまった、と思いながら、奈緒美はとんでもないことになったと焦っていた。
 白薔薇さまの煎れたお茶、である。
 誰かの知り合いというわけでもない、ただの自分に、白薔薇さまが手ずからお茶を煎れているというのだ。
 クラスに戻ると、ものすごく自慢できる。今からクラスメイト達の羨望の眼差しが想像できるくらいだ。
「ちょうどいいから、私たちもお茶にしようか、祥子」
「そうね。そうしましょう。祐巳、私たちにもお茶をお願い」
 紅薔薇さまがそう言うと、由乃さまがすぐに台所へと向かう。
「祐巳さんは、紅薔薇さまのお茶をお願いね。お姉さまのお茶は私が入れるから」
「クッキーがあるんだ」
「令のお手製? だったら市販のものより余程嬉しいのだけど」
「祥子にそう言ってもらえると光栄だよ」
 いいながら、黄薔薇さまが椅子を引く。
「どうぞ、奈緒美ちゃん」
 さすがに一瞬、ためらった。というより何がどうなっているのかがわからなくなった。
 紅薔薇さまに名前を聞かれ、白薔薇さまにお茶を煎れてもらって、さらには黄薔薇さまが椅子を引いてくれている。
 これは……。これは一体。
 夢か現か幻か、はたまたバーチャルリアリティ。
「そんなに驚いてばかりでも仕方ないよ、さあ、座って、奈緒美さん」
 固まっている奈緒美を見るに見かねたのか、乃梨子さんが助け船を出してくれた。
「緊張しすぎるのも、却って失礼だよ?」
 緊張の一因にそう言われても困る。
 乃梨子さんを助けようとしてこんなことに……。
 これではまるで。
 これではまるで浦島太郎じゃないの。
 そう思った瞬間、何か重いものがストンと奈緒美の心の中から消えた。
 そうだ。浦島太郎。ここは竜宮城。別世界だと思えばいい。
 鯛やヒラメが舞い踊って、乙姫様がいる竜宮城なんだ。だったら、こんなに綺麗な人ばかりなのも納得がいく。
「竜宮城ね」
 そう奈緒美が呟いたとき、乃梨子さんが目をパチクリとしたのが見えた。
 でも、少しすると乃梨子さんはニッコリと笑う。
「そうね。それでもいいかも。でも私、亀?」
 
 
 竜宮城で過ごす楽しい時間はあっという間に過ぎる。
 いつの間にか、奈緒美は乃梨子さんや由乃さま、祐巳さま達と普通にお喋りを楽しんでいた。
 だけど、あまり長居をしているわけにはいかない。今から何かの作業をするためにダンボール箱を運んできたはずなのだ。それがなんであるにしろ、ここから先は部外者は邪魔になるだけだろう。
「お茶もクッキーも美味しかったです」
 もう帰らなければならない。そう言って奈緒美は立ち上がった。
「それじゃあ、またね。良かったらまたお手伝いに来て、ううん、お喋りだけでもね。結構こう見えても暇なときがあるのよ」
 由乃さまが名残惜しそうに言うと、その横から乃梨子さんが小さな紙の箱を手渡してくる。
「はい、これ」
「なんですか?」
「竜宮城から持って帰る箱なんだから、決まってるでしょう?」
「玉手箱?」
「そう。本当は奈緒美さんに運んでもらったダンボール箱の中身よ」
 言われてみれば、確かにとても軽い。これならダンボール箱の中にぎっしり詰まっていたとしても重さは知れているだろう。
「開けていいんですか?」
「ええ、勿論」
 箱の中には数粒の種と説明メモ。
「花の種よ。文化祭の時の募金活動のお礼ですって」
 リリアンの文化祭での模擬店の収益は募金に回されているという話を奈緒美は思い出した。
「私がもらっていいんですか?」
「ええ。来週には全校生徒に配る予定よ。だから一足早くね」
「乃梨子ちゃん? それじゃあ別に特別でもなんでもないじゃない」
 由乃さまが心底呆れた様な口調で横槍を入れる。
「でも、それじゃあどうすればいいんですか?」
「こうしましょう」
 由乃さまは奈緒美の手から箱を一旦取り上げる。
「ちょっと待っててね、奈緒美ちゃん」
 少しして戻ってきた箱を見て、奈緒美は絶句した。
 現山百合会全員のサインが入っている。
「これで少しは特別製になったでしょう」
「あ、あの……」
 少しどころの騒ぎではない。薔薇さま一人のサインを欲しいがために、何日も教室の前で言い出せずにうろうろとしている子もいるのだ。
「ありがとうございます!」
 奈緒美は深々と頭を下げていた。
 
 
 
 
 
 
「だから、これは玉手箱なんだよ」
 奈緒美はそう言うとニッコリと笑った。
「ふーん。これが……」
「これを開けるたびに、私はお婆ちゃんになっちゃうんだからね」
 この箱を見るたびに、自分はあの頃に、リリアンにいた頃の自分に戻る。
 そして、それが終わるとまた今の自分に戻る。
 孫娘に玉手箱を見せながら、奈緒美はリリアンをゆっくりと思い出していた。
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
SS置き場トップに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送