「堅くなったパンはどうすればいいの?」
ドアには鍵がかかっていた。
マンションロビーのポストを覗いたときには、ダイレクトメールが数通あるだけだった。
まだ彼女はいるのだろうか。
「ただいま。いるの?」
鍵を開け、ドアを開ける。
灯のない真っ暗な室内。カーテンすら引かれたまま。
いや、確か自分は朝にカーテンを開けたはず。ということは、再び閉じられたのか。
ベッドの上で膝を抱えている子は、閉めきった部屋を望んでいるらしい。
聖は部屋の明かりをつけた。
ベッドの上で身じろぎする女の子が無言で聖を見上げ、生気のない目で微かに頷いた。
「結局、食べてないの?」
聖は、ベッドサイドに置かれたままのスープに目を止めた。
スープだけではない。パンも皿の上にそのまま、放置されている。
「少しでも食べなきゃ、身体に毒だよ」
ああ、なんて当たり障りのない言葉を吐き出しているのだろう、自分は。
こんな風に言われれば言われるほど、言われたほうにとっては馬鹿馬鹿しさが募っていくだけだということを、自分は誰よりもよく知っていたはずなのに。
だけど、言う側に立ったときに初めてわかったことがある。
当たり障りのない言葉しか吐けない人間には二種類いるということ。
傲慢な俗物。そして、他の言葉を紡ぐことすらできなくなっている弱い人。
言葉をかけられた側だけがいつだって弱いなんて、一体どこの誰が決めたんだろう。それは、なんて一方的な物の見方なのだろう。
言葉をかける側だって傷ついている。そして、決して強くはない。
自分が傷ついたときから時は充分に経っているはずだった。
もう、自分は完治したと思っていた。傷は癒えたと思っていた。
お姉さまも、蓉子も。そして、他ならぬ自分も。
自分の傷が癒えたことは自分が一番よくわかっている。当たり前の話だ、そう思っていた。もう、傷なんて残っていない。ただ、うっすらと傷口が残っているだけ。それもよく見ないとわからないようなごく薄い傷。そう思っていた。
久しぶりに見つめた傷口が化膿していることに気付くまでは。
痛みが無くなっていたのは傷が癒えたからじゃない。ただ、神経が麻痺していただけなんだ。痛覚すら破壊されてしまって、神経が無くなっていただけだったんだ。痛みを感じる能力すら失われていただけだったんだ。
お姉さまの与えてくれた麻酔はとうに切れていたのに、それにも気付かないほど神経は腐り落ちていたんだ。
蓉子が手ずから巻いてくれた包帯の下で、傷口は深く醜く化膿していたんだ。
この腐臭に気付いていたんだろうか。自分のはなっている死臭に。
志摩子は、祐巳ちゃんは。
静は、加東さんは。
少なくとも、この子は気付いていたのだろう。だから、自分の処へやってきたのだろう。
放置していた傷口を見つめ直すきっかけを作った子を、聖は見下ろしていた。
この子を放り出すこともできる。
女子大生の一人暮らし。余分な子を置いておくスペースも経済的余裕もない。なにより、この子を置いておく理由は何もない。放り出したとしても、この子は何も言わないだろう。この子自身はは行く当てなどないと思っているのかも知れないけれど、この子を喜んで引き取るであろう子の心当たりはある。
瞳子ちゃんでも可南子ちゃんでもいい。電話を一本かければ、今すぐ慌てて駆けつけてくるだろう。何も言わず、この子の面倒を見てくれるだろう。この子の家へ、それが駄目なら自分の家にでも連れて行くだろう。
そして、忘れさせようとするだろう。
温かく包み込んで。
皆がこの子を見ているのだと教えて。
この子は一人ではないのだと、気付かせるのだろう。
だけど、それはなんの救いにならないことを今の聖は気づいてしまっていた。
ただ、破滅の瞬間をどこか遠くへ放ってしまうだけ。いずれ刻が来れば、この子も膿んだ傷口に気付くだろう。その時、この子には誰がいるんだろう。
気付いたときに誰もいなければ、どうするんだろう。
この子の腐臭には、誰が気付くんだろう。
この子は、自分の腐臭に惹かれてやってきたんだろうか。
聖は、無言で乃梨子を見つめていた。
乃梨子もただ、無言で聖の視線を受け止めるだけだった。
志摩子さんが行ってしまった。
どんな手段を使っても止めようと思った。嘘をついてでも、どれほど強引なことをしようとも。例え、誰かを傷つけたとしても。
だけど、止められるわけがなかった。
ただの志摩子さんの一言で、乃梨子は止められなくなってしまった。
――乃梨子、私は修道院に入るの。
一言だけだった。
その一言だけで、乃梨子にはわかってしまったのだから。
志摩子さんが涙を流したこと。
残りの一生をかけても、同じだけの涙は出ないだろうと思えるほどの涙を流しながら。
もう二度と感じることはできないだろうという苦しみを堪えながら。
志摩子さんは決意していた。それが、乃梨子にはわかってしまった。
その決意を誰であろうと、いや、乃梨子だからこそ、止められるわけがない。
誰よりも志摩子さんのことを想っている。
誰よりも理解している。
誰よりも、誰よりも愛している。
だから、止められなかった。
だから、賢文が志摩子の決意を問うたとき、乃梨子が賢文を制止した。
「本当にいいのか、君は」
賢文は尋ねた。
賢文は二人を知っていた。
二人の想いを知っていた。
乃梨子を語る志摩子さんの笑顔を知っていた。
乃梨子を語る志摩子さんの声の明るさを知っていた。
乃梨子を語る志摩子さんの歓びを知ってた。
「あいつのことだ。言葉に出したからには本気だろう。あいつの兄として、無理矢理に止めてもいい」
二人だけになると、賢文はそう言った。
その言葉に、乃梨子はつい笑ってしまった。
何を言っているんだろう、この人は。
兄として?
無理矢理に?
笑いながら、乃梨子は泣いていた。
泣きながら、乃梨子は激高していた。
「私に止められなかったものが、貴方に止められるわけないでしょうっ!!」
ふざけている。乃梨子は心の底から思った。
私以外の誰に、志摩子さんを止められるというのか。
私以外の誰に、志摩子さんの想いがわかるというのか。
私以外の誰が、これほど悲しむというのか。
兄など……。父など、母など、友人など。
誰であろうと、それが二条乃梨子でないのならば話にはならない。
藤堂志摩子という存在に干渉できるのは、唯一、二条乃梨子でなければならない。
「志摩子さんはシスターとしての道を選ぶ。それだけの話です」
祐巳と由乃の前で、乃梨子はそう言って笑った。
「志摩子さんの進路と貴方達は関係ないでしょ」
呆れるようにそう言ったのは、可南子と瞳子の前で。
嘘はついていない。誰に言った言葉も、それなりに本音だった。
そう、志摩子さんの進路選択が一体他の誰に関係があるというのか。
志摩子さんはシスターの道を選んだ。それだけのこと。
単純な話なのだから。
会いに行けばいい。志摩子さんがシスターになってからでも会いに行くのは自由だから。
「だから、そんなに深刻になる必要はないの。ただ、これまでみたいに毎日顔を見ることができなくなるだけだから」
それもそうよね。と笑う友人達を殴りつけたくなるような衝動を、乃梨子は抑えていた。
ただそれだけなのに。
進路が違う。ただそれだけなのに。
だけど、シスターになるということは別格だった。進学先や就職先が違う、と言う問題ではない。
住む世界が根本的に変わってしまうのだ。
それなのに、止めることはできない。
深刻になる必要がない?
確かにそうかもしれない。これは、深刻どころの問題ではないのだから。
乃梨子が無理をして普通に振る舞っていることは、親しい人たちならばすぐに気付くことだった。
まずは妹。そして瞳子、可南子。二人の妹。最後に祐巳と由乃。
指摘されても、乃梨子は認めなかった。
大したことではない。だから、志摩子さんに振り返らせてはいけない。
シスターを諦めて乃梨子と一緒にいる、という決断ならいい。
けれど、乃梨子が心配でシスターを諦める。そんな風にだけは、絶対にさせるわけにはいかない。
だから、平気でいなければならない。
少なくとも、志摩子さんの前では。
でも、無理だった。
大丈夫だと言い続けた乃梨子は、今さら行き先を見つけることができなかった。
ただ一人を除いては。
聖はスープを鍋に戻すと火を付ける。
「暖めなおすから、せめてスープくらいは飲みなさい」
微かに返事が聞こえたような気がした。
乃梨子が突然訪れることを聖は予想していなかった。けれど、予感はあった。
乃梨子と初めて会ったときに安心したのは、志摩子のそばに乃梨子がいる、というただ一点だった。乃梨子自身がどうなるかについては、正直ほとんど気にしていなかった。
その結果が、これだ。
志摩子の選択を聖は責めるつもりなどない。いや、攻める資格などない。
ただ、乃梨子の気持ちはわかるつもりだった。
だから、救えないこともわかる。
誤魔化すしかない。そして、それを自分は手伝うしかない。
誤魔化して、誤魔化して、いつまでも誤魔化して、いずれ傷口に気付く。
傷が治っていないことに気付く。
その代わりに、傷があっても生きていけるようになっている自分にも気付く。
それまでは、なんとか上手く誤魔化していて欲しい。それを手伝うことなら、自分にもできるのかもしれない。
お姉さまのように、痛みを忘れさせることはできないかも知れない。蓉子のように包帯を巻くことすらできないかも知れない。
だけど、何かがあるだろう。自分にできることが。
鍋の中身がぐつぐつと言い始めた。
「ほら、スープ温めたから」
乃梨子は微かに顔を上げていた。
その前のちゃぶ台にスープを置く。
「パンはもう、堅くなってるね」
俯き加減の乃梨子と向かい合わせになるように座ると、聖はパンに手を伸ばした。
「堅くなったパンは、スープに浸せば柔らかくなって食べられるよ」
そうだ。堅くなったパンはスープに浸せばいい。
それじゃあ、私はスープになろうか。
堅くなったパンをもう一度食べられるようにするために。
それでいい。
もう一度食べられるようになればいい。
「乃梨子ちゃん。元気を出して、とは言わないよ。だけど、いつまでもそんな風でいて欲しくないと思う」
志摩子もきっとそう思っているよ、とは言えなかった。
例えそれが正しくても、他人が口にすれば嘘くさくなってしまうから。
スープに浸したパンを、乃梨子はノロノロと口に運んだ。
一欠片、二欠片。
お腹の鳴る音。
少量の食べ物を入れたせいで、ようやく胃が空腹を訴え始めたのだ。
少しずつ、乃梨子のペースが速くなっていく。
聖はそれを、楽しげに見守っていた。
「今の乃梨子ちゃんは、堅くなったパンだけど」
乃梨子がようやく、聖に真っ直ぐ顔を向けた。
「それでもスープに浸せば、もう一度食べられるようになるんだから」
「……聖さまがスープ?」
聖は微笑んで頷いた。
「うん。そういうことになると思う。だから乃梨子ちゃんは、ゆっくりと元に戻ればいいんだよ」
「……はい」
スープ皿が空になる前に、聖は鍋ごとちゃぶ台に持ってくる。
「おかわりあるから、全部食べちゃって。調子に乗って作りすぎたのよ。乃梨子ちゃんが来てくれてちょうど良かったわ」
おたまでスープを掬っては足していく。
そして、袋から出したパンを横に。
食べ終わったところで、乃梨子は鍋が空になっていることに気付いた。
「あ……」
慌てたところでもう追いつかない。
「うんうん。昨日の夜、いきなり家に転がり込んできてから何も食べてなかったものね。お腹か減ってて当然よ」
「ご、ごめんなさい。私。もしかして聖さまのぶんまで……」
「ん、いや、それは別に気にしなくていいから。それだけ気持ちよく食べてもらえると、作った方としても気分いいし」
聖は皿を取り上げると、流しまで運ぼうと立ち上がる。
「片づけは私が」
乃梨子は立ち上がろうとするが、一日中座ったままの足が上手く動かない。
ちゃぶ台に手をついてひっくり返りそうになる乃梨子を聖が引き留めるが、片手に鍋を持ったままでは綺麗に止めることができずに、やや強引に抱きとめる形になってしまう。
そのまま、二人が動かない。
「乃梨子ちゃん?」
聖は、ゆっくり鍋をちゃぶ台の上に戻した。
「……ごめんなさい」
「だから、それはもういいって……」
「ごめんなさいっ!」
その口調に、聖は乃梨子の肩に手を置く。
「乃梨子ちゃん、謝る事なんて何もないんだって」
「ごめんなさい!」
そこで初めて、聖は乃梨子の瞳の涙に気づいた。
それ以上何も言わず、聖は乃梨子を抱きしめる。
「謝る事なんて何もない。だけど、泣きたいなら泣いていいよ」
乃梨子もそれ以上何も言わず、ただ泣いていた。
身体の温もりを聖は確かに感じ取っていた。聖の腕の中で、静かに泣きじゃくる少女の温もりを。
不意に、愛おしさがこみ上げてくる。
あの時も、お姉さまはこんな風に感じていたのだろうか。
違う!!
逆上のように激しい否定が咄嗟に生まれたことに、聖は心の中で苦笑する。
違う。お姉さまは自分とは違う。決定的に違う部分が一つある。お姉さまは女性を愛さない。
そうなの?
何故?
どうして、今になってそんなことを。
何故今頃、自分はそんなことを思ってしまうのだろう。
お姉さまが自分を?
それを冒涜と感じるのは、自分を貶めることにもなるだろう。自分と同類であることがいけないことだと感じる理由はどこにもない。
だけど。
だとしたら、今自分が感じているのは?
腕の中の少女を愛おしいと感じるのは、ただの保護欲なのだろうか。それとも、違う何か。誰もが持っているのに誰もが包み隠そうとする何かなのか。
だったら。
だとしても、これは受け入れられないことなのか。
乃梨子の手の力が強くなったように、聖は感じた。
だけど。
今求められているのは保護、安堵、そして示唆ではないのだろうか。
だったら。
自分はそんなものを与える資格があるのだろうか。いや、それを与える権利など持っているのだろうか。
だけど。
腕の中で助けを求めている子が現実に存在しているというのに。
だったら。
その助けとはいったい何なのか。
だけど。
それは本当に助けなのか。
だったら。
この子を助けたい。
だけど。
助けなの?
だったら。
だけど。
堅くなったパンは、クルトンにしてスープに入れてもいい。
そうしたところで、何が悪い?
リリアンの制服を着た少女の姿に、乃梨子は呆然と呟いた。
「――っ?」
それはロザリオを渡した一年生、白薔薇のつぼみの妹の名前。
「どうして、ここに?」
「だって、お姉さまが急にいなくなって、私、心配になって……そうしたら、紅薔薇さまと白薔薇さまが、お姉さまはここかも知れないって」
聖さまが乃梨子の肩に手を置いた。
「帰りなさい。そのほうがいいわ」
答える前に、妹が乃梨子を捕まえていた。
「帰りましょうよ、お姉さま。紅薔薇さまも白薔薇さまも黄薔薇さまも、可南子さまも瞳子さまも菜々さんも心配してますよ!」
引っ張る力よりもその行動に、乃梨子は引きずられていく。離しなさいと言っても、逃げるから嫌ですと妹は言い張る。
部屋の中に荷物があるというと、すぐに聖が荷物を持ってくる。
わかったから靴を履くと言って、ようやく乃梨子は解放された。
それでも妹はじっとにらみつけるようにして目を離そうとしない。
「よっぽど信用がないのね」
聖が楽しそうに言うと、
「お姉さまは頭の回転が速いから、こういうときは油断がならないんです」
「ああ、要はずる賢いのね」
「違いますっ!」
聖は新しい玩具を見つけた子供のような顔で笑っている。
靴を掃き終えた乃梨子は、そんな聖を面白くなさそうに見ながら言った。
「それじゃあ帰ります」
「うん。ばいばい」
手を振りながら、聖は言った。
「志摩子とは上手くやりなさい。志摩子にとって貴方が特別な存在だっていうことはこれからも変わらないだろうし……」
一瞬、言葉が止んだ。
「それに、いつでもスープは用意してあげるよ。乃梨子」
乃梨子は、玄関を出たところで振り向いた。妹に手を引かれながら、
「せいぜい美味しいパンを用意します。聖さんのために」
「うん。待ってる」
廊下の角を曲がるまで、聖は乃梨子の姿を目で追っていた。