以心伝心
「お菓子があるのよ」
志摩子さんが嬉しそうに笑っていた。
「うん」
対して乃梨子ちゃんは少し悔しそうな、怒っているような顔。
「祐巳さんも由乃さんも召し上がれ」
紙皿の上に広げた色とりどりのクッキーを志摩子さんは差し出している。
「いいの?」
祐巳さんが首を傾げながら尋ねる。クッキーは確かにおいしそうだけれど、乃梨子ちゃんの複雑な表情を見てしまうと何となく手が出しにくい。
祐巳さんほどではないけれど、由乃も手を出しづらいなと思っていた。
そこへ、瞳子ちゃんが遅れてやってくる。
「遅くなりました。ごきげんよう」
一年生は今日は学校行事の関係で放課後に学年集会を開いている。だから、今日は部室に立ち寄ってきた瞳子ちゃんが一番最後だ。
「瞳子ちゃんもどうぞ」
「いただきます」
瞳子ちゃんは由乃と祐巳さんの逡巡もなんのその、こんなにおいしいクッキーを食べないなんてもったいないですわ、と言わんばかりにパクリと。
あっけにとられて、由乃は瞳子ちゃんをまじまじと見てしまう。
ぱくぱくとクッキーを食べる瞳子ちゃん。
「美味しい。白薔薇さま、これはどうなされたのですか?」
由乃は祐巳さんを肘で軽くつく。
――祐巳さんの妹でしょう? なんとかしなさい。
――無理だよ。そんなの
由乃の観察によると、どうも瞳子ちゃんはわかっていて聞いている気配がある。
わかっていて、乃梨子ちゃんを挑発しているのだ。
今の山百合会で一番怖いのは乃梨子ちゃん。乃梨子ちゃんは元々、あの先代紅薔薇さま小笠原祥子さま相手にすら一歩も引かなかった子だ。怒らせるととても怖い。
「ええ、一年生のみんなが、白薔薇さまにと言って、差し入れてくれたの」
そう。そういうわけで乃梨子ちゃんは機嫌が悪いのだ。
一年生のせっかくの心づくしのものを志摩子さんが無碍に断るわけがないと言うこともちゃんとわかっている。わかっているけれどやっぱり平静ではいられない。その気持ちは由乃にもよくわかる。何しろかつてはミスターリリアンをお姉様にもっていた身だ。祐巳さんも同じなのだろうけれど、祐巳さんの場合はスールになる前からお姉様の人気ぶりを知っていたのだから、それほどのショックは覚えなかったのだろう。
「ああ、そうですか。さすが白薔薇さまですわね。一年生にもおモテになるんですから」
乃梨子ちゃんの目がカッと見開いて、今にも「瞳子、アンタって人は!!」と叫び出しそうになっている。
乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんは一年生の時からの、期間は短いけれどもはや腐れ縁といってもいいくらいの間柄だろう。乃梨子ちゃんにこんなちょっかいを出すことが出来るのはリリアン広しといえども二人しかいない。他でもない、腐れ縁トリオの瞳子ちゃんと細川可南子ちゃんの二人だけだ。
「乃梨子さんも、気が気じゃありませんこと」
この言葉で、さすがに乃梨子ちゃんの口が開いた。と、そのとき、
「ああ、そういえば忘れるところでしたわ」
瞳子ちゃんは乃梨子ちゃんの反応を待っていたかのように片腕をあげて制すると、鞄の中から割と大きな紙袋を取り出した。
「演劇部の一年の子から預かってきましたの」
「な、なによ」
突然紙袋を差し出された乃梨子ちゃんが、毒気を抜かれた様子で尋ねる。
「これ、一年生の有志から、白薔薇のつぼみさまにですって」
「え?」
紙袋から出てきたのは、大振りなクッキー。どうみても、実習の時間に余分に作ったというよりは、このために特別に作ったという感じのクッキーだ。
「はい、乃梨子さんに可愛い一年生からプレゼントですわ」
「あ、え…」
乃梨子ちゃんは慌ててしまって二の句が継げない。瞳子ちゃんの作戦勝ちだ。
「よかったわね、乃梨子」
あくまでにこにこと、志摩子さんは喜んでいる。
「あ、う、うん」
おそるおそる、乃梨子ちゃんは志摩子さんのほうを見ている。志摩子さんは、見ている限りなんの他意もないようだった。素直に乃梨子ちゃんの人気を喜んでいるように見える。
やっぱり志摩子さんはできた人なんだなぁ、と由乃は思う。
「ところで由乃さん?」
いやな予感がした。
一年生の作ったクッキー。
祐巳さんの多分素朴な疑問。
この流れで祐巳さんの疑問はだいたい想像がつく。
「菜々ちゃんは…」
やっぱり。
菜々の名前が出るのは時間の問題だと思っていたけれど、こんなに早く出るなんて。
うん。確かに菜々は一年生。そして由乃の妹。
一年生の妹や孫を持たない白薔薇さまやそのつぼみが一年生にクッキーを差し入れられたというのに。
ちなみに紅薔薇さまへの差し入れは瞳子ちゃんが握りつぶしているに違いない。というより、瞳子ちゃんの目が怖くて一年生はそんなことなど出来ないだろう。そして瞳子ちゃん自身へ差し入れがあったとしても、瞳子ちゃんはそれをここには持ってこないだろう。少なくとも祐巳さんの目の前には。
だから、あと差し入れがあるとすれば菜々から由乃へのもの。
だけど、さすがの菜々もただそれだけのためにここに来ることはないだろう、と由乃は思った。
「何ももらってないわよ。今日は一日一緒にいたんだから、祐巳さんだってわかっているでしょう?」
「うん。それはそうだけれど」
けれど。
けれど、菜々ちゃんは由乃さんの妹でしょう? という無言のプレッシャーが。
妹なんだから、実習でクッキー作ったら持ってきてくれるよね。
ね?
持ってきてくれるよね?
「……スールになったばかりの瞳子ちゃんはまだしも、乃梨子ちゃんも早くスール作らないかしら」
今のところ一年生に姉妹が居るのは黄薔薇一族だけ。紅薔薇も白薔薇も二年生で止まっている状態なのだ。
白薔薇姉妹にいたっては、どう見ても二人で世界を完結させていて、志摩子さんが卒業でもしない限り新しい姉妹の登場など望むべくもないような気がする。
そして瞳子ちゃんはまだ妹を作る作らないの段階ではない。未だに祐巳さんとの関係も不慣れなのだ。
「乃梨子ちゃんは、志摩子さんと二人の世界作っちゃってるし……」
「それはよくわかる」
「祐巳さんが、瞳子ちゃんにプレッシャーかけなきゃ」
「そ、それは難しいよ」
「天下の紅薔薇さまともあろう者が、そんなことじゃあ駄目よ。下級生からは威厳があるなんて最近言われてるのにね」
「そ、それはほら、外弁慶って奴だよ」
「自慢になってないわよ?」
「由乃さんだって、天下の黄薔薇さまじゃない」
確かに。そう言われると由乃も弱い。
それに、由乃がもし二年生に妹を作っていたら、おそらく今の段階でも一年生に孫は出来ていなかっただろう。
妹一人しかいないという意味では、三薔薇ともが同じ立場なのだから。
「う、そんなことはどうでもいいのよ」
由乃は話を変えることにした。去年の間に妹を作っていないことを言われるぐらいなら、今の妹のことを論じた方がまだマシだ。
「問題は、菜々のことなんだから」
「そうだっけ?」
「そうよ」
由乃はそのまま押しきることにして、考えた。
確かに菜々は今のところ何も持ってきていない。しかし、菜々はああ見えて気の回るところがある。もし最初は何も考えていなかったとしても、クラスメートが自分のお姉さまや憧れの上級生のためにお菓子を作っているところを見れば気付くはずだ、と由乃は信じている。
「確かに、志摩子さんは人気者よ。今の山百合会で一番人気があると思う。だから、乃梨子ちゃんがヤキモチを妬くのも仕方ないわ」
「ヤキモチ? ちょっと待ってください、由乃さま。私はヤキモチなんて妬いてません!」
「そう?」
由乃はわざとらしく首を傾げながら、志摩子さんに語りかける。
「でも、志摩子さんはヤキモチ妬いてない?」
突然話を振られて、志摩子さんは少し考え込んでしまった。
「そうね。少し妬いてるかも。ヤキモチ」
「し、し、し、し、し、し……」
とっても珍しい、乃梨子ちゃんの道路工事。祐巳さんが「ほお」と唸ってる。
「志摩子さん!?」
「なあに? 乃梨子?」
「ヤキモチって……志摩子さん、一年生に?」
うふふ、と微笑んで志摩子さんが頷く。
乃梨子ちゃん、真っ赤になって俯いてしまった。
「まあ、白薔薇姉妹は人気があるのね。悔しいけれど事実だわ」
「志摩子さんは綺麗だしね、仕方ないよ」
「志摩子さんと乃梨子ちゃんが一年生に色々と差し入れられるのは別にいいの。仕方ない。でも、やっぱり直の妹の差し入れ、これに勝るものはないのよ」
「え? でも、菜々ちゃんは何も……」
「持ってくるわ!」
由乃は断言した。
「私は信じてる。姉妹というのは、不思議な縁で通じているものなの。私が食べたいと思ったのは菜々にも通じているはず」
いつもながら無茶苦茶だな、と由乃は自分でも思う。けれど、以心伝心という言葉もある。自分の想いはきっと伝わっているはず。
現に、令ちゃんはいつも、由乃が食べたいと思った日にお菓子を作るという特技を持っていた。だから菜々だってきっと!
令が実の姉妹同然の従姉妹兼幼馴染みで、行動パターンを完全に見抜かれているということを由乃は都合良く忘れていた。
「きっと、今日は薔薇の館に来られないから、明日にでも直接持ってくるつもりなのよ」
祐巳は瞳子に追いついた。
由乃さんが断言したとき、瞳子が首を傾げていたのを思い出したのだ。
「どうかした?」
「あ、いえ。お菓子作りの実習があったのは一年生全部というわけではないので、菜々ちゃんのクラスでは実習があったのかなと思って」
「あ」
由乃は絶対的な自信を持っていた。
根拠はない。根拠はないけれどその代わり、この手の予感は生まれてこの方外したことがないのだ。
――お菓子が食べたい!
――手作りクッキーが食べたい!
だから強く念じた。
由乃は気付いていないけれど、実習は今日の午前中なのだから、今さら祈っても無意味だったりする。
でも、まあ、とにかく強く祈った。
そして、家に着く。
「お帰り」
「あれ、令ちゃん? 今日は大学お休みだったかしら?」
「午後が休講になったから帰ってきたの。それで、何故だか知らないけれど、急に作りたくなって」
差し出すお皿の上に綺麗に並べられたクッキー。
由乃の足が止まった。
「あ」
「どうしたの? 由乃」
「こっちに通じちゃったみたい」
「?」