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それは多分贖罪なんかじゃなくて
 
 
(どうしてこんなもの……)
 小さな包みの入った紙袋を、それでも学生鞄と一緒にかかえながら、可南子は切符を買った。
 渡すあてなんてありもしないのに。
 そう小さく呟くと、自分のやったことが本当に無駄なことに思えてくる。
 だけど、買ってしまったものは仕方がない。
 また、母親はこれを見て笑うのだろう。母親のこと自体は嫌いではないけれど、訳知り顔でニヤニヤされるのはあまり好きではない。
 考えすぎて少し憂鬱になった気分で、可南子はラッシュで混雑している電車に乗り込んだ。学校の帰りに直接足を伸ばして買い物に行ったせいで、会社帰りのラッシュに遭遇してしまっている。
 学生だけのラッシュだったら可南子にとってはそれほどでもないのだけれど、社会人のラッシュはさすがに少し苦しい。
 なんとか人混みに潰されないように身体を緊張させていると、嫌でも会社帰りの男の人たちに身体が当たってしまう。
 その度に可南子は嫌悪に顔をしかめるが、こればかりはどうしようもない。常識で考えれば、この時間に電車に乗ることを選択した時点でこうなるのはわかっていたのだ。
 諦めと嫌悪の混ざった顔で電車に揺られていると、背後に人の気配がした。混雑した電車に乗っておいて人の気配があると言うのもおかしなものだけれど、後ろにいる人間は、自分に注意を向けているような気がする。
(誰?)
 微かに身を捻って背後を見ると、確かに男の人がこちらを見ている。いや、見ているという生易しいものではない。睨みつけていると言ったほうが正しいだろう。
 見覚えは――あるような、ないような。
 なんだか気味悪くなってきた可南子は、予定の二つ前の駅で降りることにした。
 電車を降りてホームに出て、改札へと向かいながら振り向くと、男がこちらへ近づいてくるところだった。
 まさか、と思ったけれど、降りる駅がたまたま同じという偶然なら、あり得ない話ではない。
 可南子はそのまま駅のトイレに入った。当たり前の話だけども、男が追ってくる様子はない。
 少し時間を潰して、トイレを出る。
 誰もいない。やっぱり思い過ごしだったのか、そう思ってホームに戻ろうとすると、階段の前にあの男が立っていた。
 驚いた可南子が思わず立ち止まると、男はつかつかと歩み寄ってくる。
 とにかく、この場をどうにかしようと考えた可南子は、駅員に向かって歩き始めた。
「ちょっと待って。失礼だけど、君は細川さんだろう?」
 可南子は足を止めて、もう一度男の顔を見た。
 やっぱり、見覚えはない。
「私は…」
 男は歩みを止めずに自分の名前を言うのだけれど、それも可南子の記憶にはない名前だった。
「知りません」
 男も立ち止まった。その場で少し考えると、言う。
「私の妹の娘の名前は夕子。今は細川夕子だ」
「え……?」
「君に会うのは初めてだろうが、私は夕子の伯父だ」
「どうして?」
 男は回りを見渡しながら素早く言う。
「どうしてこんな所に、という意味なら只の偶然だ。どうして君に声をかけたかというなら、用事があるからだ。どうして君の顔を知っているのかといえば、夕子に部活の集合写真を見せてもらったことがあるからだ」
 一気呵成に言うと、可南子に向かってさらに近づいてくる。
「時間があるのなら、君に聞きたいことがある。こんなところで立ち話なんて、目立ってしょうがない。その辺りの喫茶店で続きを話したいんだが」
 ハッキリ言えば、男の申し出に可南子は怖じ気を振るっている。男と二人で喫茶店にはいるなど考えられない。
 でも、夕子さんの伯父の話は聞いたことがある。実の父親に捨てられた夕子さんにとっては、父親代わりのような存在だったと。
 ならば、自分はその話を聞く義務があるのではないだろうか。
「……少しの時間でしたら」
「勿論だ。私としても、あんな男の娘と一緒にいるのは願い下げなんでね」
 嫌われている。そう考えれば、何故か気分は楽になった。
 駅から出た二人は、目の前にあった喫茶店に入った。
 珈琲と紅茶。
「急なことで驚いているかも知れないが…」
「用件をどうぞ。前置きの社交辞令は結構です。お互いに、嫌な思いをしているのでしょうから」
 男は毒気を抜かれたような表情を見せると、頷いて話しはじめた。
 
 まとめると、簡単な話だった。
 夕子さんと父の結婚が簡単なものでなかっただろうことくらいは、可南子にも容易に想像がついていた。
 それでも、まさか夕子さんが伯父さんと喧嘩別れのような状態になっていたとは知らなかった。
「夕子の連絡先を教えて欲しい」
「聞いていないんですか?」
 以前、母に「夕子さんのお母さんはもう会いに行ったのだから、お前も会ってきたら?」と言われたことがある。母はそういう嘘はつかないと可南子は信じている。
「私は聞いていない。……夕子の母親は聞いているようだが、私にはまだ教えてもらえないんだ」
 だったら、自分が教えるわけにはいかない。これは夕子さんのお母さんと伯父さんの間の問題だ。
「どうしてですか?」
 それなのに、可南子はつい聞いてしまった。ちなみに、可南子も連絡先は知らない。お母さんに聞けばすぐにでも教えてくれるのだろうけれど、敢えて聞かないようにしていたのだ。それに、夕子さん自身の直接の連絡先は知らないけれど、今は父の実家――細川の実家にいるはずだった。そこなら、お母さんに聞かなくても連絡先はわかる。
「知らないのか?」
 男は目に見えて動揺しているようだった。
「君のお父さんが……」
「違います。あの人は、私とお母さんを捨てた人です。父親なんかじゃありません」
 間髪入れず訂正する可南子に、男はやや口を閉ざす。
「すまん。あの男が夕子を正式に籍に入れたいと挨拶に来た時、私は彼を手ひどく殴ってしまった。夕子の母親はそれを知っているから、私には連絡先を教えてくれないんだ」
「殴りに行くんですか?」
 聞いてから、可南子は時間を巻き戻したくなるほどの恥ずかしさを覚えていた。
 ――馬鹿な質問。
 そんなことを聞いてどうなるというのか。
 そしてその一方で、暴力という手段を選択した目の前の男にたいして、軽い軽蔑を覚えてもいた。
 ――やっぱり男って……
「場合によっては、そうなるかも知れないな」
「そうですか。残念ですけれど、私も連絡先はわかりません」
 自らの暴力を肯定するような口ぶりに、可南子は侮蔑の口調を隠そうともしない。
「……君に言っても仕方のないことかも知れないが……」
 可南子は立ち上がるタイミングを失った。
「その時、本気で腹が立ったんだよ。君のお父……あの男は私とほとんど年がかわらないんだ。それが、自分の娘と同じくらいの相手に……」
 自らの激高を抑えるように、男はまだ残っているコーヒーを無視して冷たい水を飲む。
 コップの水を飲みきると、乱暴にテーブルの上に置いた。近くのウェートレスを呼び止めて、水のお代わりを要求している。
「……幸せならいいんだ」
 帰るタイミングを推し量っていた可南子は、その言葉をもう少しで聞き逃すところだった。
「あの子が幸せなら、それでいいんだ。あの子の選んだ相手が誰だろうと、あの子が幸せなら、それでいいんだ。ただ、それを確かめたいだけなんだ。幸せでいて欲しいだけなんだ」
「私には、何とも言えません」
 大好きなバスケをやめることになって、せっかく入った高校も中退して、それで幸せと言えるわけがない。
 幸せなはずがない。
 そんな、わけがない。
 だったら、何故、そう言えないのか。
 幸せでいて欲しいから。
 どんな形にせよ、夕子さんには幸せでいて欲しいから。だから、幸せでない姿を想像したりしたくない。
 そうだ。
 同じなのだ。
 夕子さんの伯父さんも、そして自分も、考えていることは同じ。
 夕子さんには、幸せでいて欲しい。不幸な姿など、想像すらしたくない。
「時間を取らせてしまい済まなかったね」
「いえ」
 先に可南子が立ち上がり、一礼すると鞄をかかえて足早にその場を去る。
 これ以上、この場にいたくはなかった。これ以上話を聞き続けると、したくもない理解を心が受け入れてしまいそうな気がしている。
 
 
 電車に乗ったとき、紙袋を喫茶店に忘れてしまったことに気付いた。
 構わない。どうせ、持っていてもどうしようもないものだ。
 
 数ヶ月後、思わぬところで可南子は包みの中身と再会することになった。
 いや、思わぬ所ではなく、それはまさに適所にあった。絶対に、あるはずのない適所に。
 文化祭で再会したお父さんと夕子さん。
 お父さんの締めているネクタイに、可南子は見覚えがあった。
 父の日に、つい買ってしまったもの。
 贈る気もなかったのに、何故か買ってしまったもの。
 喫茶店に、紙袋ごと忘れてしまったもの。
「お父さん、そのネクタイって……」
「ああ、これか? 夕子が持ってきてくれたんだが」
「夕子さんが?」
 夕子さんは笑っている。
「伯父がね、夏の初めに訪ねてきてくれたの。その時、可南子から預かっているって、置いていったのよ」
 ということは、忘れていった紙袋を夕子さんの伯父さんが見つけて、中身に気付いて(今にして思えば、包み紙には「父の日ギフト」と書かれていたような気がする)届けたのだろうか。
「それは……」
「うん。わかってる。というか、何となく想像はつくわ」
 夕子さんは頷いた。
「だけど、可南子が選んでくれたものには変わりないもの。そうでしょう? それでいいの。あ、もしかして、余計なことしちゃったかな?」
「そんなことないですっ!」
 つい口調が強くなり、可南子は苦笑する。見ると、驚いた夕子さんの顔が徐々に苦笑に変わっていくところだった。
「でも、来年は自分でちゃんと渡すのよ」
 可南子は頷いた。
「勿論」
 そして手を伸ばす。夕子さんに抱かれた新しい妹に。
「次子ちゃん、大きくなったら、一緒に父の日にプレゼントしましょうね」
 次子はただ、笑っていた。
 
 
 
あとがき
 
 
 
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