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舌先三寸紅一欠片
 
 
 その口紅が気になっていた。
 姉によると、久しぶりに遊びに来た伯父さんが、「笙子ちゃんに」と言って置いていったのだという。
 笙子は伯父さんが少し苦手。嫌いではないのだけれど、伯父さんがいると嫌なことを思い出してしまうから。
 別に伯父さんが何か悪いことをしたというわけではない。だけど結果的に、笙子にとって伯父さんはあまり良くない思い出と結びついてしまっている。
 実は、笙子を子供モデルにスカウトしたのは、他ならぬ伯父さんだったのだ。
 伯父のせいというわけではないのだけれども、今の笙子の写真嫌いは子供モデルをやっていたためなのだ。それを知っている伯父は、事ある毎に恐縮してみせるため、笙子にはちょっとそれが重い。
 そんな業界にツテを持っている伯父だからか、時々珍しい化粧品や装飾品を持ってきては、笙子や克美のために置いていってくれるのだ。
「兄さんの所には男の子しかいないから、笙子や克美が可愛いんだよ」
 と、お父さんは言うのだけれど、笙子にはこれも伯父の罪滅ぼしの一環なのではないだろうかと思えて、やっぱり重い。だから、伯父の置いていった物はあまり身につけようとしない。
 けれど、今回は何故だろう。伯父さんの置いていった口紅がとても気になる。
 手にとって色合いを確かめてみる。
 薄い紅。ナチュラルな色。
 別に、化粧品になんて必要以上に興味はなかったのに。いや、それどころか平均以下の興味しか持ってないはずなのに。
 写真と同じ理由だ。子供のモデルといえども、それなりにメイクはする。メイクと言われると最初に思い出すのはあの頃だ。
 それでも、その口紅が気になった。
 ふと、鏡に映してみる。
 薄くひかれる紅。
 鏡の中の自分が微笑んだ。
 ……ああ、そうなんだ。
 笙子は納得した。
 見せたい人がいるんだ。
 こんな自分を見せたい人がいるから、紅を引いたりしているんだ。
 
 
 三奈子は焦れ始めていた。
 予想はしていたといっても、ここまでだとは思っていなかった。
 まさかこれほど難攻不落な性格だったとは。しかし、このままでは真美や日出実に合わせる顔がない。
 三奈子は小さく深呼吸すると、何度目かの話を切り出した。
「だから蔦子さん、よく考えて欲しいの」
「考えるまでもありません。私は新聞部に対してこれまで通りのご協力はいたしますけれど、全面的に従うと言うつもりはありませんので」
「何も全面的とは言っていないわ。私はただ、写真を見せて欲しいと言っているだけなの」
 蔦子は一歩も退かない。
「三奈子さまも、私のポリシーはご存じだと思っていましたけれど」
 リリアンで写真と言えば蔦子。何かが起これば、蔦子に尋ねると写真が出てくる。どんな事件であろうとも、何かしら関連のある写真を蔦子は撮っているのだ。
 ただし、写真を撮っているからといって、それを外部に出すかどうかとは別問題。蔦子は、被写体の許可無くては絶対に写真を公表しない。それどころか、被写体の意志によってはネガごと廃棄してしまうことも少なくはないのだ。
「ですから、写真の件に関しては、私ではなく直接山百合会のどなたかに掛け合ってください。山百合会の方で許可が出るならば、いくらでも写真を提供いたしますから」
 あくまで正論を通す蔦子に、三奈子は情に訴える。
「山百合会のクリスマスパーティ。それがいかに一般生徒の憧れの対象か、リリアン生の一人である蔦子さんにもわかっているでしょう? 別に私はスキャンダルな写真を欲しているわけではないの。ただ、パーティ中の平凡なスナップ写真でいいの。ごく普通のパーティ中の風景でいいのよ」
 三奈子は、真美と日出実に大見得を切って部室を出てきたのだ。
 
 久しぶりに部室を訪れた三奈子が見たものは、額をつきあわせてうんうん唸っている妹とその妹の姿だった。
「何やってるの?」
 この二人が新聞編集に関して悩んでいる姿というのは、元編集長としては頼もしい限りだけど、妹とその妹が二人っきりでいる姿というのは、姉としては少々面白くない。
「あ、三奈子さま」
 最初に気付いた日出実が、メモ用紙を取り上げた。
「山百合会恒例のクリスマスパーティなんですけれど、出席者の名簿をお姉さまが入手したんです」
 三奈子も目を通したメモには、真美の字で名前が記されている。
 小笠原祥子   支倉令   
 藤堂志摩子   島津由乃
 福沢祐巳    二条乃梨子
 細川可南子   松平瞳子
 武嶋蔦子    ????
「入手というか、色々なところで聞き込んだ結果なんですけれど」
 面白い。三奈子は一年二人の名前に目を止めた。この二人は、紅薔薇のつぼみの妹候補。それも、二人とも茶話会には出ていなかったのだ。その二人をここで招くと言うことは、妹を決めるつもりだろうか。
 そして蔦子は写真を撮る担当だとして、この最後の????というのは一体。
「あ、それは、今のところ不明なんです。なんとか、総勢十名だということだけはわかったんですけれど」
 なるほど。最後の一人は不明と言うことか。
「真美は呼ばれたりしないの? 祐巳さんや由乃さんとはそれなりに仲が良かったと思うのだけれど。蔦子さんは呼ばれているのにね」
 真美は首を振った。
「山百合会と親しいというわけではありませんし。それに、蔦子さんは写真担当ですから」
 写真ね。
 三奈子は一つ提案してみた。
 蔦子の撮った写真を分けてもらって記事にできないだろうか。
 その提案を一蹴したのは日出実だった。
 やはり日出実も、蔦子のポリシーは知っていたようだった。
 つまり、山百合会の許可がない限り蔦子さまは写真を提供しない。そして、山百合会の許可が出るとは思えない。
 だから、三奈子さまの提案が通るとは思えない。
「日出実の言うとおりだと思いますよ、お姉さま」
 考えてみると、この真美の一言が三奈子の火種となったのだ。
 ただ単に、三奈子の軽い暴走をいつものように真美が諫めているだけなのだけれど、このときは何故か、
【姉を無視して妹を贔屓している】
 と三奈子には見えてしまったのだ。
 自分でも嫉妬だなと、心の冷静な部分ではわかっているのだけれど、でも止まらない。
「わかったわ。じゃあ私が蔦子さんに話してみましょう」
「え? でも」
「大丈夫よ、任せて。こう見えても説得には自信があるわ」
 そう言って、三奈子は意気揚々と部室を出たのだ。
 やっぱり駄目だった、と言っておめおめと戻っていくわけにはいかない。
 だからといって、実際に蔦子に対する有効な手だてがあるわけでもなかった。要は、日出実の前で真美の役に立つと言うことを見せつけたかった、ただそれだけの対抗意識から出たはったりだったのだ。
 しかし、
「見たいという気持ちはわかりますけれど、それとこれとは話が違うのではありませんか? 相手が見せたくない物を無理矢理見るというのは暴力にも等しいです」
 蔦子はにべもない。
 三奈子にはもはや言うべき言葉はないのだ。これ以上、蔦子を説得する言葉は見つからない。
 何か無いか。何か無いかと頭を捻っていると、突然写真部のドアが開く。
「ごきげんよう、蔦子さま」
 三奈子は入ってきた一年生の顔に見覚えがあった。確か、内藤笙子。蔦子の妹になると目されている一年生だ。
「あ、何か御用の最中でしたでしょうか?」
 三奈子に驚いた笙子が、右手に持っていた物を隠すように後ろ手に回しながら尋ねる。
「いいのよ、笙子ちゃん」
 三奈子さまはもう帰るところだから。と言って、三奈子を押しのけるようにして笙子を迎え入れようとする蔦子。
 そんなことをされて、素直にはい失礼しますと出て行くような三奈子ではない。暴力的にならない程度に強く抵抗すると、笙子が三奈子の動いた拍子につまづいてしまった。
「あら、ごめんなさい」
 手をさしのべて笙子を助けようとする三奈子は、笙子と抱きあうような形になって向かい合う。
 そこでふと、三奈子は違和感に気付いた。
「口紅?」
 笙子は慌てて右手で口元を隠す。そして即座に左右の手を入れ替えた。
「ちょっと」
 再び背中に戻そうとした笙子の手を掴む三奈子。
「これは何かしら?」
「あ、あの……」
「三奈子さま、なにを……」
 二人の間に入ろうとした蔦子も、笙子の手に持っている物に気付いた。
「笙子ちゃんだったかしら? なにを持っているの?」
 有無を言わせず、三奈子は笙子の手を引く。
「化粧品は特別なことがない限り、持ち込み禁止のはずよ」
 肌が弱い人や皮膚疾患の人のため、あるいは制汗などの用途以外での化粧品の持ち込みは、リリアンでは禁止されている。
 少しくらいなら見逃してくれるのかも知れないけれど、口紅は間違いなく許容範囲外だった。
 とは言っても小さな口紅くらいどこにでも隠すことはできる。先生やシスターに見つかると取り上げられてしまうのだけれど、そのリスクを犯して持ってくる子は少なくはない。
 でも、校則違反であることには間違いない。持ち込んできたことを公表できるわけもないのだ。
「あ、あの、これは……」
 言いかけて笙子は口を閉ざす。
 蔦子さんに見てもらいたかった。そんな言い訳が通らないことは、言われなくてもわかる。誰が見ても、校則違反をしているのは自分なのだ。
「どうやら、蔦子さんの妹候補は、校則違反をしたみたいだけれども」
 三奈子が勝ち誇るように笑った。
「蔦子さん、取引はどう?」
「取引って……。三奈子さま、一体なにを」
 あたふたと二人を代わる代わるに見つめている笙子の肩に、落ち着かせるように手を置くと、蔦子は尋ねる。
「まさか、山百合会の写真……」
 三奈子はニッコリと笑う。
 流石に卑怯かな、と思わないでもない。けれど、今の三奈子は背に腹は替えられないのだ。なんとしても、ここで実績を見せつけて真美にいいところを見せたい。
 その思いの前に、多少の倫理は吹っ飛ばされている。
 一方笙子は、ただならぬ雰囲気に脅えていた。
 なにが起こっているのかは今ひとつよくわからない。けれど、自分のために蔦子さまに迷惑がかかりそうだと言うことは理解できた。
 そんなのは嫌だ。絶対に。
 絶対に嫌だ。
「待って下さい」
 笙子は大きくハッキリと告げる。
「悪いのは私ですから、私が先生のとこに行って謝ってきます」
 慌てる三奈子、当然のことながら、三奈子は別に笙子を追いつめるつもりはない。蔦子さえ写真を提供してくれるなら、後はどうでもいいのだ。
「ちょっと待ちなさい。別にそう言うことがしたい訳じゃないの」
 蔦子も同時に笙子を止めていた。
「待ちなさい。笙子ちゃん」
「でも、蔦子さま。私のせいで」
「変なことは気にしないで。笙子ちゃんのせいとか、そういう問題じゃないの。この人が」
 蔦子は三奈子を指し示す。
「無理難題を押しつけてくるだけのことなんだから」
「無理難題とは失礼ね。私はただ取引を持ちかけているだけよ」
 三奈子の方もここまで来たらもう後に退くわけにはいかない。
「それを無理難題と言っているんです」
「とにかく、笙子ちゃんが口紅を持ってきたというのは紛れもない事実よ」
 その言葉に、蔦子は腕を組んでふふんと笑う。
「口紅ですって? 三奈子さま、そんな物がどこに?」
 この言葉には三奈子が呆れた。
「しらばっくれるにしても、ちょっと無茶すぎない?」
「何がです? 口紅なんてどこにもありませんよ?」
「蔦子さん?」
 三奈子の表情は、あからさまに呆れていた。庇う気持ちはわかるし、庇うだろうとは思っていたけれど、武嶋蔦子さんともあろう人がこんな稚拙な庇い立てをするなんて。
「まさか、これが見えないとでも言うつもり?」
 握ったままの笙子の手を、三人の真ん中に持ってくるように引っ張り降ろす。
 笙子の手に握られているのは、今さら言うまでもなく口紅だ。
 しかし、蔦子は慌てずに言った。
「それは、口紅を模したチョコレートです。シガレットチョコとかがありますでしょう? 同じような物ですわ」
「赤いじゃない」
「イチゴ味ですから」
 あっさりと切り返す蔦子。
「唇に塗っているのは何よ」
「チョコレートの味見をしたのよね、笙子ちゃん」
 言い訳されて怒る、というよりも呆れて、三奈子はまじまじと笙子と蔦子を見比べている。
「あくまで、チョコレートというつもりね?」
「事実を述べているだけですわ」
 蔦子も一歩も退かない。
 蔦子にもわかっている。三奈子さまには悪気はない。笙子や蔦子に悪意を持っているわけではない。
 ただ、新聞部のためを思って暴走しているだけなのだ。そして蔦子は、そんな風に何か好きな物や人のために暴走できる人間が嫌いではない。
 祐巳さんしかり、由乃さんしかり。令さまや祥子さまだって。
 自分がいつも傍観者でいるから、暴走できる人間にはうらやましさすら覚えてしまうのだ。
 だから、今の三奈子さまを完全に否定するつもりもない。ただ、この場を収めてもらえればそれでいい。
 けれど、蔦子の想像以上に三奈子は暴走しているのだった。
「だったら……」
 三奈子は笙子の手から口紅を取り上げると、蔦子の眼先に突きつける。
「チョコなら、食べられるわよね?」
「ええ」
 慌てず騒がず、蔦子は三奈子の手から口紅を受け取った。
「蔦子さま……」
 笙子の泣きそうな声に、蔦子はニッコリと微笑む。
「ごめんね。先に食べちゃうけれど、許してね」
 笙子は心の底からこの状況に焦っていた。
 三奈子さまに手を握られている。けれど決してその力は強くない。それどころか優しいと言ってもいいくらいの力だった。
 だから、安心してしまった。三奈子さまに悪意はないと思っていた。
 その笙子の直感自体には間違いはなかったのだけれども、笙子は三奈子さまの暴走ぶりをまったく知らなかったのだ。リリアンかわら版を中等部時代から愛読していたとはいえ、三奈子さまの取材ぶり(暴走ぶり)を当時高等部にいなかった笙子が知るはずもなく、笙子にとって三奈子はただの「日出実さんのお姉さまのお姉さま。新聞部員」でしかないのだ。
 まさか、ここまで蔦子さまを追い込むなんて。
 そして、それは三奈子さまの責任ではない。愚かな行為をしてしまったのは自分なのだ。
「蔦子さま……」
 泣きたいくらいの自己嫌悪。そして、罪悪感。また、蔦子さまに迷惑をかけてしまった。
 尚も言葉を重ねようとした笙子の口元に、蔦子さまの指が当てられる。
「静かに、ね?」
「蔦子さん?」
 何故か三奈子さまの慌てたような声。
 口紅が蔦子さまの唇に挟まれ、何かを噛むように顎が動いた。
「蔦子さんっ!?」
「蔦子さま!」
 三奈子さまと笙子の手が同時に動いた。
 三奈子さまの手が口紅を奪い、笙子の手は蔦子さまの肩へ。
「何やってるのよっ!」
「吐いて、吐いて下さい!」
 
 
 憑き物が落ちたように平身低頭して帰っていく三奈子さま。
 残った笙子は泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「ほら、泣かないの。別に大したことじゃないんだから」
 蔦子は笙子を椅子に座らせると、床に転がった口紅を拾ってテーブルの上に置く。
 蔦子自身には、不思議と満足感があった。
 馬鹿なことをしたという理解はある。
 口紅を囓るなんて、相当の馬鹿だったなぁと思う。
 それはまさしく、暴走だった。
 そしてそれが、何故か満足感に繋がっていた。
 なんだ、私も暴走できるんだ。それも、誰かのために。
 祐巳さんや由乃さんと同じなんだ。
 私も、笙子ちゃんのために馬鹿なことできるんだ。
 それがとても嬉しい。そして誇らしい。嬉しい。
「だって、蔦子さまが……」
 泣いている笙子を、蔦子は優しく見下ろしていた。
 蔦子は何も言わず、笙子の横にもう一つの椅子を滑らせた。
 そこに座ると、笙子の頭を自分の胸元に引き寄せる。
「嬉しかったから」
 笙子の泣き声が一瞬止んだ。
「笙子ちゃん、私に口紅つけた姿を見せに来てくれたんでしょう? それとも、私の自惚れかしら?」
 ブンブンと首を振る笙子。見上げる瞳が涙に濡れて、息を呑むほど綺麗に見える。
「だから、嬉しいの。笙子ちゃん、私に見せたいと思ってくれたんだもの」
 ハンカチを取り出して、蔦子は笙子の涙を拭う。頬まで流れた涙を拭うときに、唇に触れて紅が少し落ちてしまった。
「ごめんね、少し落ちちゃったみたい。もう一度、きちんと見せて欲しいな」
 言いながら、蔦子は口内の異物感に顔をしかめる。
 舌で探ると、左の犬歯の裏側に紅の破片が付いていた。
 ちゃんと口をゆすいだはずなのに。
 舌で取り出して、ハンカチに出そうとしたところで、動きが止まる。ふと、笙子の唇が気にかかっていた。今し方、紅を落としてしまった部分。
 舌先の紅を笙子が見つめていた。
「笙子ちゃん、紅が欲しい?」
 蔦子はその声を他人の物のように遠くに聞いていた。声がかすれていないだろうか?
 笙子は頷く代わりに、両手を蔦子の背中に回す。そして、しがみつくように、何かに奪われまいとするようにしっかりと蔦子の背中を抱きしめる。
「塗ってあげようか?」
 囁くような、かすれるような、それでいて熱っぽい声に、笙子ははただ頷くだけだった。
 
 舌先の紅一欠片は、唇を彩る紅へと生まれ変わる。
 
 塗ったはずの紅がまた剥がれ、笙子の唇を彩る紅は蔦子の唇の紅へと移動する。
 紅のやりとりは飽きることもなく続けられ、剥がれては塗り直され、塗っては剥がされ、二人の間に熱く濡れた紅は行き交う。
 
 
 
あとがき
 
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