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可南子のお姉さま
 
 
 
 祐巳さまの妹になる気はありません。
 そう、日出実に答えたのは嘘じゃない。嘘をついたつもりなんてない。
 だけど、そう宣言したときに少し寂しいような気がしたのも間違いのないことで。
 そんなことをとりとめもなく思い出しながら、可南子は人気のない校舎裏に立っていた。
 もう、誰かを避けたりする必要なんてないのに。
 どうしてだろう――自分に問うてみる。
 ただ、ちょっと一人になってみたかった。
 わかっていた。
 今日、クラスメイトが憧れていたお姉さまにロザリオを戴くことができた、と泣いているのを見かけた。その横には、「良かったね」と集まっている友達。
 特に親しいクラスメイトではなかったのだけれど、可南子も素直におめでとうと思った。だけど、口には出せない。
 もしかしたら考え過ぎかも知れない。でも、クラスの皆にとっては自分は未だに「紅薔薇のつぼみの妹候補だった可南子さん」なのだ。決して「妹になろうとは思ってない一年生」ではないのだ。
 身から出た錆とは言え、貼られたレッテルを無視するというのは辛いものがある。少し息苦しさを覚えて、思わず教室を出てしまった。
 だからといって行く所などない。薔薇の館は論外としても、ミルクホールも中庭にも行くことはできなかった。
 知り合いに……特に山百合会の誰かには会いたくない。
 とぼとぼと行く当てもなく歩いている内に、校舎裏に足が向いていた。
 誰もいない。
 寂しくて日の当たらないところ。だけど、今はそれがありがたかった。
 もうお昼休みは終わる。早く教室に戻らないといけない。
 ……サボろうか。
 不穏な考えが浮かんで、つい苦笑してしまう。
 そんなことができないことは、自分が一番よくわかっているのに。
 ロザリオ一つで大騒ぎ。なんておかしな学校。だけど自分も今では立派にその一員。
 ロザリオなんて。
 ……欲しくなかったと言えば嘘になる。
 たけど、あの人にはもっと相応しい人がいる。私にとってあの人は一番じゃない。けれど、あの人を一番に想っている人は他にいるから。
 文化祭の中でお父さんと夕子さんに会えたこと。それはきっと、祐巳さまと元薔薇さま方のおかげなのだと思う。祐巳さまへの感謝の念は増しこそすれ、減ってなどいない。
 だけど、夕子さんと再会して気付いたことは、自分が夕子さんを祐巳さまに重ねていたこと。いや、前からとうに気付いていて、自分では気付いていないふりをしていたことを再確認しただけなのだ。
 わかっている。
 教室に戻ろうとした可南子の視界に、程よい高さの木の枝が映る。
 二本の枝は、まるでこちらに向けて伸ばした手のよう。木の枝が可南子を求めているように伸びている。
 ふと悪戯心を起こした可南子は、その枝の間に立ってみた。
 ちょうどいい。
 まるで、誰かが自分の首にロザリオをかけてくれているような気がする。そのぐらいの高さと角度の枝ぶり。
 ……可南子ちゃん、私の妹になって。
 そんな声が聞こえたような気がした。
「ええ。喜んで」
 そんな風に答えたのは、ただの気まぐれ。なんの反応も期待しているわけもない気まぐれ。
 けれども――
 
 
 おや? と志摩子は立ち止まった。
 銀杏拾いの秘密スポットに先客がいる。
 拾い尽くしたつもりでも、見過ごしたものがあるかも知れない。もし、見過ごしていれば保護しよう。そのつもりで最近は各スポットを休み時間ごとに回っている。
 志摩子の行動になら何も言わなくてもついてくるはずの乃梨子は、銀杏調査になるとどうしても外せない用事ができてしまうらしい。
(乃梨子も運が悪いわ)
 と、志摩子は本気で思っている。
 勿論、今日も乃梨子はいない。志摩子は一人で嬉しそうに銀杏を拾っていた。
 思った以上に見過ごしたものが多く、そしてその中には数多くの逸品が。
 そのままほくほく顔で拾い続けてるところで、可南子ちゃんを見かけたのだ。
(可南子ちゃん? こんなところで?)
 誰かと話しているように見える。でも、こんなところで。まるで人目を忍ぶかのように。
(もしかして、祐巳さん?)
 相手の姿は光の加減でよく見えない。けれど、両手を可南子ちゃんの首に伸ばしているのはわかる。
 あれは――ロザリオの授受?
 何かがキラリと光ったように見えた。
 間違いない。あれはロザリオだ。けれど、可南子ちゃんに一体誰が?
 少し考えて、志摩子は心の中で首を振った。
 志摩子は、彼女と特に親しいというわけではない。それどころか、言葉すらほとんど交わしたことはないだろう。可南子ちゃんの交友関係にいては全くの無知なのだ。べつに、祐巳さん以外の上級生に知り合いがいてもいいだろう。
 けれど、乃梨子に聞いた話から考えると、そんな人はいないように思える。では一体誰が。
 可南子ちゃんの前に立っているのが誰だか、相変わらずよく見えない。なんとなく、気付かれないようにこっそりと足音を忍ばせながら志摩子は、可南子ちゃんの相手を確認しようとする。
 そして、あることに気付いて志摩子は足を止めた。
 光の加減で相手の姿が見えない。最初はそう思っていた。だったら、どうして移動しても光の位置が変わらないのだろう。こちらが移動すれば、光の加減は多少なりとも変わるはずなのに。
 どう動いても相手が見えない。
 これは、光の加減なんかじゃない。
 そう、相手が見えないのではなかった。
 相手は、いないのだ。
 
 
 後から思うと、よくパニックにならなかったものだ。可南子はそう考えて、自分の対応を思い返していた。
 確かに、声は聞こえた。それは気のせいなどではなかった。
 ロザリオを首にかけられる感触があった。いや、それがロザリオであるかどうかはわからないけれど、とにかく何かが首にかけられる感触。
 何故か、可南子はそれを受け入れてしまった。
 その瞬間、彼女が見えたのだ。
 背の高い、可南子と同じくらいの背の女性が立っていた。
 彼女が着ているのは紛れもないリリアンの制服だけれども、どこか微妙に違和感がある。それに彼女の雰囲気自体もどこかおかしかった。
 端的に言ってしまえば、彼女の向こうに風景が見えている。
 彼女の姿は透けていたのだ。
 幽霊。そう思ったけれど、不思議と恐怖も嫌悪感もなかった。
 最初に呼びかけられた口調が、あまりにものんびりとしたものだったからだろう。
 ……可南子ちゃん、私の妹になって。
 どうして、応えてしまったのか。受け入れてしまったのか。
 後から考えてもそれだけがわからない。魅入られたとか、取り憑かれたとかそんなものじゃないのはわかる。
 強いて言うならば、あまりにも見事なタイミングだろうか。その瞬間ならば、誰に言われても思わず受け入れていたに違いない、そんな瞬間に、彼女は声をかけたのだ。
 不思議な相手を、可南子はじっと見つめていた。
「……幽霊?」
 ようやく出た言葉に、彼女は微笑んだ。
 ……うん、多分そんなところだと思う。
 なんていい加減な。驚くよりも呆れて、可南子は非難がましい顔つきになってしまう。
 ……うう、そんなに怒らないでよ。私だって、わからないんだから。
「……貴方は、誰なの?」
 ……私は……あれ? ……忘れてしまったわ。
「名前を?」
 そんなものなのか、と思うしかない。それに、もしかしたら言いたくない事情があるのかも知れない。幽霊になると言うことがどういうことなのか、勿論可南子には想像すらできないけれど、とりあえずは向こうの言うことを尊重しようと思っていた。
 午後の授業に間に合わせるため急いで教室に戻りながら、可南子はこのいきさつをじっくり考えていた。
 幽霊と遭遇してしまったのも驚きだけど、結構自分は肝が太かったのだなぁと、その部分にも驚いている。幽霊に出会ってというのにこんな平然としていられるなんて。
 彼女はいわゆる「幽霊」とは違っているようだった。可南子は彼女にまったく悪意を感じなかったのだから。
 それどころか、放課後にもう一度会う約束までしてしまった。当然、可南子はその約束を守るつもりだ。
 授業が全て終わって、終礼も終わる。掃除当番ではないのでこれで教室に残っている理由はない。
 そそくさと教室を出ようとすると、
「あ、可南子。ちょっと待って」
 何故か乃梨子さんが引き留める。
「しま……白薔薇さまが可南子に用事があるらしいのだけど?」
 そう言えば、さっきの休み時間に白薔薇さまが姿を見せたと、クラスメート達が騒いでいたような気がする。けれど、自分に用事があるのならその時に言えば良かったのに。そもそも、白薔薇さまが一体自分になんの用事があるというのか。
「白薔薇さまが?」
 頷く乃梨子も、不審な表情を隠せない。どうやら、乃梨子も白薔薇さまの用事がなんであるかは知らされていないようだった。
 直接引き留められてしまっては仕方なく、可南子が待っていると程なく志摩子さまがやってくる。
「可南子ちゃん、ちょっといいかしら」
 いいえ、と言えるわけもなく、可南子は志摩子さまに言われるまま教室を出る。
「乃梨子、悪いけれど、薔薇の館に先に言っていてもらえるかしら?」
 当たり前のようについてきていた乃梨子に志摩子さんがそう告げると、乃梨子は驚いた顔になる。
「え? お姉さま、可南子だけを?」
「理由は後でちゃんと説明するから、ね?」
 そう言われると、乃梨子もそれ以上逆らうことなどできるはずもなく、わかったと言い残して薔薇の館へ行ってしまう。
 何がなんだかわからないけれど、それでも可南子は志摩子さまについていく。
 少しして、可南子の目が険しくなる。
「白薔薇さま、一体どこへ行かれるのですか?」
 志摩子さまは、昼休みに可南子が幽霊と出会った場所へ向かっていたのだ。
「可南子ちゃん、正直に応えて欲しいのだけど」
 前置きに返事を求めず、志摩子さまは続ける。
「お昼休みにそこで会っていたのは、誰?」
 見られていた。可南子は咄嗟にそう悟った。
「知らない人です」
 素直に答えるしかない。可南子は咄嗟にそう考えていた。
 どうなるかはわからない。可南子は志摩子さまとはあまり話したこともない。けれど、藤堂志摩子という人は、乃梨子の姉、祐巳さまの親友、佐藤聖さまの妹なのだ。そう考えれば、悪い人であるわけもない。
「知らない……人、なの?」
 やっぱり。そして可南子は、志摩子さまがお寺の娘だと言うことを思い出す。普通の人よりは、詳しいのかも知れない。
「かつては人であった方だと思います」
 何故だか『幽霊』と言う単語を出すのが憚られた。言葉のマイナスイメージを嫌っているのかも知れない。
「お知り合いの方なの?」
「いえ。お昼休みに、始めて会いました」
 そう言っている間に、二人は可南子が幽霊と始めて会った場所に着いていた。
 ……うれしい。ちゃんと来てくれたのね? あれ、その人は?
 突然現れた姿に、可南子はどう説明したものかと一瞬迷う。でも、相手がリリアン出身ならば、志摩子さまの紹介は簡単だった。
「今の、白薔薇さまですわ」
 ……まあ。白薔薇さま? 綺麗な子ね。
 可南子の視線を追う志摩子さまの表情が険しくなる。
「可南子ちゃんには見えているのね?」
 つまり、志摩子さまには見えていない。
「どうして、私にだけ?」
 まさか、ロザリオを受け取ったから?
 他に思い当たる節はない。別に血筋にイタコや霊能力者がいたなんて話は聞いたことがない。
 それでも、志摩子さまには何となくわかるようだった。
「ごきげんよう。藤堂志摩子です」
 ……ごきげんよう、白薔薇さま。
「見えたのですか?」
 志摩子さまは微笑んで首を振る。
「いいえ、ハッキリと見えはしないのだけれど、なんとなくそこにいることがわかるの」
 
 
 調べると、答はすぐに出た。
 幽霊の制服は、リリアンの制服の古いタイプのものだった。
 戦前のものだという。明治時代からある学校からすれば、それほど古い話ではないのかも知れないけれど、可南子達から見れば生まれる前の話。充分に大昔だった。
 そして、戦前ならば、今とは違って若い内に病でなくなることもそれほど珍しい話ではない。無論、リリアンの生徒であっても例外はない。
 妹にロザリオを渡そうとして、その願いが果たせずになくなった生徒がいたとしても、おかしな話ではないのだ。
 どちらにしろ、本人の生前の記憶があやふやで、そんな生徒がいたとしてもそれが彼女に当たるのかどうかはわからない。それでも、何もわからないよりはマシだった。
 結局、志摩子は乃梨子に真実を告げなかった。
 志摩子自身は、幽霊の存在を何となく信じている。この場合、仏教やキリスト教での幽霊に対する見解は問題ではない。志摩子は信じていると言うよりも、肌で納得しているのだ。
 寺で育つというのは、そういうことだ。
 乃梨子がどう思うかはわからない。信じないのなら、それはそれで構わない。けれど、脅えるかも知れない。それを志摩子は危惧した。
 いずれ話すにしろ、後のことだ。志摩子はそう決めていた。
 可南子と何か秘密を持っている――乃梨子はそう解釈しているようだった――しかもそれは間違っていない。けれど、可南子ちゃんのプライベートなことについて相談された、と志摩子は乃梨子に思わせている。そうすれば、乃梨子はそれ以上踏み込んでは来ない。
 一方、可南子は幽霊とのつき合いを続けているようだった。
 と言っても、休み時間や放課後に会いに行くだけなのだけれど。
 幽霊――結局名前は不明のまま――は、最初に出現した場所から遠くに移動することはできないようだった。
 時々、志摩子も様子を見に行くのだけれど、やはり姿を見ることはできなかった。未だにぼやっとした存在を感じるだけだ。
 志摩子は、幽霊の存在を誰にも打ち明けなかった。信じてもらえない、というのも一つの理由だけれども、それ以上に可南子ちゃんと幽霊の関係を壊したくなかった。
 志摩子は、可南子ちゃんと祐巳の間に起こったことを聞いている。そして、文化祭で起こったことも後から聞いていた。
 今の可南子ちゃんには話し相手が必要なの。そう志摩子は思った。それも、乃梨子のような同級生ではない、年上の相手が。
 可南子ちゃんを受け入れて何でも話を聞いてくれるような相手が。
 今の祐巳さんにそれはできない。瞳子ちゃんや祥子さまとの関係がそれを許さない。そして、祐巳さん以外の誰が、可南子ちゃんにそうできるだろうか。
 誰もいない。
 だったら、幽霊が相手で何が悪いというの?
 生きているか死んでいるか、ただそれだけの違いだというのに。
 現に、可南子ちゃんは少しずつ人が変わったように明るくなっている、と乃梨子に聞いている。それは多分、人が変わったのではなくて、元に戻っているのだろう。中学時代の可南子ちゃんはそんな子だったに違いない。
 だから、志摩子は可南子ちゃんと幽霊とのやりとりをそっとしておいてやりたかった。
 
 
「ごきげんよう」
 ……ごきげんよう。
「今日はいい天気ですね」
 ……うん、それはわかる。目で見えることは私にもわかるんだ。だけど、温かいとか、そういうのはわからなくなっちゃった。
 可南子はお弁当を取り出した。お姉さまは食べることができないけれど、可南子が食べる姿を見るととても歓んでくれる。
「いただきます」
 ……うん、いただきます。
 食べ終わって、とりとめのない世間話。
 ……あ、ご飯粒。
 幽霊の手がそっと可南子に触れようとして通り過ぎる。
 ……あ。
「あ……」
 可南子の身体を貫くように通過する腕。
 気まずくなって、可南子はそっと離れる。
 決して触れることのできない相手。最初にロザリオをかけられたような感触があって以来、まったく何も感じたことはないのだ。
 ……握手とか、抱っことか、できたらいいのにね。
「お話しするだけでも、私は充分に楽しいです」
 ……ありがと、可南子
 
 
「やっと会えたね」
 志摩子は、見覚えのない相手に首を傾げた。
「どなたですか?」
「可南子のお姉さま。といえばわかる?」
 志摩子は、あ、と叫びかけて口を閉じた。驚くのは失礼だ。げんに自分は一度挨拶までしているではないか。
「どうして?」
「うん。どうしても話したいことがあって。可南子以外で私のことを知っているのは貴方だけだもの」
「なんですか?」
 自分でも驚くほど、志摩子は落ち着いていた。
「貴方、お寺の娘さんなんでしょう? 私を成仏させて欲しいの」
 さすがにそれは予測していなかった。
「このままだと、可南子が大変なことになってしまうわ」
「どういうことなんですか?」
「私が甘かったのよ。所詮、私は死者なの。生者と死者の境は、そう簡単に越えてはいけないのよ。このままだと、可南子を引きずりこんでしまうかも」
 引きずりこむ。死者の世界に引きずりこむ。それって……
「誤解しないで。私の意志じゃないの。だけど、私は結局死者なのよ。生と死の境は私にはどうしようもないの」
「でも成仏って……」
「簡単にお経の一つも唱えてくれればいいわ。私は可南子という妹ができたおかげで現世にもう執着しないから、きっかけさえあればいいのよ」
「でも、可南子ちゃんが……」
「あの子、頑固よ」
 幽霊が笑った。
「最近は、お姉さまの言うことには絶対服従じゃないのかしら?」
 幽霊の姿が突然ぼやけた。
「お願い、助けて! これは夢じゃないのよっ!」
「志摩子?」
 祥子さまの声で目が覚めた。
「志摩子、珍しいわね。貴方が薔薇の館で居眠りしているなんて」
 夢?
 今のは夢?
 志摩子は思わず辺りを見回していた。
「どうしたの? 志摩子?」
「ごめんなさい、紅薔薇さま。突然用事を思い出して」
 驚く祥子さまを置いて、志摩子は館を飛び出た。
 思わず走っている。驚いている生徒達も気にせず、志摩子は校舎裏へと向かった。
 可南子ちゃんがいた。
「可南子ちゃん!」
 咄嗟に叫ぶと、驚いてこちらを見る。
 その手に握られているものに、志摩子は悲鳴を飲み込む。
 左手首の内側に当てられようとしているカッターナイフ。
「駄目ッ!」
 志摩子は飛びついた。
 けれど、可南子ちゃんは振り払おうとする。
「可南子ちゃん! 駄目!」
「だって、こうしないとお姉さまには会えないのよ!」
 ……やめて! お願い、可南子、やめて!!
 可南子ちゃんに触れているせいだろうか、幽霊の声が志摩子にも聞こえていた。
 ……そんなこと、私は望んでないのよ!! お願いだからやめて!
 ……白薔薇さま! 可南子を止めて!
 志摩子は必死で可南子ちゃんにしがみついた。
「お願いだから落ち着いて、可南子ちゃん!」
 どこからかとんでもない怒声が聞こえた。
「あんた、なにやってんだっっ!」
 何かが可南子ちゃんの背中に当たって、そのまま押し倒した。その拍子で手から落ちたカッターナイフを志摩子は咄嗟に拾い上げて、遠くに放る。
 それからやっと、今の声の主が誰であるかに気付く。
「乃梨子?」
 息を弾ませた乃梨子が、仰向けになって倒れている可南子ちゃんの上に馬乗りになっていた。
「何やってんだよっ! 可南子!」
 初めて聞くような乃梨子の怒声に、志摩子は戸惑い、ゆっくりと二人に近づいていく。
「……志摩子さんが血相替えて走っていくから、何事かと思って追いかけてきたら……可南子が……」
 可南子ちゃんは、驚いた顔で乃梨子を見上げていた。
「乃梨子さん……」
「何やってんのよ、貴方は……ホントに……」
 ショックのあまりに泣き出した乃梨子の肩を志摩子は優しく抱いた。
「……私、どうしてこんな……」
 ……可南子、やっと正気に戻ったね。貴方、錯乱していたんだよ。
「お姉さま? どうして?」
 ……やっぱり罰が当たったんだね。私は、所詮幽霊なんだ。死の世界の住人なんだ。だから、生きている可南子と一緒にいちゃ駄目だったんだよ。可南子が、死者の気にあてられてちゃったんだよ。
 ひっ、と引きつけるように乃梨子が泣きやんだ。
 その視線が、幽霊に向けられていた。
 今は、乃梨子にも見え、かつ聞こえているらしい。
「し、し、し、し、志摩子さん!?」
「大丈夫、乃梨子。悪い人じゃないわ」
 志摩子は今までの出来事をかいつまんで乃梨子に説明する。
 呆然とした顔で、乃梨子は志摩子と可南子ちゃん、そして幽霊を見比べている。
「あの、乃梨子さん。もう降りてもらっても大丈夫です」
 そう言われて、慌てて降りる乃梨子。
「ご、ごめん、可南子」
「いえ、却って感謝いたします。錯乱していた私を止めてくれたんですもの。それよりもさっきの言葉遣い、中学時代のものですか?」
「……お願い、忘れて」
 乃梨子が降りると、可南子ちゃんは制服についた砂や土を払いながら立ち上がった。
「お姉さま、どういうことですか?」
 志摩子は、乃梨子に合図すると二人でその場をそっと離れた。
「志摩子さん?」
「しばらく、二人にしてあげるのよ」
 志摩子の言う「しばらく」は二十分ほどだった。
「白薔薇さま、お願いがあるのですが」
 そう言って可南子ちゃんがやってきたとき、志摩子にはその内容の予想がついていた。けれど、自分からは言わない。
「白薔薇さまは、お姉さまを成仏させてあげることができるんですか?」
「ええ」
 まるで、その言葉をずっと待っていたかのように志摩子はハッキリと答える。
「可南子ちゃんは、それでいいのね?」
「よくありません」
 乃梨子が何か言いかけるのを志摩子は止める。今の可南子の答えも予想できていたから。
「けれど、わかっているのね?」
「はい」
 理屈はわかっている。だけど、感情が納得しない。
 だけど、理屈はわかっている。
「お別れは済んだの?」
「はい」
 志摩子にとっても、それは同じだった。
 幽霊の存在が可南子ちゃんの精神を不安定にさせている。そして幽霊は成仏を嫌がってはいない。それどころか、可南子の害になるくらいなら自分が成仏することを願っている。
 だけど、二人を別れさせていいものか。例えそれが仕方のないことだと言っても、自分がその役割を果たすのは辛い。
 だけど、それしかない。
 志摩子は手を合わせた。門前の小僧習わぬ経を読む、ではないが、父の読経を聞いている内に自然と一節を覚えてしまっているのだ。
 その横で乃梨子も手を合わせる。いつも持ち歩いているのか、小さな仏像のキーホルダーも一緒だ。
 そして可南子ちゃん。
「……お姉さま」
 小さな呟きが、志摩子の心をちくりと刺した。
 
 
 乃梨子は、閉じていた目を開けた。
 さっきまで見えていた姿は見えない。気配も感じない。
 志摩子さん、と言いかけて伸ばした手を戻す。
 可南子が泣いていた。
 志摩子さんは、泣いている可南子をしっかりと抱きしめている。
 仕方ないよね。
 乃梨子は頷いた。
 今日だけは、志摩子さんを貸してあげるよ。可南子。
 乃梨子はそっと、その場を後にした。
 
 
 
あとがき
 
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