由乃の決心
珍しく独りぼっち。
今日はお姉さまは家の用事があると仰っていたし、由乃さんと令さまは剣道部。そして志摩子さんは環境委員会で遅くなる。
一年生は校外活動で今日は来られないはず。
考え直してもやっぱり一人だった。
だから今日は別に休んでも良かったのだろうけれど、細かい仕事が一つ残っている。
大きな仕事を一人でやるのはちょっと難しいかも知れないけれど、細かい仕事は速く終わらせておいて、皆がいるときはゆっくりしたい。そう考えて、祐巳は薔薇の館に来ているのだ。
自分のために紅茶を煎れて、ゆっくりと細かい仕事をしていると、由乃さんが姿を見せた。
「あれ? 祐巳さん来てたの?」
「うん。細かいお仕事をやってしまおうかと思って。それより由乃さん、部活は?」
「ああ、いいのよ。今日は顧問の先生もいないし、自由練習だって。私はどっちにしても基礎トレーニングだけだから、早めに終わったわ」
なるほどと思って、祐巳は書類の束をチラリと持ち上げる。
「だったら、由乃さん、これ手伝って?」
「うーん。見ちゃったからには仕方ないわね。祐巳さん一人に任せておくのは、良心が咎めるもの」
「明日、お姉さまといるときはゆっくりしたいもの。由乃さんだって、令さまと一緒に仕事をするより、一緒にゆっくり出来た方がいいでしょう?」
「そりゃあね」
由乃さんは祐巳の隣に座ると書類を手に取った。
「あ、部活動の臨時予算の話? あそこが全国大会まで進出するなんて、悪いけれど、誰も予想してなかったもの。嬉しい誤算っていう奴よね」
二人がかりだと、やっぱり仕事はスムーズに進む。やがて、これ以上は二人ではどうしようもないところまで進んでしまう。あとは薔薇さまの決済が必要となるので、二人だけでは手を出すことが出来ない。
仕事をしながらも、祐巳は由乃さんの妙な様子に気付いていた。
落ち着きがない。いや、それは大なり小なり普段からそうなのだろうけれど、普段とは少し違う。
事務仕事に飽きているのではなくて、何か考え事をしている風なのだ。それも、心配事ではない類の。
なにか、計画している?
「ねえ、由乃さん?」
祐巳は思いきって尋ねてみることにした。
「何か、企んでない?」
「やだ。顔に出てた?」
どうやら、大当たりだったよう。
「うん。少しね」
「あー、祐巳さんの百面相が伝染ってきたのかしら」
そんな馬鹿な。
「聞くだけ聞こうか?」
「たいした話じゃないの。個人的なことなのよ」
そう言われると、祐巳の好奇心も疼く。
「個人的って、令さまのこと?」
「どーしてわかるのよっ!」
江利子さま、令さま、菜々ちゃん。この三つしか心当たりがないから適当に言ってみただけなのだけれど、祐巳は普段のお返しとばかりにふふんと胸を張って答える。
「由乃さん、令さまのことで悩んでるって顔に書いてあったもの」
「嘘。あー、祐巳さんにまでわかっちゃうなんて、私いよいよ重症だわ」
「それは酷いよ、由乃さん」
「だって、祐巳さんの百面相は薔薇の館に来て以来ずっと変わらずじゃない? その祐巳さんに表情を読まれるなんて、これは修行の必要があるわね」
どんな修行なのかはさておいて、祐巳は重ねて尋ねる。
「私で役に立つなら、協力するけれど?」
由乃さんが少し首を傾げた。
「そうね……祐巳さんは、祥子さまの所にお泊まりに行ったことあるわよね?」
なんでそんな話に? と思いながらも祐巳は頷く。
「一緒に寝たことはある?」
「一緒にって……同じ部屋で寝たことはあるけれど……」
「二人きりで?」
「ううん、あの時は聖さまがいたわ」
隣の部屋には柏木さんと祐麒がいたけれど、それは多分この話には関係ない。
「うーん。それはちょっと参考にならないかなぁ」
祐巳は首を傾げた。二人きりで一緒に寝たことがないと参考にはならないのだろうか。だけど、そうなると参考に出来る人なんて結構限られてくるような気がする。
「由乃さん、一体何を聞きたいの?」
「何って、令ちゃんの所にお泊まりしたり、令ちゃんが私の所にお泊まりしたときの話よ」
言われてみれば二人は従姉妹。さらには幼馴染み。お泊まりの機会なんて、祐巳とお姉さまどころの騒ぎではない。これまでもこれからも、いくらでも機会はあるのだ。
「でも、それだと由乃さんと令さまよりも経験豊富な姉妹なんてそうはいないと思うよ」
「そうなのよ。だから悩んでいるのよ。相談する相手なんていないのよね」
だけど、その経験豊富な由乃さんが悩んでいることって。
由乃さん達以上に姉妹としての経験を持っている人なんて、それこそ実の姉妹でもなければいないような気が……
「あ、乃梨子ちゃんは?」
「え?」
「乃梨子ちゃんは確か妹がいたはずだから、参考になるかも」
由乃さんが首を捻る。
「うーん。実の妹は参考にならないと思うのだけれど」
「そうかな?」
祐巳も特にこれだと思ったわけではないのだけれど、そもそも由乃さんの悩んでいる内容がわからないのだから仕方がない。
「少なくとも、一緒に寝た、という経験はたくさんあると思う」
「それは、姉妹だからね」
結局この日は乃梨子ちゃんは薔薇の館に姿を見せなかったのだけれど、由乃さんは「祐巳さん、勝手に乃梨子ちゃんに相談持ちかけたりしないでよ」と言い残して帰ってしまった。
令は、祥子からその話を聞いた。
由乃の様子がおかしい?
「私も直接知ったわけではないのだけれど、祐巳がそう言っているのよ」
祐巳ちゃんと由乃は自分が嫉妬してしまいそうなくらい仲良しなのだから、祐巳ちゃんがそう言うのなら間違いないのだろうと令は思う。
それでも、由乃の様子を祐巳ちゃん、ひいては祥子から聞かされるのはちょっと悔しい。毎日顔を合わせている自分が何も気付かないのに。
いや、ちょっと待って。
令はよく考えてみた。
そう言われてみれば、この一週間ほどの由乃はおかしいかもしれない。
そうだ。言われてみなければ気付かなかったかも知れないけれど、確かによく考えるとおかしい。由乃らしくない。
よくよく思い返してみると、この一週間ほど由乃は令の部屋に入っていないのだ。今までのことを考えるとこれは不自然だ。
そもそも、特に用事が無くても由乃と令は互いの部屋に出入りしている。互いの部屋と言うよりも、二人の共同部屋と言った方がわかりやすいくらいだ。だから、令も由乃の部屋にはよく入っている。その逆もしかり。
けれど、この一週間ほどは令が一方的に由乃の部屋に入っているだけで、由乃は令の部屋には一歩たりとも入っていないのだ。家には普通に入ってきているので気付かなかったのだけれど、祥子に言われて由乃の行動を思い返してみたら、はたと気付いてしまった。
「令? 何か思い当たる節でもあるの?」
祥子の呼びかけに、令は我に返った。
「あ、う、うん」
誤魔化そうとかとも思ったけれど、気付かせてくれた祥子を誤魔化すのは忍びないような気もする。
「ちょっとね。由乃が何を考えているかまではわからないけれど、言われてみればこの一週間ほどおかしかったような気もするよ」
「なにか、役に立てることはある?」
「ううん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
祥子は首を振った。
「私も勿論そうだけど、心配しているのは祐巳のほうよ。できれば、祐巳にもそう言ってあげてね」
令は思わず微笑んでいた。祐巳ちゃんのことを思う祥子の言動に荒れると、自然とこんな顔になってしまう。
「勿論。直接会ったときに伝えるよ」
その日、令は家に帰ると服を着替えてすぐに由乃の部屋を訪れた。
「どうしたの?」
先に帰っていた由乃は、いきなり姿を見せた令にも動じない。これくらいのことは、二人の間では珍しくないのだ。
「由乃、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
帰りながら、どう切り出そうか令は考えていた。そして、出た結論は「単刀直入」だ。由乃も下手に搦め手で聞かれるよりも直球で聞かれた方がいいだろう。余計な質問は話をややこしくするだけだ。
「祐巳ちゃんと祥子が心配しているよ」
何事? と顔を上げた由乃に口を挟む機会を与えず、令は一気呵成に言葉を続ける。
「気付かなかったことに関しては御免。私が鈍感だった。何か悩みがあるの? 由乃」
「令ちゃん、祐巳さんに何か言われたの?」
「ううん、祥子だよ。祐巳ちゃんは、祥子に相談したんだと思う」
令は素直に応えた。変に庇えば余計に悪い。それに、祐巳ちゃんが祥子に相談したのは何も話を広めるためではないということは令にも、そして由乃にもわかるはずだから。
それだけの信頼関係はある、と令は信じている。
「そっか。うん、祐巳さんに口止めなんてしなかったもの、祥子さまに話が通るのは考えてみれば当然ね」
案の定、由乃は素直に受け止めた。
そのまま由乃は何事か考えていたが、
「ねえ、令ちゃん。今夜、令ちゃんの部屋にお泊まりしていい?」
突然の問いに、令は一瞬固まる。
けれど、由乃の要求は特に無茶なものではない。
「それは、別にいいけれど」
「じゃあ、お風呂も一緒に入っていい?」
「うちのお風呂?」
シャワーなんかはないけれど、それは当然由乃もわかっていること。
「うん。それで、そのままお泊まりするの」
「夕食を食べてからね?」
「うんっ」
それじゃあね、と手を振りながら別れ、階下に降りたところで令は気付く。
結局、由乃はなんの質問にも答えていない。
うまく誤魔化されたのか?
いや、今夜お泊まりだと言っているのだから、その時に話すつもりなのだろう。泊まりがけと言うことは、結構長い話になりそうだ。
令は、軽いオヤツでも準備しようと考えながら、自分の家に戻っていった。
一方、由乃は……
案ずるより産むが安し、という言葉の意味を噛みしめていた。
祐巳さんが祥子さまに相談して、祥子さまが令ちゃんに何か言って……。
思いがけなくこんなことになってしまったけれども、この一週間というもの考え続けた身からすれば、渡りに船、願ったり叶ったりの話なのだ。
今夜、想いを遂げる。それしかない。
どうやって令ちゃんに伝えようか、どうやって行動に移そうか、そればかりをずっと考えてきたのだ。これがチャンスでなければいったい何なのか。
令ちゃんは拒まない。多分。
最初は自信があったけれども、考えれば考えるほど自信は失われていく。もし、令ちゃんに拒まれたら……
もしそんなことになったら、明日からもう令の顔をまともに見ることもできない。それ以前に、令の部屋から逃げ出してしまうかも知れない。
とにかく、これに関しては誰にも助けは借りられないのだ。知り合いの中に経験者はいない。少なくとも祐巳さんは違う。
志摩子さんと乃梨子ちゃんは、二人の親密な間柄を見ているともしかすると……と思わないでもないけれど、まさか確認するわけにもいかない。お泊まりをしたという話は聞かないし、まさか二人に直接「したの?」と聞けるわけもない。
だから不安は残っているけれど、令ちゃんを好きな気持ちはハッキリとしているから。だから、多分、大丈夫。
この決意は、本物だから。
ご飯を食べてから家に行くと、令が待っていた。
一緒にお風呂に入る。
そういえば、こうやって一緒に入るのはずいぶんと久しぶりのような気がする。
「もう、痕もずいぶん薄くなったね」
由乃は、胸元の手術跡に指を置いた。
「うん、このまま見えなくなるんだよね」
「本当に、もううっすらとしか……」
令の指が伸びる。由乃は、自分の指に重なる指をふと掴んでみる。
「触ってみる?」
答を聞かずに由乃は、令の指をうっすらと残る筋にあててみた。
腫れ物にでも触れたように慌てて指を引っ込める令に、由乃はケラケラと笑ってしまう。
「令ちゃん、純情だー」
「由乃、それは意地悪だよ」
「令ちゃんなら、別にいいんだけどなぁ」
「由乃ったら!」
真っ赤になりつつ、ザブン、と湯船に沈んでいく従姉の姿が面白くて、由乃はいつまでもケラケラと笑い続けていた。
なんだろう? と令はやや不安な気持ちで枕を二つ並べていた。
由乃がなんだかハイだ。何か、緊張を必死で押し隠しているように見える。
だけど、一体何を緊張しているのだろう。
勝手しったる従姉の家で、しかも一緒にいるのは自分で。由乃に緊張する理由など何もないと言うのに。
だけど、はしゃいでいる姿がなんだかとても可愛らしいのも事実なのだけれど。
考えてみれば、お風呂に一緒に入るのが当たり前だった頃は、お風呂場で由乃に何かあったら困るから令がついていたという状態だったのだ。はしゃいだりするのは論外で、できるなら心臓に負担のかかる熱いお湯や冷たい水は避けたいという状況だった。
だとしたら、ああやって由乃がはしゃぐのも喜ばしいことだ。と令は心から思う。だから、それにつきあうのも悪いことではない。
それにお風呂で由乃につきあうのは、正直に言うと楽しい。
ふと、令は自分の指を見た。
由乃の肌に触れた感触を思い出して、頬が熱くなる。
試合前に雑念を振り払うように、首を振って我を取り戻す。
そうしていると、トイレに行っていた由乃が部屋に入ってきた。
「おまたせ、令ちゃん」
ベッドに並んで腰掛けると、由乃がちょこんともたれかかる。
「あのね、令ちゃん」
由乃はお下げを解きながら、甘えるように話しかけてくる。
「お願いが、あるの……」
ふわっとした髪の毛が令の膝の上に投げ出され、くすぐるように流れていた。
そのまま、由乃は令を見上げる。
「ずっとね、考えていたんだよ。私、令ちゃんにして欲しいことがあるの」
「え? よ、由乃?」
由乃の潤んだ瞳に、令は視線を外せない自分に気付いていた。
言葉が無くても瞳でわかる。由乃が今、何かを求めていること。
逆上したような、それでいてひどく冷静な感覚が自分の中に渦巻いている。熱くて、だけどどこか冷たい危うげな感情が由乃の瞳を覗き込む自分の中に産まれている。
「由乃……」
「お願い、令ちゃん」
「うん」
答える。いや、応えなければならない。と令は感じていた。
由乃の要求に応えるべきなのだと。
それが、たとえ道を外れていたとしても。いや、外れてなどいない。それが、自分と由乃の道なのだ。
「……して」
「う……ん?」
何か、予想外の言葉を聞いたような気がした。
「おやすみのチュー、して?」
おやすみのチュー。
そう、おやすみの……
チュー!?
「んー」
由乃が、可愛く唸りながら頬を近づけてくる。
「令ちゃん?」
「おやすみの……チュー」
「うん?」
「……そ、そうだね」
「令ちゃん?」
なんでもない、と素早く呟いて、令は由乃の頬に口づける。
「うんっ」
嬉しそうに、くすぐったそうに由乃は息を吐くと、令の頬に素早く口づける。
「お返しよっ」
その夜、健やかな寝息を立てる由乃の横で、令が自己嫌悪に苛まれていたとかいないとか……