疼痛
講義が終わって、スーパーに立ち寄る。
今日は佐藤さんは来ないと言っていた。確か、水野さんに会いに行くと言っていたはず。だとすると、ひょっこり夜にやってくるということもない。
夕食の材料はどっちにしても一人分。問題はその後のこと。もし佐藤さんが来るならば、軽いもの、おつまみ程度のものはいるだろう。
だけど、今夜は来ない。そうすると、買い物もあまりない。買い置きが切れているものをいくつか買えばおしまい。荷物も極端に軽い。
缶ビールや缶チューハイ。酒類は少し買うだけで荷物が重くなる。食べ物と違って、飲み物は重いのだ。
下宿について、木戸を開こうとして思い出す。
弓子さんはこの数日出かけている。今はここには景一人しかいないのだ。
ポケットを探って鍵を取り出す。
普段は弓子さんが居るのが当たり前なので、鍵を開けて入るのはなかなか新鮮だ。鍵も結構古くなっていて、鍵穴に差し込んでから回すのにはちょっとしたコツがいる。
木戸を開けて、中へ。そして自分の家へ。
家に入り、靴を脱ぐ。
買い物の袋から中身を出して、冷蔵庫、棚の中、テーブルの上、台所、それぞれをそれぞれの場所に片づけていく。
それが終わるとちゃぶ台の前に座って、見る気もないのにテレビをつけてみる。
チャンネルを回してみても、面白そうな番組はやってない。
何か読む本でもなかったかな?
テレビを消そうとするけれど、うまくいかない。
リモコンの角度を変えても同じ。
電池がないのか。
棚を調べてみると、買い置きの電池はなかった。
どうせ、やるべきことなど今夜は何もない。景は電池を買いに行くことにした。
コンビニへ向かう道途中は、それなりに騒がしい。けれどねその騒がしさは景とはまったく関係のない騒がしさだ。
――久しぶりね。
景は妙に懐かしい思いに包まれていた。
自分とは関係のない騒がしさ。
子供の時からずっと、こんな騒がしさの中にいたような気がする。
「加東さんはお母さんが居ないから」
「加東さんはお父さんしか居ないから」
「片親だから」
「父一人娘一人だから」
五月蠅い。煩わしい。うざい。
そう言ってしまえば楽だったのかも知れない。けれども幸か不幸か、景はそれらの言葉が無神経ではあっても悪意ではないと理解できる聡明さを持っていた。
悪意によって放たれた言葉なら、別の語彙で塗りつぶしてしまえばいい。だけど放った本人が悪意と信じていない言葉を塗りつぶせば、自分が悪人になってしまう。
無神経に対抗できるのは唯一、無関心だった。
雑音の中でも孤高を保つこと。
気がついたときは、景はその技術に長けていた。そしてそれは、良い面と悪い面をもたらせた。
良い面は、周囲に流されない自我をしっかりと持つことが出来るようになったこと。それも早い内に。だから景は、自分の道を自分で決めることが出来たし、新しい母の存在もしっかりと受け止めることが出来た。
悪い面は、周囲からは一歩引いているように見られていたこと。孤高を保つということは、ある程度の距離を周囲から取っているということに過ぎない。
しかし、だからといって、景が孤立したということではない。
拒絶された孤立と、自ら選んだ孤高は違う。
景は、一人には慣れている。
つもりだった。
コンビニからの帰り道。
何故かささくれた気分。つい、遠回り。
小さな電池をポケットに入れて、別のコンビニを回ってみる。
欲しくもないのにアイスクリーム。
雑誌の立ち読み。読んだこともない雑誌。
何をしているのかな、と自問してみる。
――だって、家に帰ってどうするの?
――寝れば?
どこかが白けた声で返事する。
――やることもないんだし、寝れば?
――白けた呼びかけに返事はない。
――帰っても別に何もないのよ。
――いつものことじゃない。
――いつだって、何もないのよ?
――何か特別なものなんて、部屋には何もないのよ?
――夕食があるわよ。
――独りで?
その問いかけに、景は思わず笑いかけた。
いつも一人だったのに。
働いている父。一人で家にいる自分。
父と一緒に食事をするのは週に二度か三度だけ。一人で食べるのが当たり前。
――何を今さら
夕食を一人で摂ることが今さら何が辛いというのか、寂しいというのか。
――じゃあ、とっとと帰ってご飯を食べなさい。
――たった一人で
――ああ、そうか。
景は呟いた。
――こんなに一人って寂しいものだったっけ?
ずいぶん長い間忘れていたような気がする。一人がこんなに寂しいなんて。
景は、下宿への道を確かめると、幾分強めの足取りで歩き始める。
「貴方のせいよ、佐藤さん」
一緒にいる人が出来ると、寂しさを思い出してしまう。一人が、当たり前ではなくなってしまうから。
「貴方がつきまとってくれるからよ」
呟きは小さく、それでも力強く。
「責任はとってもらうから」
景は携帯を取りだした。
水野さんと一緒?
知った事じゃない。私を寂しがらせている責任、取ってよね。
「いいね。たまには三人も」
あっさりとした答えに、景は拍子抜けする。
うん。考えてみれば、こんなものだ。
わかっているのかいないのか、佐藤さんはこういうことをすかすのが天才的に上手い。天性のものなのか、それとも身につけたものなのか。どちらにしろ、景の尖っていた気持ちは一気に消されてしまう。
「ほんっとに……腹が立つ人」
家に戻るか戻らないかのうちに連絡があった。
二人はすぐ近くにいるという。
景は一瞬考えてから、二人を家に招いた。あの二人なら、弓子さんが居たとしても快く上げてくれるだろう。
三人も、悪くない。
一人よりはかなりマシだろう。
二人きりには劣るけれど。