三つの想い
暑い街路。冷房が効きすぎて少し肌寒いくらいの店内。乃梨子の隣には温かい肌。傍にいるだけで、志摩子さんの体温を感じるだけで、物理的なそれとは違う暖かさを感じることが出来る。
テーブルの上のアイスティを温くなっていくに任せ、乃梨子は窓の外に目をやった。
事ここに及んで、一体何を言えばいいというのか。
自分たちが今日ここで何を言われるかは、だいたい予想がついている。言われることへの覚悟もできているつもりだ。
窓の外には、夏のさなかに街を行く人たちの姿がまばらに見える。そういえばこの数日が連続して真夏日になりそうだと、朝のテレビで言っていたことを乃梨子は思いだしていた。
二人を呼び出した男は、目の前に置かれているパフェを一口食べると言う。
「こんな暑い日には、できれば言い争いはしたくない。こう見えても汗っかきなんだ」
だったら、呼ばなければいい。二人が無視出来ない相手に呼ばれれば、やってくるしかない。やってくれば、自分たちの主張を開陳するしかない。乃梨子はそう言いたいのを堪え、代わりにこう言った。
「私なら構いません。私は最近、皆さんに冷や汗をかかせることが得意になったようですから」
それは由乃さまの台詞だった。
「乃梨子ちゃんたちを見ていると、冷や汗ものだわ」
卒業しているとはいえ、あの伝説の黄薔薇さまにそこまで言わせたのだから自分もたいしたものだ。
「だけど、応援はするよ」
「勿論。他ならぬ乃梨子ちゃんと志摩子さんだもの」
由乃さまと祐巳さまはそう言っていた。それはそうだろう、と乃梨子は頭の半分、冷めた部分で考えていた。
由乃さまと祐巳さまにとって、今の自分たちは露払いになる。乃梨子が志摩子さんと頑張れば頑張るほど、先輩二人にとって事は有利に運ぶのだから。乃梨子と志摩子さんの次は、自分たちなのだ。
だからこそ、瞳子は駆けつけてこない。一連の出来事を綺麗に無視している。勿論、可南子も同じ。乃梨子たちが前例を作ることを、この二人は歓迎していない。祐巳さまの相手は、二人のどちらでもないのだから。
二人はあれやこれやと理由を付けて乃梨子たちには近づかないけれど、本当の理由はわかっている。そして乃梨子はそんな同級生二人を責める気にはとてもなれない。同じ立場なら同じように悩んでいるだろうと、容易く理解できるから。
もし志摩子さんが回りの反対を押し切って聖さまと事実婚の生活を選んでいたら、それを応援できていたという自信はない。
乃梨子がそう考えているうちに、男はようやくサングラスを外した。
「冷や汗なら冗談で済むが、うちの親父は間違いなく脂汗だろうな」
考えてみれば、サングラスを外した状態は初めて見るような気がする。乃梨子はつい、隣に志摩子さんがいるのも忘れてまじまじと賢文の顔を見てしまった。
藤堂賢文。志摩子さんの兄。
乃梨子の同棲相手の兄。
「同性結婚は、日本の法律では認められていない」
「それは知っています」と乃梨子。
「君たちがやっているのは、ただの同棲だ」
「それもわかっています」と志摩子さん。
「アブノーマルだ」
乃梨子が何か言いかけたのを、志摩子さんが止める。
「その言葉の選択には異議がありますが、仰りたいことはわかります。そのうえで、その通りだと認めます」
「端的に言う」
乃梨子はホッとした。この調子で問答を続けられては堪らない。
ところが、賢文はそこに予想外の言葉を繋いだ。
「二条さん。志摩子をどうするつもりだ」
「お兄さま?」
「悪いが志摩子は黙っていてくれ。これは二条さんへの質問だ」
乃梨子は賢文をもう一度、まじまじと見つめていた。
答えられない質問ではない。答は条件反射といってもいいタイミングで出すことができる。けれど、その答が望まれている答かどうかはわからない。ひょっとすると、筋違いの答かも知れない。
それでも、こう問われれば今の乃梨子にはただ一つしか答がない。
「一生、添い遂げます」
賢文の言葉はない。乃梨子は言葉を重ねた。
「一生、愛します」
乃梨子はさらに言葉を重ねる。
「幸せにして見せます」
「無理だ」
絞り出すような声が返ってきた。
「無理に決まっているだろう」
どうして、この人はこんな声を出すんだろう。乃梨子はテーブルを掴むようにして身を乗り出す賢文を不思議そうに見つめていた。
「少なくとも、この国、この社会、この時代では君たちは異端だ」
「知っています」
「だったら!」
ミシリ、と賢文の掴んだテーブルの端が軋んだような気がした。
「私たちはそれを望んでいるから」
乃梨子は我ながら冷静だと思っていた。目の前にいるのが、最愛の人の血族だと知っているからだろうか?
否。
だからこそ、恐ろしい。最愛の家族を守るために何をする気か。
自分と引き離すことが、最愛の家族を守ることだと信じている相手ならば。
もしそれが志摩子さんのためだと思えば、この人はどんなことでもするだろう。自分の手を汚すことを厭わないだろう。
そして、理解した。
間違っていないから。乃梨子の言うことは一編一句たりとも間違っていないから。だから、恐くない。何を前にしても、恐くない。
だから、伝わるはず。志摩子さんのために一番必要なことは何か。
「二条乃梨子と藤堂志摩子が、二人で居続けることを望んでいるから。だからそれが傍目にどう見えようとも、私たちにはそれが、それこそが……いえ、それだけが幸福だから」
「幸福? それが幸福なのか。妹に、異端として後ろ指をさされかねない生活を選ばせることを、みすみす見過ごすような兄がいると思うか?」
それが間違っていると指摘するのは、志摩子には容易いことだった。
お兄さまは間違っています。乃梨子と添い遂げることは、私の望みであり幸せです。
そう答えてしまえば、この問答はすぐに終わる。
けれど、それは目的ではないのだ。さっさと問答を終わらせることが目的なら、そもそもこの場所に来る必要はなかった。乃梨子と二人、父や兄の知らないところへ行ってしまえばいいのだ。幸い、乃梨子の側の家族は菫子さんの尽力もあって大きく反対はしていない。
今ここで本当にやるべき事、志摩子が望んでいるのは、兄を説得することなのだ。
「お兄さま……」
と語りかけようとして志摩子はためらった。
何か違和感がある。
自分でも乃梨子でもない。この違和感は兄のものだ。
なぜだろう。ちょっとした変化をささいな違和感として感じられるほど、生活を共にしているわけではないのに。
志摩子は兄の顔を見た。
兄は何かにいらついている。この表情には見覚えがある。たまに何かの用事で帰ってきたときに、決まって父と言い争っているときの顔だ。
相手に自分の想いが伝わらないときの顔。自分の本当に言いたいことをうまく相手に伝えることが出来ないときの顔。
兄の想いは自分には伝わっていないのだろうか。
兄の言いたいことはわかる。その危惧するところも充分にわかっているつもりだ。けれどそれを乗り越えて自分たちは愛し合っている。
逆に、自分たちの想いこそ、兄に伝わってはいない。
――本当に?
志摩子は、誰かにそう言われたような気がした。
――伝わってるよ、志摩子のお兄さんなんだから。
懐かしい誰かに言われたような気がして、志摩子はもう一度兄を見つめ直す。
ああ、そうだったのか。
志摩子は、兄の顔をもう一度よく見た。
違う。兄は思いを志摩子たちに伝えられないことにいらだっているわけじゃなかった。
兄が想いを伝えられない相手は志摩子ではない。ましてや乃梨子でもない。
兄が想いを伝えられない相手はただ一人だった。
賢文は、自分の言葉が白々しく聞こえていることに気付いていた。
「幸福? それが幸福なのか。妹に、異端として後ろ指をさされかねない生活を選ばせることを、みすみす見過ごすような兄がいると思うか?」
本当にそうなのだろうか。
妹を不幸にしたくない。それは間違いない。なのに、なぜ、自分の言葉は自分にこれほど虚しく響くのか。
なぜ、この想いを二人はわかってくれないのか。自分はただ、兄として妹を心配しているだけなのに。
本当に?
二人が店に入ってきたとき、賢文は思い出していた。まだ志摩子がリリアンにいた頃、乃梨子と二人で校門から出てきたところで志摩子を連れ出したことを。
その時自分は感じていたはず。志摩子の変化を。そしてその変化は好ましいものと感じていたはず。
賢文は理解した。いや、理解していたのだ。既に理解していたのだ。ただ、理解していることを自分は認めなかっただけ。
間違っていたのは別の部分だと。
妹の不幸を見逃したくないと言うのなら、答は一つだった。それを認めてしまえば、後は簡単なことだ。
ここに二人を呼び出したのは結婚を諦めさせるため。是非を言い聞かせるため。そのはずだった。そしてそれが自分をも誤魔化していた。
二人を呼び出した理由はきちんと別にある。実は、自分はそのために二人を呼び出したのではないだろうか。賢文はそんな気がし始めていた。
想いが届いていなかった相手は、志摩子や乃梨子相手ではない。それは、頑固な自分自身だったのだ。
「お兄さまも、お父さまに似て頑固だから」
志摩子が苦笑気味に微笑んでいた。
参った。志摩子はもう、こちらの心に気付いている。賢文は心の中で両手を上げて降参していた。
そして、賢文は伝票を手に取る。
「二条さん。志摩子を頼む」
軽く頭を下げると、乃梨子は驚いたように賢文を見ていた。
「うちの親父の説得はまだだろう?」
「は、はい」
「よし、一緒に行こう」
「え?」
「ああ、それから二条さん」
ニヤリ、と笑って賢文はサングラスをかけ直した。
「俺のことはこれから、お義兄さま、と呼ぶように」
あら、と志摩子は首を傾げる。
「では、お兄さまはこれから乃梨子と呼ばなければいけませんわ」
「ええっ?」
「義理とはいえ、妹を名字で呼ぶ人がいます?」
乃梨子が頷いている。
「そうですね、お義兄さま」
笑い出す二人。
こりゃあ、別の意味で前途多難だな。賢文はそう思いながら、妹と義妹につられて笑いはじめていた。