椿組三人娘
体育の時間にバレーボールをやると聞いたとき、嫌な予感はしていた。
「バレー部員はみんな審判に回るから、不公平にはならないわ」
それはわかった。確かにその通りだと思う。
「私はバレーボールの経験はないから」
それも間違いない。運動経験があると言うだけでではバレーが上手いとは限らない。
だけど、物事には例外というものがある。
「これは反則だと思うのですけれど」
瞳子の呟きに、乃梨子は頷いた。
「私もそう思う」
二人の目の前に広がるのは、「あくまでこれは体育の授業の一環であって、バレーを本気で鍛えるわけではないから」という理由でかなり低く張られたネット。
確かに、あまり高くするとアタックもブロックも出来なくなって、単なるお昼休みの車座バレーと変わらなくなってしまう。それは例えリリアンといえども体育の先生には不本意なのだろう。その気持ちはよくわかる。敷居を低くしてでもスポーツの楽しさというものを味合わせたいと思っているのだろう。その心遣いは素直に嬉しい。
それに、どうせやるからにはある程度きちんとしたものをやってみたいのが人情だ。
だから、先生の気持ちはよくわかる。
わかるのだけど、物事には例外というものがある。
今、二人の前にはその例外が立ちはだかっていた。
「何をブツブツ言っているんですか?」
例外は二人に向かって厳しく言う。
「まだ試合は終わっていませんよ」
「わかっていますわ!」
瞳子が語気荒く言った。
「今は作戦タイムですの!」
「ふーん。いいわ、せいぜい相談して下さい」
瞳子はギロリ、と可南子を睨むと再び乃梨子に向き直った。同じチームのクラスメートも集まっている。
「悔しいッ! なんとか可南子さんを出し抜く方法を考えませんと!」
体育の時間の始まる前、くじ引きでチームを決めたのはいいけれど、乃梨子と瞳子が同じチーム。そして可南子は別のチーム。
いや、それ自体は別に構わない。くじ引きなのだから誰がどのチームに入るかは本当に運任せだ。
問題は、可南子の存在。
可南子が手を伸ばすと、軽々ネットを越えてしまうのだ。
ブロックの上を軽く越えてくる。
そのうえ、こちらのアタックは易々と止められてしまう。
いくら思い切り打ったとしても、向こうはバスケット経験者。ボールの衝撃には慣れている。却って、慣れないアタックを連発した乃梨子が、軽く痛めたらしく手首をしきりに捻っている。
「瞳子、そこまで必死にならなくてもいいんじゃないかな?」
手首をさすりながら、乃梨子は言った。
「考えてみたらさ、可南子の背が高いのは、今に始まった事じゃないんだし。今さら仕方ないよ」
「乃梨子さんは悔しくないんですか?」
「悔しくない訳じゃないけれど、瞳子ほどは悔しくない」
「次期白薔薇さまともあろう御方が、あんなどこの馬の骨ともわからない相手に負けるなんて!」
「いや、知ってる相手だから。クラスメートだから。あと、次期白薔薇さまはこの際関係ないから」
「いいえっ!」
どこから出したのか、瞳子はハンカチをキーッと噛みしめている。
「このままでは、次代の山百合会の盤石の支配体制にヒビが入りかねませんわっ! リリアンの明日のために、一般生徒をよりよく導く明日の山百合会のために、乃梨子さんはここで負けてはいけませんの!」
「どこの独裁生徒会よ、それは」
「善人による独裁ならば平和の統治ですわ! 古来、悪しき心を持つ者による独裁が多く見受けられたためにマイナスのイメージがついただけですわ。本来の高潔なる独裁というのは……」
乃梨子は聞き流すことにした。そうすると、しばらく話し続けたあげく、チームメイト達の万雷の拍手に包まれて瞳子の演説は終わった。
「とにかく、可南子さんに負けるわけにはいきませんのっ!」
「気持ちはわかった。だけど実際問題どうするつもり? 背の高さは覆せないわよ?」
「高さで勝負します」
はあ? と乃梨子は呆れる。
「だから、背の高さは覆せないって」
「高さというのが背の高さだけを表すとは限りませんわ?」
瞳子のほくそ笑みに、乃梨子は今すぐ倒れて保健室に運ばれてしまった方がいいような気がしてきた。だけど、そんな見え見えのことをすれば後が恐い。
「ジャンプ力? だとしたら、相手はバスケット部よ? 演劇部が勝てると思う?」
ふと、乃梨子は気付いた。
ああ、なるほど。確かにそれを使えば可南子に勝てるかも知れない。瞳子にしかできない裏技だ。
「わかったわ、瞳子。そのバネでびよよんって飛ぶのね」
「ええ、この頭のバネを、こういうふうにたわめてその力でびよよんって……違いますわっ!! 飛びませんから! バネじゃありませんからっ!」
瞳子のノリツッコミに、珍しい物を見たという目でチームメイト達ががおおっとざわめく。
「確かに、直接戦っては勝ち目はないと思いますわ」
乃梨子は首を傾げた。瞳子の言うことはもっともだと乃梨子も思う。直接やり合ってはあの高さの前になすすべもないのはわかっている。だからといって直接戦わないとはどういう事なのか。バレーという枠の中で、可南子の裏を掻くような事が出来るとは思えない。
「ですから、ここで時間差攻撃です」
「時間差って、瞳子、それはかなりの高等テクニックだよ? バレー部でもない私たちが付け焼き刃で出来るようなもんじゃないって」
「いい考えがあります。要は、可南子さんのタイミングをずらせばいいのですわ」
「どうやって?」
「幸い、先ほどからの可南子さんを見ていると、背の高さというアドバンテージにうつつを抜かして、アタックは真っ直ぐ馬鹿正直に打ってくるだけです。そこに付け目がありますわ」
「だから、具体的にどうするのよ」
「それはですね」
瞳子の説明に、乃梨子は頭を抱えた。
うまくいくわけがない。いや、瞳子の説明だけ聞くとうまくいくような気がする。それは、作戦の内容と言うよりも瞳子の口調の為せる技だった。
ところが、いつの間にか乃梨子以外の全員がその気になっている。
「さすが瞳子さん、いい考えだわ」
「是非それでいきましょう。乃梨子さん、お願いしますね」
「え、ちょっ、ちょっと!」
瞳子の作戦の最大補助者と勝手に決めつけられた乃梨子は、周りから期待されていた。
「がんばって、乃梨子さん。いいえ、次期白薔薇さま」
それ関係ない、と言いたいけれど、クラスメート達の目の中には確かにある種の期待感と輝きがあった。どこかで見たことがあると思ったら、他の一年生達が薔薇さまや乃梨子以外のつぼみを見るときの眼差しだ。
リリアン生徒は、山百合会に常に過剰なまでの期待をしてしまう。それが乃梨子が入学してきてから今までの間に観察してきて導き出した結論の一つだった。
しかし、さらなる問題が一つ。乃梨子の見る限り聞く限り、山百合会というのは常にその期待に応えてきた存在だったのだ。
だから、次代の山百合会も同じようなものだと思われる。いや、未だ薔薇さまではないつぼみやその妹までもが特別な存在だと思われているのだ。
「では、行きますわよ」
瞳子が乃梨子に頷いた。準備は出来た、と言う合図だ。
仕方がない。乃梨子は覚悟を決めた。失敗したらその時はその時。とりあえず、瞳子の言うとおりに動いてみる。
あとは運任せ、というか瞳子任せ。
「わかったわ」
乃梨子はセッターの位置につく。乃梨子の背後、ネットの向こうでは可南子のプレッシャー。
「何をする気かは存じませんけれど、そちらのポイントはゼロのままで、試合終了させてもらいます」
「瞳子が本気になってるわよ?」
「では、私も本気で打たせてもらいますね」
「え?」
可南子チームのサーブ。瞳子がボールを上げた。そしてそのまま乃梨子に向かって走り出す。
別の一人が高くトス。高すぎてアタックが出来ない。可南子もボールを見上げる。
「今ですわ!」
乃梨子が両手を組み合わせてしっかりと踏ん張ったところへ、瞳子が足をかける。
「乃梨子さん!」
乃梨子が思いきり瞳子を持ち上げるように飛ばした。
ボールめがけて飛ぶ瞳子。
可南子よりも高い位置でボールを捉えれば、背の高さだけに頼ったブロックは関係ない。
何度も使える手ではないけれど、とりあえず一矢報いることさえ出来れば満足。
「考えましたね!」
宙に舞う瞳子を見上げる可南子。
「いいです。瞳子さんのスパイク、正面から受けて見せますわ!」
可南子は身構えた。
瞳子が腕を上げる。
ぶつかり合う二人の視線。
「可南子さん! お覚悟!」
「来なさい! 瞳子さん!」
激しくぶつかり合い、絡み合った二人の視線はそのままに。
「あ」
瞳子はそのまま可南子の頭上に落下した。
「……そうよね、前方に走り込んだ勢いを殺さずに飛べば、真上に飛べるわけはないのよね。どう考えてもネットを越える勢いになるわよね」
数分後、乃梨子は保健室で一人呟いていた。
ベッドには、可南子と瞳子が横になっている。二人とも、自分たちのやったことを思い出してよほど恥ずかしいらしく、無言のままだ。
やがて廊下から聞こえてくる慌ただしい足音に、乃梨子は立ち上がった。
「私は教室に戻るから、お大事にね」
「乃梨子さん?」×2
「足音、聞こえないの?」
そう言って乃梨子は保健室を出、息せき切って駆けつけた二年生に、
「そんなに慌てなくても、二人ともたいした怪我はしていませんよ、祐巳さま」
と微笑むのだった。