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梅雨のまにまに
 
 
「あ、雨」
 玄関のドアを開いて外を見て、江利子は呟いた。
「朝から、曇っていましたからね」
「傘を持ってきてないんです」
「玄関にある傘は、どれでも好きなのを使ってください」
 山辺さんの優しい声に、江利子は苦笑する。
「借りた傘を、また返しに来るのが億劫だと思いません?」
「それなら、その一番隅にあるビニールの傘を。コンビニで買ったものだから、差し上げますよ」
「もらうというわけにはいきませんから」
「それじゃあ、どうすればいいんですか?」
 江利子は振り向かない。
「駅まで送っていくとか、そういうことは言ってくれないんですか?」
「江利子さんは、送って欲しいんですか?」
 意地悪な人だ。と江利子は思った。
 最近少しずつ、この人の意地悪なところが見えてきたような気がする。
 そして意地悪を言われるたびに、そんな軽口を叩いてもらえるようになった自分の立場を思って、少し嬉しくなる。
 ――重症ね。
 自分はとっても飽きっぽい性格だったはずなのに。未だに山辺さんに飽きる気配、きっかけすらない。
「送って欲しいです」
 思い切ってそう答えていた。断られるなら、それでいい。それだけのこと。別に、断られたからといって二人の関係に変化はない。
 ただちょっと、寂しいだけのこと。ああ、それは重要かも。
「奇遇ですね」
 江利子は声が近づくのに気付いて、思わず振り向いた。
「僕も、江利子さんを駅まで送りたくなってきたところです」
 振り向こうとして、江利子は再び外を見る。
 ――なんて、意地悪。
 真っ赤になった顔を見られないように、江利子は玄関を先に出た。
「待ってください」
 傘を二本持った山辺さんが追いかけてくるのを待ちながら、江利子は雨に向かって顔を晒していた。
 火照った頬を冷ますように。
 
 
「あ、雨」
 窓の外を見て、聖は言った。
「天気予報、当たったみたいね」
 軽く伸びをしながら景が応える。
「休講でラッキーだわ。雨の日は大学がいくら近くてもやっぱり億劫だもの」
「あー。傘持ってないや」
 全然残念そうに聞こえない聖の言葉に
「呆れた。佐藤さん、天気予報見ないの?」
「滅多に見ない」
「外出する前くらいは見なさいよ」
「面倒くさくて」
「あのね、こうやって雨に降られることもあるわけでしょう?」
「親切な加東さんが傘を貸してくれるから。私は持たなくてもいいの」
「人を頼りにしない」
「困ったときは助けあわないと」
「そういうのを自業自得って言うの」
「そこをなんとか」
「折りたたみ傘の一つでも、鞄の中に入れてないの?」
「そんな準備万端な人に見える? この私が」
「あー、聞いてゴメン」
「わかればよろしい」
 言いながら、聖はふと蓉子のことを思い出していた。
 聖の周りにいて用意周到な人間といえば、いの一番に思い出されるのが蓉子なのだから。
 高等部にいた頃は、雨が降ると誰彼構わず傘の中に入れてもらっていた。
 そして最終的には、それを見かねた蓉子の傘に入れてもらっていたのだ。
「次はもう入れてあげないから、自分で傘を持ってくるのよ」
「へいへい」
 そう言っては自分の傘を持ってこない聖を、それでも蓉子は傘に入れ続けた。
 そしてそれを見るたびに、祥子が怒っていたものだった。
「聖さまは、ご自分の傘を準備なさるべきですわっ!」
 ある日気がつくと、蓉子の代わりに志摩子の傘の下にいる自分に気付いた。
 そして蓉子は一人で傘の中。祥子は雨の日に傘を忘れたりはしない子だった。もし本人が忘れていたとしても、天気予報を調べた屋敷の者がそれとなく折りたたみ傘を持たせているようだった。
「景さんが駄目なら、久しぶりに蓉子の傘に入りたいかな」
「いいわよ、傘くらい貸してあげるから」
 間髪入れずに手のひらを返した景の言葉に、聖は思わず笑ってしまう。
「なに笑ってるのよ。人がせっかく可哀想に思ってあげたのに」
 景は、微かに頬を染めて怒り始める。
 
 
「あ、雨」
 窓の外を見て、由乃は呟く。
「本当だ。洗濯物、大丈夫かな」
「お母さんに言わなきゃ」
 それぞれの母親に伝えて、ついでに洗濯物の取り込みを手伝うと、二人はお駄賃としてせしめたオヤツと一緒に部屋に戻る。
「よく降るね」
「梅雨だもの」
「ねえ、令ちゃん」
「なに?」
「私、傘を買い換えようと思うの」
「うん?」
「一緒に買いに行かない?」
「うん、いいよ。いつがいいかな」
「今から」
「今から?」
「どうせ暇なんでしょう?」
「それはそうだけど」
「それじゃあ善は急げ、行きましょう?」
「う、うん」
 由乃に引きずられるようにしながら令は返事する。
「由乃、そんなに急がなくても傘は逃げないの」
「雨が止んだらせっかくのペア傘が意味ないじゃない」
「ペア傘?」
「せっかく一緒に買いに行くんだから、令ちゃんとペアの傘にするの」
「待ってよ、由乃」
 雨の中、出て行く二人。由乃を追いかける令の頬は微かに赤かった。
 
 
「……雨?」
 乃梨子は読んでいた本から顔を上げて外を見る。
「本当だ、雨だね」
 最初は遠慮がちに、そして次第に激しくなる雨音。
「激しくなりそうね」
「あれ? もしかして志摩子さん、傘がないの?」
「そうね、困ったわ。折りたたみ傘を持ってきたつもりだったのだけど、勘違いだったみたいね」
 と言いながら、志摩子は小さな三段折りたたみ傘を、乃梨子には見えない鞄の奥へ押し込む。
「そうなの? あ、だったらウチの……」
 乃梨子は言いかけて口を閉じた。
 少し記憶を探る。
 ――傘は全部奥の方にあるから、簡単には見えない。
「そういえば、傘が一本しかないの。一本は菫子さんが持ったまま旅行中だし」
「それじゃあ、借りていくわけにも行かないわね」
「あの、志摩子さん?」
「なあに? 乃梨子」
「雨がひどすぎるから……」
「そうね。これでは帰るに帰れないわ」
「泊まっていかない?」
「いいのかしら? 乃梨子がいいのなら、喜んで」
「本当? 勿論、大歓迎だよ」
 じゃあ早速夕食の買い出しに行かなきゃ、そう言って、乃梨子は傘を一本だけ取り出す。
「一本しかないから……」
「ええ、相合い傘でお買い物ね」
 乃梨子は、真っ赤になって頷いた。
 
 
「外はひどい雨だよ」
「雨が降っているんですか?」
「ああ、昼から降り始めて、どんどん激しくなっている。知らなかったのかい?」
「私は今日は、ずっと部屋にいましたから」
「そう。それじゃあ知らないのも無理はないか」
「ええ。きちんと、優お兄さまに命じられた宿題をやっていましたから」
「うん。わかってるよ。瞳子はいい生徒だからね」
 柏木は、座っている瞳子の後ろに回ると、机の上に問題集を広げる。
「それじゃあ、まずは前回のおさらいからだな」
 以前たまたま、瞳子が宿題に悩んでいたところを柏木が解説したことがある。それ以来、こうやってちょくちょく柏木は瞳子の勉強を見ている。
「うん。基本的なやり方は全て正解だ。間違えた部分は計算ミスだね。ケアレスミスだけど、避けられる不注意は避けるべきだ」
「よくわかりますのね」
「何が?」
「答を見ただけで、どうして計算ミスだと言うことまでわかるのですか?」
「数学はそういうものだから。答を見れば、出鱈目なものか、計算間違いをしたものか、だいたいはわかるよ。たとえば簡単な例だと、『大小二つのサイコロを投げたとき〜』で始まる確率の問題の答は、必ず分母が36の約数になる」
「それは何となくわかりますわ」
「うん。そんな感じだよ」
「優お兄さま? お聞きしたいことが」
「質問はいつでも受け付けるよ」
「この勉強とは直接関係がないのですけれど」
「いいとも。瞳子の質問ならいつでも大歓迎だからね」
「祥子お姉さまは当たり前ですけれど成績優秀ですわ。私も、祥子お姉さまくらいの成績が取れるでしょうか?」
「さあ。僕はさっちゃんの勉強は見たことがないから」
「え? そうなのですか?」
「ああ、さっちゃんは基本的に独学だ。というより、学校の授業時間内で教えられたことを完全に消化してしまうタイプだね。時間の無駄がないから、余分な時間に勉強をし直すこともない」
「それでは、お兄さまがお教えになったわけではないのですね?」
「ああ、僕が勉強を教えているのは、瞳子だけだよ」
「あら、それでは光栄に思わなければ」
「光栄に思ってくれるのなら、僕もやり甲斐がある」
 身を乗り出しながら、柏木は瞳子の肩越しに問題集に手を伸ばした。
 突然柏木の顔が近づいて、瞳子は思わず固まってしまう。
「どうかした? 瞳子」
「な、なんでもありません」
 赤く染まった頬を隠すように、瞳子はプイッと余所を向く。
 
 
「ごめんね」
「謝らないでください。祐巳さまが悪い訳じゃありませんから」
 可南子は、祐巳さまの傘を差しながら歩いていた。
 その横には祐巳さま。
 二人は相合い傘で歩いているのだ。
 買い物先で雨宿りをしていると、
「可南子ちゃん?」
 知った声に目をやると、そこには祐巳さまが。
 傘に入るように言われたけれど、祐巳さまの差す傘の下に可南子が入るのはちょっと難しい。だから、可南子が傘を持った。
 可南子は、雨に感謝していた。
「近くだから、家まで来ない? そうしたら、傘を一本貸してあげるよ?」
 可南子は家までの時間を確認してから、その提案に頷いた。
 そして今、可南子は祐巳さまの家に向かっている。
 他愛のないお喋りがひどく新鮮で、気がつくともう祐巳さまの家の前。
 可南子は丁寧に礼を言うと、そのまま傘を借りる。
「後日お返ししますから」
 急がなくていいよ、という祐巳さまの声に見送られ、可南子は歩き始めた。
 本当は、ちょっと遠出して新しい服を探していたのだけれど、予定は変更。
 これから材料を買って、クッキーを焼くことに決めた。そして明日、傘と一緒に祐巳さまに渡すのだ。
 わざわざ傘のために焼いたんじゃなくて、最初から焼く予定だったから、余分に作って持っていくだけのこと。
 祐巳様に会えたのが嬉しいから、わざわざクッキーを作りたくなったなんて、言えるわけがない。
 そう決めながら、自分は誰に言い訳してるんだろう? と思うと、可南子は無性におかしくて。
 雨の中を歩きながら、微笑んでしまう。
 微かに頬を染めながら。
 
 
 
あとがき
 
 
 
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