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自惚れ
 
 
 
 出来ないことなんて無かったから、自分には何でもできると思っていた。
 常識はあるつもり。だから、本当は出来ないこともあることはわかっている。だけど、それはあくまでも常識の範囲内だから。
 ほとんどのことはできると思っていた。少し努力すれば叶うと思っていた。
 一番にはなれなくても、上位陣には入ることが出来る。それが自分。
 一番には勝てないかも知れないけれど、頑張ればすぐに二番や三番にはなれる。それが自分。
 疑ったことなど無かった。それが自分だと信じていたし、実際にそうやって生きてきた。そしてこれからもそうやって生きていく。と思っていた。
 ところが、これだ。
 人間というのは、なんて脆いものなのだろう。痛むわけでもない頭を重そうに抱え、こめかみに指を押し当てながらそう考える。
 いつもなら、もう一人の自分がまるで他人事の様にこの様子を楽しんでいるはずなのに、今回ばかりはそうも言ってられないようだった。自分の中の自分が総出で悲しんでいる、陰鬱な気分になっている、悩んでいる、落ち込んでいる、困っている。そして、涙を浮かべている。
 駄目ね。
 江利子はそう呟くと、俯いていた顔をやっとの思いで持ち上げた。
 こんなことでは、元黄薔薇さまの名前が廃る。いつだって、マイペースでやってきたのに。
 自然と出てくるため息に、何をする気も起きずに机の上に突っ伏せる。
 さっきまではベッドに寝ていたのだけれど、ベッドは駄目だと気付いて椅子に移ったのだ。
 ベッドはいけない。天井を眺めていると、何故か涙が止まらなくなるから。涙が止まらない自分など、滑稽以外の何者でもない。こんな姿は誰にも見せられない、とりわけ兄や父には。
 彼らは即座に、「我らの江利ちゃんを泣かした相手を懲らしめ隊」なるものを結成して、幕末京都の新撰組が鴨川河川敷お掃除ボランティア団体に見えてしまうほどの過酷な取り締まりを決行するに違いないのだ。
 まさか、こんなことになるなんて。
 頑張ったつもりだったのだけれど、所詮はよそ者だったということなのだろうか?
 そう考えると、また大きなため息。
 自分を誤魔化すために大きく伸びをする。誤魔化したってしょうがないのだけれど、それでもため息をついたまま縮こまっているのは嫌だ。
 
 
 
 山辺ちとせ。それが山辺さんの娘の名前。
 初めて出会ったときから、江利子には懐いてくれていた。
 だから、うまくいくに違いない、と江利子は勝手に思いこんでいたのだ。
 山辺さんの家に行ったときも、ちとせちゃんは歓迎してくれた。江利子のことをどう思っていたのかは今となってはわからないけれど、少なくとも歓迎はしてくれていた。
 もしかすると、そう思っていたのは江利子だけだったのかも知れないのだ。
 ある日、江利子は山辺さんの代わりにちとせちゃんを幼稚園まで迎えに行った。
 初めてのことではないし、幼稚園のほうも江利子の顔は見知っている。ちなみに、この幼稚園では志摩子の兄がお手伝いをしている
 幼稚園では、ちとせが保母さんと一緒に待っていた。江利子は、この保母さんとも顔見知りになっていて何度か言葉も交わしている。自分と山辺さんの関係についても知っているはずだった。
「あ、ちとせちゃん、江利子お姉ちゃんが来たよ」
 ちとせが嬉しそうに手を振っている。
 ちとせを見るたびに、何故か江利子は由乃を思い出す。別にどこかが似ているというわけでもない。髪型すら、ちとせはおかっぱで由乃とはまったく違う。
 何故思い出すのか、一度考えてみたこともあるのだけれど結論は出なかった。もしかすると、自分にとって由乃というのは幼稚園児のような存在だったのだろうか。それとも、令を巡って由乃と争っていた様に、今度は山辺さんを巡ってこの子と争う様になるのだろうか。
 それがもし、令を間にした由乃と自分の関係の様になるのなら……。江利子にとってそれは喜ばしいことなのだ。
「ちとせちゃん、お待たせ。今日はお父さん、お仕事で遅くなるから、お姉ちゃんと帰ろうね」
 ちとせは素直に、そして嬉しそうに江利子の手を取る。
「今日は、お姉ちゃんがご飯作るの?」
 たまに、江利子が夕飯に支度をするときがある。当然帰宅時間はそれだけ遅くなるので、父や兄は最初猛反対をしたのだけれど、ちとせにご飯を作ってあげるためだという江利子の言葉に、今では渋々黙認している状態だった。だから、たびたび作ってあげるわけにはいかない。少なくとも、しばらくの間は無理だ。
「ごめんね。今日はお姉ちゃん、早く帰らないと駄目なの」
「ふーん」
 ちとせは手のかからないおとなしい子だった。そしてそれが、父親に負担をかけまいとしているこの子なりの精一杯の努力なのだと気付いた江利子は、自分の出来る限り傍にいようと思っている。
「だけど、お父さんが帰るまでは一緒にいるからね」
 力一杯頷いたちとせの微笑みに、江利子はふと思う。
 ちとせちゃんにとって、自分はどういう存在なのだろう。
 面倒を見てくれる優しいお姉ちゃん。
 父親の再婚相手。
 新しいお母さん。
 どんな風に見てもらえれば、自分は嬉しいのだろうか。
 ちとせの手を引いて、山辺さんの家に向かって歩いている途中で、江利子は尋ねてみたい衝動に駆られていた。拒否されれば落ち込む内容。だから恐くて尋ねられなかった内容。
 けれど、いずれ尋ねなければならない内容。
「ねえ、ちとせちゃん」
 その時、江利子は自信を持っていた。好意的な返事がもらえるとまでさすがに思わない。でも、あっさり否定されるとも思わない。
 現に自分は、受け入れられているはず。
「もしも、ね。もしもの話だよ?」
 言いながら、江利子は自分に呆れていた。
 ――鳥居江利子、貴方にもこんな面があるのね。初めて知ったわ。
 そう言って、ニヤニヤと真正面から見つめたくなる。いや、自分なら必ずそうする。少なくとも、相手が聖や蓉子なら間違いなくそうしていただろう。
「もしかしてね」
 ――まだるっこしいこと、やめなさいな。
 心の中で別の自分が苦情を申し立てている。自分らしくないのはわかっているけれど、ことこれに関しては、自分があまりにも自分らしくないこともこれまたわかっているのだ。
 わかってはいるのだけど、止められない。
「あのね……」
 江利子は一瞬言葉を止めた。脅える自分が腹立たしい。
「あのね、ちとせちゃん。お姉ちゃんが、お母さんみたいになったらどう思う?」
 精一杯頑張ってこれか。
 江利子は自分を平手打ちしてやろうかと思った。家に帰ったら、早速鏡の前でやってみよう。この意気地なし、と責め立てながら。
「嫌」
 ちとせの言葉がよく聞こえない、と思った。だから、「え?」と間の抜けた言葉を返してしまう。
「嫌だよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
 聞こえないのではなく、聞きたくなかったらしい。
「あら、そう。残念」
 こういうときは、反射的にあっさり答える自分の性格がありがたい。
 
 
 
 というわけで、今は部屋にこもっている。
 考えれば考えるほど、自分の自惚れが酷いものだと思えてきて仕方がない。
 ちとせに受け入れられている、それも実の母親同様に。そんな風に独り決めで舞い上がっていたのだ。
 厚顔無恥、という言葉が浮かんでは消えていく。
 穴があったら入りたい、という慣用句を、身をもって知るときが来るとは思わなかったが、まさに今がその時だった。
 ちとせどころか、山辺さんの顔を見るのも恥ずかしいような気がする。
 娘が嫌がる相手を、あの人が迎え入れるわけがない。それはわかりきった結論だ。娘の嫌がる相手でも平気で迎える様な人なら、とうの昔に自分のほうから見切りを付けている。
 勿論、嫌われているわけではない。ただ、認められていないだけだ。それはもしかすると、当たり前のことなのかも知れない。母を失った子供としては、当たり前の反応なのかも知れない。
 自分で自分を慰める。
 嫌われているわけではないのだと。母親の様な存在になるのが嫌だとしても、江利子自体を嫌っているわけではないのだ。
 これから次第で、ちとせの心も変わるかも知れない。
 それより、なによりも、大事なことがある。
 江利子は自分の気持ちをよく考えた。そう、そうなのだ。例えちとせが江利子を嫌ったとしても、江利子の山辺さんへの気持ちには関係ないのだから。
 携帯の着信音。
 ゆっくりと、江利子はディスプレイに目をやった。
 『山辺』
 江利子は、携帯電話を開く。
「もしもし、江利子です」
「もしもし? ああ、江利子さん」
 当たり前だけど、電話の相手は山辺さん。
「ちとせのこと、今日もありがとう」
「いえ、いいんです」
「ちとせから聞いたんですけれど」
 江利子は、携帯の通話オフボタンを押したい衝動を必死で堪える。
「江利子さん、ちとせに母親みたいになってもいいかって聞いたんですか?」
 嫌な予感は当たった。山辺さんは娘から話を聞いているのだ。
「はい」
 嘘をついても始まらない、どんな答が返ってこようとも、江利子は嘘だけはつかないようにしようと決めた。
「ちとせが泣いてました」
 江利子は、思わず携帯電話をまじまじと眺めた。別れたときには、ちとせちゃんはニコニコと笑っていた。それが、どうして。
「お姉ちゃんがお母さんみたいになるのは嫌だと言って、泣いていたんです」
 どうして。どうしてそんなことをわざわざ。
 江利子は強く携帯電話を握りしめる。そこまで嫌がられていたのか。自分の問いは。
「ちとせに聞かれました。『お姉ちゃんも、お母さんみたいにいなくなっちゃうの?』と」
 江利子は、そんな風に考えていたわけではなかった。
 ちとせは江利子の言葉を間違って解釈していたのだ。
「申し訳ない、江利子さん」
 ホッとしていた江利子は、危うくその言葉を聞き逃してしまうところだった。
 慌てて、携帯電話を耳元に押しつける。
「申し訳ないって? 山辺さん?」
「僕がちとせに勝手に答えてしまいました」
 勝手に? 答える? 何を?
『お姉ちゃんも、お母さんみたいにいなくなっちゃうの?』 
 それがちとせの問い。
 そして、山辺さんの答は。
「江利子さんは……いえ、お姉ちゃんは居なくなったりしないよ、と答えました」
 居なくなったりしない。
 それが、山辺さんの答え。江利子が傍にいることを認める答え。
「勝手、でしたか?」
 遠慮がちに聞こえる声に、江利子は噛みつく様に答える。
「そんなわけないじゃありませんか。もっと、自分に自信を持ってください」
「よかった」
「山辺さん自身はどう思ってらっしゃるんですか」
「僕自身は……」
 しばしの沈黙。
 電話の向こうの逡巡が伝わってくる、と江利子は感じた。けれどそれは、伝えにくいことを伝えるといった類のものではない。
 言葉を探している。この場に相応しい言葉を探している。
「江利子さんにいなくなって欲しいわけがない。いや、傍にいて欲しい」
 今度は、江利子が答える番だった。
 江利子は山辺さんの言葉をしっかりと胸に刻み込む。少し、時間をかけて。
 気遣わしげな沈黙の息づかいが、電話の向こうから感じられる。
 不思議と、意地悪をしてやろうかという気持ちはなかった。いつもの自分なら、ここで意地悪の一つも言うのだろうけれど。
 だけど、違う。今は、そしてこの相手には違う。
「言われなくても、居なくなったりなんてしませんから」
 ハッキリと宣言。
「だから、山辺さんも、ちとせちゃんも、安心してください」
 次に会う約束を交わしながら江利子は思った。
 自惚れも、悪くはない。
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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