白い夢
気がつくと、高等部のお聖堂にいた。
最初に見えたのはお聖堂の天井。何がなんだかわからないでいると、少しずつ記憶が蘇る。
奇妙な倦怠感で動かせない身体。それでも頭の中だけはまるで別人のようにハッキリとしていた。
私は、目だけを動かして天井を眺めている。
記憶が正しければ、ここはリリアン女学園高等部のお聖堂。
なぜだか、自分の居場所だけはわかる。だけど、どうして自分がここにいるのかは思い出せない。
何故私はこんなところで横たわっているのだろう。
眠っていたのだろうか?
寝起きで頭が朦朧としているのか、何も思い出せない。
私は、慌てずに自分のことを思い浮かべる。
佐藤聖。
リリアン大学一回生。
住所は――。
電話番号。家族の名前。全て思い出すことが出来る。
では、今日の日付は?
わからない。それはわからない。
昨日は何をしていた?
わからない。
何故ここにいる?
わからない。
ここで何をしている?
わからない。
強い衝撃を受けると、短い期間の記憶が失われると聞いたことがある。
自分は何か事故にあったのだろうか。だとしたら、何故お聖堂に? 病院なら辻褄は合うかもしれないけれど、お聖堂ではワケがわからない。
少し時間が経つと、首から上は何とか自由に動くようになった。しかし、多少動かしてみたところで状況に変化はない。見えている範囲から考えると、やっぱりここはリリアン女学園高等部のお聖堂としか思えない。
何故ここに?
疑問がまた繰り返される。
わからない。
答えも繰り返し。
ここで何をしている?
わからない。
昨日は何をしていた?
わからない。
今日の日付は?
わからない。でも――
何かが私に語りかける。それは私の声?
今日は――
微かな物音が聞こえた。と同時に、私の体はあらかじめ定められていたかのように動き出す。
バネ仕掛けの人形のごとく――
視線の先の人影に、私は息を呑んだ。
どうして?
どうして?
ステンドグラスから光を右肩に浴びた、白く神々しい姿を私はハッキリと覚えていた。いや、忘れるはずがない。これまでも、これからも、
「……ごきげんよう」
栞は私を認めると微笑み、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
――栞。
そう言うべき私の口は、意志に反してまったく違う言葉を生みだしていた。
「……新入生?」
「そうです。今年度からリリアンに」
忘れるわけがない。狂ったかと思うほど何度も自分の中で反芻した場面が、今目の前で展開されている。私は一人の登場人物になっていた。
「――でしょうね」
私はテープレコーダーのように言葉を口にしていた。頭は何も考えていない。ただ、記録を再生しているだけ。
「名前は?」
「久保栞です」
私は思い出すことが出来る。栞に投げかけた不躾な質問の全てを。そして、それに丁寧に答える栞の返事を。
全ては記憶通りに進んだ。
お聖堂から栞が出て行く姿すら、私の記憶とは寸分の狂いもなかったのだ。
栞の姿を見送ると、私は身体の自由を取り戻した。
そしてその時になってようやく、自分が高等部の制服を着ていることに気付いたのだ。
まさかと思って、私は自分の頭に手を伸ばす。思った通り、切る前の髪だった。
今のが手の込んだ悪戯だったとしても、髪の長さを元に戻したり、私の行動を規制することなんて出来るわけがない。
これは夢なのか?
それとも、何かの拍子にもう一度やり直しているのか?
確かに、それを望んだことはある。
心の底から、やり直すことを望んだこともある。
だけど、あり得ないとわかっていた。やり直すことなんて出来ないとわかっていた。
それなのに、この世界は――
駄目だ。期待なんて出来ない。期待して、これが何かの間違いだとわかってしまえば、私は今度こそ取り返しのつかない傷を負うだろう。だから、期待してはいけない。
これは現実ではない。違うのだ。
私の望んだ世界ではないのだ。
だから、期待してはいけない。
その私の決意は、簡単に揺れ始めた。
お聖堂の外に出ても、夢は崩れなかった。逆に、私はその日の自分を鮮明に思い出していた。
何をしたか。
誰と会ったか。
何を話したか。
私は自分の記憶に基づいて行動していた。
蓉子がいた。お姉さまがいた。
江利子がいた。祥子がいた。令がいた。
そして栞。
夢ではない。
もう一度やり直すチャンスが与えられたのだ。
理由なんてわからない。だけど、もう一度栞との関係をやり直すチャンスがここにある。
もう、失いたくない。
もう一度、やり直したい。
栞が、リリアンで幸せな三年間を過ごせるように。
栞と、一日でも長く一緒にいられるように。
もっとゆっくり、そして親密になるために。
誰にも干渉させないために。
親しくなるまでは、私は記憶の通りに動いた。
そして、少しずつ記憶とは違う行動を取っていた。
山百合会にも顔を出し、自分の地位を獲得した。
学校の勉強は、既に習った記憶があるのでとても楽だった。時間を費やすことなく、上位の成績を保持することが出来た。
「なんだか、雰囲気が変わったわね」
蓉子とお姉さまから別々にそう言われたとき、私はこう尋ねた。
「貴方にとって、嫌な変化?」
「お姉さまには、私の変化はどう見えてます?」
二人は、否と答えた。私の変化は好ましい、と。
だけど、お姉さまはその後にこう続けた。
「私の予想では、もっとゆっくりだと思っていたのだけれど」
やはり、お姉さまはお姉さまだった。
私が同じ時間を繰り返していることには気付いていないのだろうが、そのために本来の私以上に内面が成長してしまっていることに気付いたのだろう。
でも、お姉さまにその理由はわからない。だから私は、お姉さまから見れば「予想より早く」成長しているように見えているのだろう。
私は構わない。栞のためなのだから。栞と共にいるためなのだから。
そして私は、栞にロザリオを渡した。
栞は、快く受け取ってくれた。
私のやり直しは順調に進む。
それでも私は、クリスマスが近づくに連れて息苦しさを感じていた。
今の栞が、リリアンを出て行く理由はない。
栞がシスターになりたがっているというのも本人から直接聞くことが出来た。私はそんな栞を妹として精一杯愛した。そして栞は応えてくれた。
成績は下がらず、教師に呼び出されることもなかった。
クリスマスは楽しく過ごすことが出来た。
私は幸せだった。栞がいて、友達がいて。そしてこの幸せは今度は終わらない。続くのだ。少なくとも、卒業までは。
私は志摩子を見た。
志摩子も私を見た。
勿論この世界の志摩子はまだ私を知らない。どんな反応が返ってくるわけもなく、ただ通りすがりに会釈をかわすだけ。
中学の制服を着た志摩子を見たのは、考えてみれば初めてだった。
あと数ヶ月で志摩子はリリアンの高校生になる。
今の私は、志摩子を妹にすることはできない。私の妹は、栞なのだ。
――志摩子を見捨てるの?
何かが囁く。それは悪魔の囁きのようで。どこかで聞いた声のようでもあって。
――自分が栞と一緒にいるために、志摩子を見捨てるの?
見捨てる訳じゃない。志摩子は強い。きっと切り抜けることが出来る。
どちらにしても、あの世界で志摩子を助けたのは私ではない。私には志摩子を助けることなど出来なかった。志摩子を助けることが出来たのは、乃梨子だったのだ。
乃梨子が志摩子を救ってくれる。それなら、一年待てばいい。
もしかしたら、待つ必要はないのかも知れない。栞が誰を妹にするか。
志摩子なら、栞の妹には相応しい。そう、志摩子が栞のロザリオを受け取ったとしても、何の違和感もないではないか。
前の世界での私と志摩子の間に、栞という存在が入るだけのこと。栞なら、志摩子を傷つけることなど決してないと信じられる。
強制はできない。だけど、導くことは出来る。
志摩子と自分の間に入った栞の存在を、私は簡単に想像することが出来た。
――私と志摩子の間?
その時私は、別の一人の顔を思い出していた。
もしかしたら、私と志摩子の間に入っていたかも知れない別の一人。
そうだ、彼女は。
栞との関係以外、私は極力元の世界と同じ道を歩むことにしていた。それは世界を変えてしまうことに対する怯えでもあった。
その時私は気付いた。
文化祭で、私と栞は当然山百合会として活動していた。
元の世界と違って、こちらの世界の私は栞と一緒に山百合会の活動に積極的に参加している。だから、わかるのだ。
文化祭に、蟹名静の名前など無かったこと。
元の世界では合唱部の代表として独唱していたはずの彼女が、この世界にはいなかったこと。
私は山百合会に常備してある生徒名簿を調べた。
蟹名静の名前がある。
『一年終了時、自主退学』
私は傍にいた令に尋ねた。
「ああ、静さん。確か、イタリアに留学したんですよ。静さんがどうかしましたか? 白薔薇さま」
「あ、いいえ、なんでもないわ。たまたま目に留まったものだから」
蟹名静はイタリアに留学している。
何故、こんなに早く。
自意識過剰と言われようとも、答はすぐに思い当たった。
私には、栞がいたから。
栞を妹にしたことで、静は素直に身を退くことが出来たのだろう。学年の離れた志摩子ではなく、静も知っている栞だからこそ、何も言わず去っていく道を選んだのだろう。
確実に世界は変わっている。
もう、ロサ・カニーナはリリアンには現れない。
それを寂しいと思う余裕も、私にはなかった。ただ、その変化が悪いものでないことを望むだけだった。
「聖。私が妹を持つとしたらどんな子がいいと思う?」
「妹は自分で選ぶものだよ」
令が由乃ちゃんを連れてきた日、栞が帰り道でそんなことを言った。
二人きりの時、栞は私を聖と呼ぶ。それは、ロザリオを渡した日に決めた約束事だった。
「令さんには、ずっと決めていた由乃ちゃんがいたけれど、私も祥子さんも、妹なんて想像も出来ないから」
「そうね、急ぐことはないと思う。別に、妹は持たなければならないものでもないから」
元の世界と同じなら、祐巳ちゃんが祥子の妹になるのは二学期に入ってから。だから、栞も急ぐ必要はない。
それに、出来ることなら私は志摩子を孫にしたい。
「聖のお姉さまは、聖を顔で選んだ、って言ったのよね」
「そうよ。実は、私も栞を顔で選んだの」
そう言って笑うと、栞も微笑みを返してくれる。
「それじゃあ、私も顔で妹を選ぼうかしら」
「それなら、とっても綺麗な子が一人いたわよ」
これなら、栞の注意を自然に志摩子へと向けることが出来る。志摩子は、放っておけば誰の妹にもならない子だ。その意味では焦る必要はないのだけれど、栞を姉にしたがる一年生は決して少なくないだろう。
その全てに容易く否を返すには、栞は優しすぎる。
「綺麗な子より、可愛らしい子がいいわ」
私は首を傾げていた。
栞は何を言っているの?
「おさげの可愛い子がいたわよね。ほら、カメラを肌身離さずにいる眼鏡の子と同じクラスにいた」
私はすぐに理解した。
栞は、祐巳ちゃんを見ている。
そうだ。栞なら、わかるのだろう。つきあってみなければわからない祐巳ちゃんの内面の輝きを、栞は簡単に見つけてしまったのだろう。
「そのクラスに、巻き髪のふわふわとした綺麗な子がいたでしょう?」
「さあ、気付かなかったわ」
どうするべきだろう。
私は考えていた。
既に、元の世界とは違う部分がちらほらと見えてきている。
由乃ちゃんは、今のところ薔薇の館ではただ一人の一年生だ。
栞は、祐巳ちゃんに興味を示している。
私は、どうするべきなのか。
もし、栞が祐巳ちゃんにロザリオを渡せば、祥子はどうなるのだろう。
――瞳子ちゃん?
そうだ。そうなれば、祥子の妹は決まらず、来年度に新入学してくる瞳子ちゃんが祥子の妹に収まるだろう。
その頃には、乃梨子ちゃんも入学している。
乃梨子ちゃんと志摩子のなれそめを考えれば、学園内の出来事に関わりなく二人は出会えるはずだ。そうすれば、志摩子は救われる。
それで、万事丸く収まるのではないだろうか。
元の世界では、祐巳ちゃんのおかげで祥子はいい方向に変わっていた。
同じ事を瞳子ちゃんに出来るとは思えない。けれど、直接の姉妹ではないとしても、白薔薇のつぼみの妹として祐巳ちゃんが薔薇の館に出入りするようになれば、祥子に何らかのいい影響は与えることが出来るだろう。
それでいい。それでいいはずだ。
――本当に?
それでいいのだろうか?
祐巳ちゃんの存在で救われた人はどうなる?
由乃ちゃんの手術のきっかけは?
蓉子の夢を叶えるのは?
祖母を失った祥子を立ち直らせるのは?
可南子ちゃんを救うのは?
また、声が聞こえる。悪魔の囁き。
――救わなければいいじゃない。
――救われたのは別の世界の物語。
――それは、夢。
――現実はこちら。
――栞がいて、静と志摩子がいない。それが現実。
――佐藤聖は救われている。それ以上、何を望むの?
――私はこのまま救われたい。
――これはエゴじゃない。ただ、救われたいだけ。
――誰が、私を責められるというの?
どこかで聞いた声が囁く。
私は、考えるのをやめた。
「栞。祐巳ちゃんを一度、薔薇の館に招待してみたら?」
栞と私は、祐巳ちゃんを歓迎する計画を考えた。
栞の妹候補だということで、他のメンバーも皆賛成してくれた。
皆、楽しそう。
良かった。これで良かったのだ。
皆、楽しそうにしている。この風景が、間違いであるはずがない。
それでも私は何か忘れているような気がしていた。
いや、この光景とは何の関係もないことだったような気がする。でも、何か重要なこと。
栞、蓉子、江利子、祥子、令、由乃ちゃん。
誰の顔を見ても何も思い出せない。この中の誰かに関することではないのだろうか。
ここにいない者?
志摩子、祐巳ちゃん。
違う。
何かを忘れているという思いが消えない。
元の世界で、今日は何かがあった日なのだ。
私に関連のある人。
リリアンに関係のある人。
だれだろう。
「お姉さま、部屋に飾る花を摘んでこようと思うのですけれど、ご一緒しません?」
栞の言葉に私は一も二もなく頷く。花よりも、外の新鮮な空気が吸いたかった。
「校舎の裏手に、園芸部が小さな花壇を作っているんです」
「勝手に摘んでもいいの?」
「クラスの園芸部の子に声をかけて、許可はもらいました」
「さすが栞、そつがないね」
「聖の近くにいると、嫌でもしっかり者になるの」
「あははは、そりゃそうだ」
校舎の横を回ろうとしたとき、私の嫌な予感は急激に高まった。
いったい、何があるというのだろう。
先に進んでいた栞の姿が建物の陰に隠れる。その直後に悲鳴が聞こえた。
「栞!?」
走り出しながら、私は思い出していた。
そうだ。今日は私は“彼女”と出会うはずだった。“彼女”を救うはずだった。
角を曲がった私は、泣きながら戻ってくる栞とぶつかりそうになり、咄嗟に抱きとめた。
「栞?」
「カ、カラスが……カラスが子猫を……」
私は無惨な姿に目を向けることは出来なかった。
「わかった。とりあえず落ち着こう、栞」
私は、この世界のゴロンタを救えなかった。
私は、救えなかった。
栞と一緒にいることと引き替えに、ゴロンタはカラスに襲われた。
――これで終わりじゃない。
――これが始まり。
悪魔の囁きに向かって、私は心の中で叫んでいた。
違う。違う。違う。違う。
――うん。違うよ。これは始まりじゃない。
――もうとっくに始まっていたのに気付かなかったんだ。
――蟹名静が幸福になったと思っているの?
――終わらないよ。まだ、終わらないよ。
どこかで聞いた声の囁きは続く。
――水野蓉子がいるよ。
――小笠原祥子がいるよ。
――島津由乃がいるよ。
――松平瞳子がいるよ。
――細川可南子がいるよ。
――まだまだ、いるよ。
――栞の代わりに失うものが、まだまだあるよ。
――佐藤聖の幸福を護るために不幸になる者がたくさんいるよ。
私は子猫の死骸に目をやった。
受け入れる。
私は受け入れる。
これが私の望んだ世界。
これが私の作った世界。
これが私の世界。
何を捨てても、誰を不幸にしても、私が勝ち取った世界。
震えが止まらなかった。
本当に私はこれを望んだの?
本当に、私はこれでいいの?
「いいのよ、聖」
腕の中で呟いた栞の声は、あの囁きとそっくりだった。